富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

 「キリストの勝利」 ヨハネによる福音書16章25~33節

2020-05-17 12:48:44 | キリスト教
〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403
                   日本福音教団 富 谷 教 会    週 報
              復活節第六主日   2020年5月17日(日)      午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」                       
                         (エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
                司会 斎藤 美保姉
前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 289(みどりもふかき)
交読詩編    8(主よ)
主の祈り   93-5、A
使徒信条   93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書16章25~33節(p.201) 
説 教     「キリストの勝利」
祈 祷                 辺見宗邦牧師                
聖餐式    72(まごころもて)
讃美歌(21) 377(神はわが砦)
献 金
感謝祈祷              
頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)
祝 祷             
後 奏

                                        次週礼拝 5月24日(日)  午後5時~5時50分  
                                         聖 書 ヨハネによる福音書7章32~39節
                                         説教題 「キリストの昇天」 
                                         讃美歌(21) 531 336 24 交読詩篇 46
               
                 本日の聖書 ヨハネによる福音書16章25~33節
 25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
                                
                                  本日の説教
 ヨハネによる福音書では、最後の晩餐が13章から始まります。最後の晩餐の席で話された、弟子たちに対するイエスの別れの説教は告別の説教、訣別の説教などと呼ばれていますが、13章31節から始まります。「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を与えます。
本格的な別れの説教は、14章1節から31節まで展開されます。イエスは父に至る道であり、あなたがたのために父の家に住む場所を用意しに行くと伝え、聖霊を与える約束をします。
そして15章1節から16章33節まで第二の別れの説教が語られます。15章1節以下では、イエスはまことのぶどうの木であり、イエスにつながっていれば、豊かに実を結ぶようになると教えます。16章1節から24節では、イエスの昇天と聖霊の降臨について語られます。
16章25節以下の今日の聖書の箇所は、第二の別れの説教の最後の部分にあたります。
 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(25節)
これまで話した天上の真理が、たとえを用いたものだったのですが、もはやたとえによらないで、はっきり天上の父について知らせる時が来るとイエスは弟子たちに語りかけます。これまでは、弟子たちにとって、たとえであっても何のことか分からない謎のような話だったのです。それは、天上の真理を分からせてくださる聖霊が、まだ弟子たちに与えられていなかったからです。しかし、イエスが昇天し、聖霊において再び来られるイエスは、謎を残すことなく、神の啓示を告げ知らせる時が来る、と言われます。
 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」(26節)
「その日」とは、聖霊が弟子たちに与えられる時を指します。聖霊が与えられることによって、父なる神と弟子たちとの間に、祈りによる内的結合関係ができる時のことです。その日には弟子たちは、イエスの名によって父に願い、その祈りはすべて聞かれる。そうであれば、イエスのとりなす必要はなくなります。
「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(27節)
イエスが神から来られた方であることを弟子たちが信じたために、父の愛が弟子たちの上にとどまるからです。神が私たちを愛してくださる条件は、このイエス・キリストに対する私たちの愛と信仰です。
 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(28節)
イエスは、神と共にあった神の子であったが、父のもとから遣わされて世に来て、人間となられた。そして、受難と十字架によって<世を去って、父のもとに行き>、栄光を現すのです。
「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」(29-30節)
弟子たちは、イエスの全知と神的起源に対する信仰を言い表したのです。彼らが信仰に至った理由は、人の心の奥底まで見抜くイエスの神的力を認めたからです。
 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」(31節)
弟子たちはしるしを見て信じたのではなく、イエスの言葉によって、イエスが神的存在であることを信じたのです。だが弟子たちの告白した信仰には、実は彼らの生命がかけられていませんでした。
「『だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』」(32節)
イエスは弟子たちが、イエスの受難に際して、イエスを捨てて、散り散りになってしまうことを予告します。弟子たちの信仰が、人間的な頑張りや意気込みによるものであり、イエスと弟子たちとの間に、まだ本当に永続的結合関係ができていませんでした。この関係は復活のイエスとの出会いまで待たなければなりませんでした。弟子たちは、イエスを裏切り、捨てるという自分たちのどん底にまで至る挫折の中においてこそ、イエスは自分たちを支え給うという事実を、まだ知りませんでした。まだ聖霊を受けることなく、地上のイエスに向かって、すでに正しい信仰を告白したと信じた彼らは、実は自分の人間的な知識や判断によって、天上の真理を知り得るという自信を抱いていました。しかし、神の真理が本当に明らかに示されとき、それは実に私たちの人間的破綻を、どん底に至るまで暴露するものです。このどん底から天を仰ぐとき、もはや信ずるという事じたい、自分の側の決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜わる恩恵であることを知るのです。この厳粛な人生の事実を、イエスは鋭く見抜いておられたのです。
 イエスは、弟子たちの逃亡という状況を目の前にしても、孤独ではなく、<父が共にいてくださる>ことを宣言します。それは、まさに、受難に雄々しく立ち向かうキリストを示しています。
 「『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。』」(33節a)
私たちが人生の挫折によってあわてふためき、絶望に堕ちることなく、そのどん底において支えて下さるイエスを仰いで、魂の平安を得るために、これらのことを話したのだ、とイエスは語られます。しかし、この真理もまた、一つの謎です。なぜならば、聖霊によって、私たちの全存在が父なる神に固く結びつけられ、人間的挫折のどん底において、イエスの勝利に支えられる時に至るまで、この御言葉の真意は、やはり一つの謎でしかないからです。イエスの御言葉は、聖霊によって人格的に示されるまでは、やはり理解し尽くすことのできない謎としてとどまるほかはありません。
「『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』」(33節b)
 この言葉は、四章にわたる「別れの説教」をしめくくるにふさわしい、感銘深い、力強い主イエスの言葉です。イエスは、やがて事実となるであろう弟子たちの挫折を予見しつつ、それにもかかわらず決して滅び去ることのない勝利を、はっきり示されました。そしてこの言葉は、あとに残された弟子たちの心の中に、忘れることのできないものとして、深く刻み込まれました。やがてペトロはイエスを否み、他の弟子たちも共にイエスを捨て去ります。この挫折と背信の行為にかかわらず、復活のイエスは彼らをふたたび召し出し、そのすべての罪を赦して、新し宣教に立たせてくださるのです。
キリストの教会は、立派な信仰者の勇気と徳の上に建てられたのではなく、その基礎を築いた人々は、むしろ挫折し、面目を失墜した敗北者たちでした。イエスの勝利が、これらの敗北者たちを再び立ち上がらせ、イエスの御業が、彼らの弱さを支えたのです。
 主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある」といたわるように言われます。私たちのすべての苦難、悩み、苦しみ、病、死を、イエスはことごとく知っておられます。主は人となって自らも同じような、もっとつらい体験されたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・14-15)とあるとおりです。
イエスは私たちに、「しかし、勇気を出しなさい」と言われます。主は私たちと共に忍び、耐え、悩み、苦しみ、私たちの背負う重荷を共に背負ってくださるのです。弟子たちは、イエスの言葉によって、どのような状況に直面しても、平和を与えられ、勇気を出すことができる者とされます。
「わたしは既に世に勝っている」とイエスは言われます。神の御子イエスを否定し、抹殺する世の力にも、受難や十字架の死にも、世の罪の支配にも、すでに勝利していると、イエスは言われます。イエスの復活と天への帰還は、勝利の凱旋です。そのことを確信して、弟子たちは、イエスと同様、雄々しく生きることが出来るのです。こうしてイエスの訣別説教は、イエスの劇的な励ましと慰めの言葉によって閉じられます。
 イエスの勝利は、まだ私たちの勝利でないかも知れませんが、この勝利者イエスを信じることによって、イエスの勝利が私たちに与えられることが約束されているのです。悲しみや、悩みに打ちひしがれて、布団をかぶって寝ていても仕方がありません。イエスはわたしたちに、再びこの世に出ていく勇気を与えようとされます。イエスはわたしたちを限りなく深く愛され、わたしたちの重荷を共に背負い、一緒になって戦い、わたしたちに勝利を与えようとされるからです。主イエスが今も生きて、世に勝った主として私たちと共に歩んでくださる、このキリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストと共にいることを目指す生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです。
「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。」(一コリント15:57)
パウロは、わたしたちは勝利を与えられている、「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と勧めます。どんなに小さな業であっても、それがイエスの御名によってなされる業であるならば、その働きは無駄にならない、いや、豊かな実を結ぶことができるのだということを信じて、与えられている業に励みましょう。

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