富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

 「『大宴会』のたとえ」 ルカによる福音書14章15-24、マタイによる福音書22章1-14

2020-03-28 23:21:40 | キリスト教
        ↑絵画「大宴会のたとえ」Artist :Brunswick Monogrammist  (1525~1545年)
           ワルシャワ国立博物館(ポーランド)
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 
                  日本福音教団 富 谷 教 会     週  報
            受難節第5主日 2020年3月29日(日)      午後5時~5時50分
年間標語  「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて    体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
                         (エフェソ3・16-17)
           礼 拝 順 序
                司会 千田 開作兄
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21)   6(つくりぬしを讃美します)
交読詩編   90(主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ)   
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ルカによる福音書14章15-24節(新p137)
説  教     「『大宴会』のたとえ」辺見宗邦牧師
祈 祷                
讃美歌(21)  474(わが身の望みは)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏

            次週礼拝 4月5日(日) 午後5時~5時50分  
            聖 書  マタイによる福音書18章21-35
            説教題   「『仲間を赦さない家来』のたとえ」
            讃美歌(21) 436 445  302  交読詩篇 64     

    本日の聖書  ルカによる福音書14章15-24節  
 14:15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 19ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 21僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」
        本日の説教
 イエスがエルサレムへ行く途上のことです。14章1節によると、イエスはファリサイ派のある議員の招待を受けて食事をしていた時に、招いてくれた人に、宴会を催すときには、お返しができないような人たちを招きなさいと教えました。それは宴席の主人役をすることが、他の人々の上に立つ力を得るためであり、自分の行為に報いを期待する場合が多いからです。神が主人である神の国での宴会のように、宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい、と勧めました。「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いです。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われます。」と教えられました。
 すると食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。そこで、イエスは神の国への招きを主題とする「大宴会のたとえ」を話されるのです。
この物語は、盛大な宴会を用意している主人に関するものです。主人は、その宴会に前もって客を招いていました。宴会の日の時刻になったので、主人は招いておいた人々のところに僕を送り、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせました。すると招かれた客は皆、次々に断りました。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言いました。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。彼らは、ただちに、皆行かれないと言い訳をしました。
僕は帰って、このことを主人に報告しました。すると、家の主人は怒って、宴会の席を客で満たそうと決心して、僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」と言いました。
   やがて、僕が、「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、 主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来なさい。この家をいっぱいにしてくれ。」と語りました。
   「(わたしはあなたがたに)言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と言われました。
   この最後の言葉の語り手は、たとえの中の主人ではなく、イエス自身である「私」に移行しています。そして「わたしの食事」は、イエスの招く神の国の食事となります。「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」とは、たとえの中で最初に招かれていた人々は。わたしの食卓に座る権利を喪失したからである」と語られました。「わたしの食事を味わう者」は未来形です。神の国の祝宴に参加でるように早く改心せよという警告です。そして、このたとえが向けられているのは、もはや僕ではなく、(あなたがた)すべての人間なのです。「
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と信心深い言葉でこのたとえを導いた客にとって、新しい客が招かれている宴会の最後の場面は、非常な驚きであったに違いありません。この人は明らかに、彼が呼ばれた宴会を楽しんでいただけでなく、神の国での救い主の宴会に、自分の席が予約されていると自信をもっていたのです。ところが、彼が、イエスの物語の中で食卓に着く客たちを調べたところ、自分も自分の友人たちも、その中にいなかったのです。
  終末の神の救いを、神の国の宴会で表すのは旧約以来のことです(イザヤ書25:6、ルカ13:29)。招待の使者である僕がだれを指すのかー預言者―イェスー弟子たち、三者のうちどれでもあり得ます。招待客はまずユダヤ人だったが、イエス以後はだれにでも当てはまるたとえです。招待客の断りは、すべてこの世の富と家族の絆によって神の国への招きを拒むなという警告です。中近東の「広場や路地」には、貧しい人や身体障害者が多くいました。しかし社会から疎外された彼らはイエスの神の国に招かれる人々です(ルカ14:12参照)。「通りや小道に出て」、手当たり次第に連れて来るようにという命令は、地位身分、地縁血縁を問わないということであり、多分ここでは異邦人を示唆しているものと思われます。こうして神の国の招きがなお続いていること、決定的な終末にはまだ時があることを示唆しています。人々を「無理にでも連れて来る」という強制的招きは、大宴会は完全に遂行されなければならないという主人の意欲を示すものであり、神が御国を完成しようとしておられる強い意思を示しています。この神の恵みによる計画による招きによって、頑なな私たちは救われるのです。
  マタイによる福音書22章1-14の「婚宴のたとえ」は、内容が、ルカの「『大宴会』のたとえ」と共通しています。マタイの場合は、聖書に登場する事物を暗示的に表現する寓喩的要素が含まれています。ルカのたとえの<ある人>は<王>であり、王とはあきらかに神のことです。<王子(原語は「彼の息子」>とはイエスを表しています。王子のための婚宴とは、メシア・イエスの晩餐会を表しています。そして招待客を招くために遣わされた人々とは、預言者たちであり、キリスト教の宣教者です。王の僕たち(家来たち)に対する虐待の待遇は、イスラエルがとった、神の預言者たちに対する暴力的待遇を思い起させます。また反逆者たちの町を焼く払ったことは、ローマ人による紀元七十年のエルサレム破壊です。そして「善人にも悪人にも」出された招待は異邦人伝道を表しています。
  マタイの福音書では、11節以下の結論のところでは、キリスト者に対する審判を強調しています。この部分はルカにはありません。福音記者マタイが、別の婚礼についてのたとえの記事を付加しました。22章1節の「イエスは、また、たとえを用いて語られた」という、たとえの導入部分にある「たとえ」は複数形です。この「婚礼のたとえ」は、二つの資料から構成されているのです。この後半部分に、王子の婚宴で、客がいっぱいになったとき、王は婚礼の礼服を着ないでいる者を見つけ、側近の者たちに男を縛って外に放り出す場面が書かれています。道端で急に宴会に呼ばれた人が礼服をつけていないのは当然なことですが、付加部分の記事なので、前後関係が無視されています。
   付加されたたとえでは、婚宴とはメシア・イエスの晩餐会ではなく、婚礼の後に王(イエス)によるキリスト者に対する審判が記されています。その審判で要求されている衣装とは、「キリストを着る」(ローマ13:14.ガラテヤ3:27)ことであり、イザヤ書の「救いの衣、恵みの晴れ着」(イザヤ書61:10)です。また、新しい人を身に着る (エペソ4:22-24)ことです。すなわちイエスの教えに基づいた振舞いなのです。彼が黙っていたのは弁解の言葉がなかったからです。キリストの義で覆われることは、御国の民にとって不可欠なものです。彼は、福音という招待を受け入れたが、彼の生活は福音にふさわしい生き方をしていなかったのです。このような婚礼の衣服を着用していなければ悲劇的な結果が待ち受けていることが語られています。
   「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉ですが、「招かれる人」とは、最初に招待を受けていた人々、すなわちイスラエルの民を指し、その後に招かれた人たちをも指します。「選ばれる人」とは、イエスと彼の福音を受け入れ、御国の民として実を結ぶ人たちのことです。イエスは、全ての人に対する神の招きと、応答してふさわしい実を結ぶ者のみが救われるという両方の真理をこのたとえで明らかにされました。
   この物語は、今日のわたしたちに対しても語られています。主イエスの十字架と復活により、そして聖霊降臨日の聖霊の賜物によって、御国は信じる人々すべてに広く開かれました。キリストはこのたとえで語ろうとしたことは、神の国は、わたしたちが直ちに応答することを求められている神の恵の招きであるということです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント二、6:1-2)

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