富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主イエスの言葉を聞いて行う者」

2020-02-09 20:55:43 | キリスト教

          ↑ 山上の説教の山は、ガリラヤ湖の北岸の町、カファルナウムの北西にある「祝福の山」とされています。湖面から125メートルの小高い山には1938年に建てられた美しい八角堂のフランシスコ会教会があります。山の下に広がる斜面の先に、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことができます。 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会     週   報

            降誕節第7主日  2020年2月9日(日)         午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                          礼 拝 順 序

                                                          司会 千田 開作兄

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   19(天は神の栄光を物語り)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章24~29節(新p.12)

説  教  「主イエスの言葉を行う者」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                     次週礼拝 2月16日(日) 午後5時~5時50分  

                     聖 書 マタイによる福音書25章14~30節

                     説教題   「タラントのたとえ」

                     讃美歌(21) 539(旧) 290 交読詩編 32    

      本日の聖書 マタイによる福音書7章24~29節

 7:24「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」 28イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 29彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

            本日の説教

 マタイ五章から始まる山上の説教は、これまで、①「山上の説教ー八つの幸いの教え」5章1~12節、②「八つの祝福と、地の塩・世の光である信徒」5章1~16節、③「律法の完成と隣人との和解」5章17~26節、④「姦淫、離婚、誓いについて」5章27~37節、⑤「あなたの敵を愛しなさい。」5章38~48節、⑥「『主の祈り』とその他の祈り」6章1~18節、⑦「明日のことまで思い悩むな」6章19-34節、⑧「求めなさい。そうすれば、与えられる。」7章1-23節、そして、今日の⑨「イエスの言葉を行う者」7章24~29節で終わることになります。

 これまでこの山上の説教は、その内容があまりにも高遠であり、その要求があまりにもきびしいために、これを一つの理想と考え、必ずしもそこまで至らなくても、それに至るように努力すればよいというように考える人々がおりました。また、この山上の説教を実行不可能と解し、その不可能であることを自覚して、キリストの十字架の救いに寄り頼むようにさせることだと考える人々もいました。

しかし、主イエスは、山上の説教を終えるにあたって、家を建築するときの土台のたとえを語って、主の教えに聞き従い、実行することを決断するようにせまります。

「わたしのこれらの言葉」とは、五章から始まる山上の説教全体を意味します。それらは従来の律法をしのぐ教えであり、何よりも隣人愛の教えです。「聞いて行う」とは、「わたしの天の父の御心を行う」(マタイ7・21)ことです。したがって「これらの言葉」とは、神の言葉がイエスの言葉として特徴づけられています。神の言葉はイエス・キリストを通して、決定的な形で私たちに語られるのです。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのです」(ヘブライ1・1)。

イエスの言葉を聞いて行う者は皆、「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われ、イエスの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と二種類の人間を例にあげます。岩の上に建てた家を、ルカ福音書では、「地面を深く堀り下げ、岩の上に土台を置いて」(ルカ6・48)建てた家と記しています。二つの家は、土台以外には同じ家の建て方をしています。岩の上に建てた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても」、倒れませんでした。他方、軟弱な砂の上に建てた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると」、倒れて、その倒れ方がひどかったというのです。「その倒れ方はひどかった」とは、救助不可能であることを示しています。この危機を意識し、それに備えて人はそれぞれ現在の生を見直し、イエスの言葉を聞いて行う人になりなさい、と主イエスは勧めているのです。地上には不意の襲う暴風や豪雨や洪水といった自然災害があります。私たちの信仰生活にも不意に襲う誘惑、疾病、貧困、迫害、苦難など、襲って来て信仰を大きくゆさぶります。それに打ち勝つことが出来るのは、土台の岩となるイエス・キリストであり、その主の教えを聞いて行う人だと、言うのです。砂の上に家を建てた人は、イエスの教えを聞くだけで、行わない人です。主の教え以外のものに頼っている人です。

豪雨と暴風によって表されているもう一つの重要なことは、私たちすべてに最後に訪れる死です。私たちは死に直面しなければなりません。この死に対する備えが出来ていなければなりません。主イエスのみを土台としている人は、ただ主の憐れみにより頼む心の貧しい者です。主イェスは天国はあなたがたのものであると祝福し、私たちを天国に迎えて下さるのです。臨終の時も私たちと共にいてくださって、私たちを支え、栄光の御国へと迎えてくださるのです。キリストによって示された神の愛から、死も黄泉の力も私たちを引き離すことは出来ないのです(ロ-マ書8・29)。

山上の説教は「幸いである」という八つの祝福のことばで始まっています。イエスはまず、御国の民に与えられている祝福を解き明かされました。真の幸せを与えるのは神なのです。主はまず八つの祝福の中で、ご自分の民・神の民がどのようになるかを述べたのです。人間が自己の力に頼り、自己満足に留まって、自らの真実の姿、罪に目を向けようとしない所には、真実の幸福は存在しないことを明確にし、真実の幸福は神との正しい関係の中で与えられことを明らかにしたのです。

「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」の気質は、人の生まれつきの傾向と呼ばれるもののことを言っているのではありません。この一つ一つは、神の民とされた者たちに注がれる恵みの聖霊の働きによって、作り出される気質なのです。感謝すべきことは、キリストの救いの恵みにあずかって神の子とされたすべての者が、このようなすべての気質を与えられ、神の祝福を与えられるのです。

生まれつきのままで立派なキリスト者のように見える人たちがいますが、キリスト者とは本質的な違いがあります。その求めるものにおいて明らかに異なっているのです。世の人は、富か、金か、身分か、地位か、名声か、自己の誇りを求めています。キリスト者は、何よりもまず、神の国と神の義、すなわち神との正しい関係を求める者たちです。

山上の説教は、聖霊を受けている神の民の生き方を示しました。生まれながらの人が、自分で自分を神との正しい関係に入れようと努力する姿を描写したのではありません。主は聖霊の賜物を私たちに与えて、この山上の説教の生き方に一致できる民となることを描写したのです。それは私たちが罪がないとか、完全であるとかという意味ではありません。自分の足りなさを自覚しつつ、聖霊に満たされことを祈り求め、義に飢え渇き、神の数々の約束が自分の日常生活の中に実現されていくという祝福された経験を与えられつつ、主の御言葉を聞いて行うことに努めるのです。

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」、と山上の説教は締めくくらえます。そして再び群衆に言及します。群衆はその教えに非常に驚きました。彼らが驚いたのは、イエスが自らの権威に基づいて教えたからでした。当時民衆から見れば、律法学者も権威をもって語ったが、律法学者は聖書の権威に依存した権威でした。これに対してイエスは、「あなたがたが聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、自らの言葉をそれ以上のものとして教えられました。「わたしの言葉を聞いて行う者は」と、主イエスは神の権威をもって語られたのです。

主イエスは何のために世に来られたのか。何のためにこの説教を語られたのか。山上の説教は何を告げているのか。主イエスはこの説教の中で、人間の努力や生まれながらの能力では神の栄光を受けられなくなっており、どんなに努力しても、それによって自分を神の前に立つのにふさわしい者とすることは出来ないと言っています。私たちすべてに、新しい性質が、新しいいのちが必要であると言っているのです。この新しいいのちを私たちに与えるために主は来られたのです。主は、神の民としてなすべき教えを実行可能とするために来られたのです。山上の説教は、主イエスが「わたしの言葉を聞いて行う者は」と言われたように、主イエスのことばが神のことばなのです。この主イエスの十字架の贖いの死と復活による恵みにあずからせていただくことによって、人間は自己義認や罪への絶望から解放され、聖霊を与えられ、神の恵みに対する感謝の応答として、御心に従って生きようとする決意を与えられるのです。

 

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