↑ 「いつも感謝しなさい。父である神に、あらゆることについて(あなたの人生でかかわるすべての人に)、わたしたちの主イエス・キリストの名によって。」(エフェソ5・20) 括弧( )内の訳は、The Passion Translation(パッション訳)という英語訳です。
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第十四主日 2020年9月6日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 斎藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 220(日かげしずかに)
交読詩編 98(あたらしい歌を主に向かって歌え)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙5章11節~20節(新p.282)
説 教 「新しい人間―聖霊に満たされて生活」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 9月13日(日)午後5時~5時50分
聖 書 ヨハネの手紙一5章11~20節
説教題 「神に属する者」
讃美歌(21) 214 521 27 交読詩篇 65
本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章11節~20節
5・11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
本日の説教
この手紙は紀元80年代に編纂されました。著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。
内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神のキリストを中心とする偉大なる救いの御計画(1・3~14)と、キリストによるその実現、さらにキリストの教会(1・23等)の意義が示されています。救いがただ恩寵のみによること(2・5等)、「この世で希望もなく神もなかった」(2・12)救われる前の<古い人>と、救われた後の<新しい人>との対比、人間の敵意という「隔ての中垣」(2・14)がただキリストの十字架のみによって取り除かれるということ等が説かれています。
これらの基本的事実の確認を土台として、それに対する一般的なキリスト教の倫理が展開されています。4章以下がその実践的な教えです。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。
初めに4章17~24節で、バプテスマとの関連で、キリスト者の倫理生活の基礎づけを行っています。パウロは、「以前のような生き方、滅びに向かっていた古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」と4章22,23節で勧めました。それは、<古き人>を脱ぎ捨てて「新しい人を着るべきである」の一言に要約されます。
4章25~32節では、その基礎づけを聖霊の面から行っています。「御霊に導かれた生活」について語ります。そして次に,5章1~14節では、それを父なる神に愛されている者、すなわち神の子らの生活として、規定しています。5章15~21節は、各論に入る前に、総論的に、キリスト者の生活を「互いに仕え合う」生活として簡潔に要約しています。その次に各論に入ります。夫と妻(5・22~31)、親と子(6・1~4)奴隷と主人(6・5~9)、そして信仰の戦いとその栄光に満ちた勝利について述べ、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励まし(6・10~20)、全体を結んでいます。
次の区分は、EKK新約聖書注解Ⅹ「エペソ人への手紙」によります。
Ⅰ 1・1~2・10 挨拶と神への讃美とパウロの祈りと彼ら(読者)がキリスト者となっ
たことこと
1・1-2 挨拶
1・3-14 賛歌
1・15-23 パウロの祈り
2・1-10 キリスト者の新しい存在(死から命へ)
Ⅱ 2・11~3・21 救いの奥義としてのキリスト者の存在
2・11-22 キリストにおいて一つとなる
3・1-13 異邦人のためのパウロの働き
3・14-21 キリストの愛を知る
Ⅲ 4・1~6・20 教会と世界におけるキリスト者の存在実現
4・1-16 キリスト者の存在の場としての教会(キリストの体は一つ)
4・17-5・14 非キリスト教的環境におけるキリストにある生活
a 4・17-24「新しい人」の実現(古き生き方を捨てる)
b 4・25-5・2 古い性癖を捨て、キリストにふさわしいあり方を求める(新しい生き方)
c 5・3-14 異教の悪徳(性的不道徳)を避け、光の子供として生きる
5・15-6・9 キリストにある教会生活
a 5・15-20 御霊に満たされた生活
b 5・21-33 妻と夫のふるまい
c 6・1-9 父親と子、奴隷と主人とのふるまい
6・10-20 この世における悪の力との戦い、たえず目を覚まして祈ること(悪と戦え)
Ⅳ 6・21~24 手紙の結びの言葉
今日の聖書の箇所は、5章6節以下の「光の子として生きる」という勧めに続き、キリスト者の生活の具体的な教えと移っていきます。
「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」(5・11-13)
<実を結ばない暗闇の業>は、人間生活の目的のために何ももたらしません。<闇>は、そうしたわざが行われる闇の領域を意味するだけでなく、<ひそかに行われること>(12節)、それを行う人自身をも表します。<やみのわざに加わる>とは仲間にならないことを意味します。そのために必要なことは、やみのわざを指摘し、それを明るみにだすことです。罪を明らかにし、認めさせることは、、キリスト者が悪いわざをともにしないこと、主の光によって導かれている別の生き方について彼らが証することによってなされます。
キリスト者の存在はキリストにあって光であり、やみの世界に影響力をもつ者となっているのです。神のことばは人間と世界の醜い状態を暴露し、いっさいをさらけ出すことの中で悔い改めに人を導きます。
「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(5・14)
<明らかにされるものはみな、光となるのです>は、光によって明らかにされるものは光の中にあるように、8節の「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」ということを表しているようです。また、暗い目標に光を絶え間なく注ぐと、それを光のように変えるので、異教社会に対するキリスト者の良き努力は、初めははずかしめられるであろうが、ついにはそれを清めることを表していると思われます。
次の<眠りにいている者>の最初の二行の<起きよ><立ち上がれ>は、罪と死との異教の眠りからさめるように、との呼びかけであり、キリストが彼の真実の救いの光を、回心者の上に照らすであろうという約束を伴っています。キリストの光が死と暗黒の中にいるものを新しいいのちの中によみがえらせるのです。
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」(5・15)
賢さとは神から与えられた知恵をもって生きることです。彼は正しく判断する能力をもち状況を観察し、決して自己の主観的感情に溺れません。彼はすでに「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意」を捨て、新しい人を着たのです。ヤコブ(ヤコブの手紙3・13~17)も「上からの知恵」と「地上の知恵」とを分けています。上からの知恵は、<柔和、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません>。地上の知恵は、<ねたみや利己心、自慢や混乱、あらゆる悪い行い>です。
「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」(5・16)
<時をよく用いる>とは、キリスト者は自分の<おわり>と向きあいつつ、残されたあらゆる機会を生かして用い、主の御心を実践することです。
「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5・17)
<分別のある者>とは、主のみ旨を悟っている者のことです。主の支配に完全に復するときに、主のみ旨は与えられます。私たちはキリストに服従しそこに生まれる信仰により自分を治めるのです。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」(5・18)
キリストへの服従は生活に歓喜をもたらし、判断と決断をより賢明にさせます。それは酒に酔う以上のすぐれた喜びを与えます。パウロは飲酒を禁ずるために酒に酔うなと言ったのではありません。御霊による喜びと陶酔を排除し、喜びの提供を手近なところに求める心根のいやしさを戒めたのです。わたしたちは肉の喜び対し、霊の喜びがあることを知らねばなりません。
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(5・19)
<霊に満たされる>とは、私たちの霊と体が、全く御霊の支配のもとに置かれ、しかも常にそのような状態にあることです。教会で<詩編と賛歌と霊的な歌>があふれるだけでなく、日々昼も夜も、主に向かって心から歌い、賛美する生活を送ることが大切です。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。」(詩編147・1)とあります。<語り合い>とは、共同の告白のもとに生きる教会の姿です。
そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(5・20)
感謝することは讃美と密接に結びついています。コロサイ書3・15-17でも、キリスト者は父なる神に感謝しつつ「言葉とわざをもって何を行うにせよ」、すべてを主イエスの名において行うべきである、とあります。著者は、共同の礼拝を、キリスト者のいのちの源として考えています。いつも<主イエス・キリストの名により>すべてのことを感謝することは、教会の御霊に満たされる礼拝を指し示します。
ほかの人々の営みは酒による酩酊によって特徴づけられているが、キリスト者には別の酩酊、すなわち神の御霊が生み出す「冷静な酩酊」があります(18節)。御霊が生み出す「冷静な酩酊とは、礼拝に集まった人々が心の奥に火を灯され、主に賛美と感謝の歌を歌い(19節)、神の選び、救い、よい導きにあずかっている恵みを思いつつイエス・キリストの名により父なる神にいつもすべてのことについて感謝するとき(20節)、礼拝の中に現れます。キリスト者の感謝は日曜日のお礼拝にだけ限られてはなりません。それは神がわれわれに与えたもうすべてのことによって、毎日なされなければなりません。
私たちは神に願い事の祈りを捧げることが多いのではないでしょうか。しかし、それ以上に常に神を第一に考え、神に感謝し、神を賛美することが大切ではないでしょうか。
「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5・17)
滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人間」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように福音を伝えていこうではありませんか。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることにあると思わせられます。