指導者の条件
こんにちは。ヒューガです。
僕は先日の試合で、とても悔しく、とても嬉しい体験をした。
この相反する複雑な心境を生んだのは試合に出ている選手からの一言である。
「監督、ここは僕を交代させて、一年生を出場させてみませんか?」
試合も終盤、4Qの残り2分を切ったところで6点ビハインド。
流れがこちらに傾きかけた所での、相手チームによるタイムアウト中のことであった。
この日、自チームが得意とするアウトサイドからのオフェンスシステムは、お世辞にも機能しているとは言えず、常に相手チームから頭を押さえつけられているような、重苦しい展開が続いていた。
今までならば、一発逆転を狙ったギャンブルディフェンスや単発シュートを選択していたであろう選手たちが、我慢に我慢を重ね、やっと掴んだ流れであった。
そこへ来ての上級生の「ここは一年生を出場させませんか?」という提案。
驚きもあったが、僕の頭の中にも、この起用法があった為、すぐさま交代を指示。
交代直後にも拘らず、スリーポイントシュートを沈め、この一年生は見事ベンチの期待に応えてくれた。
しかし残念ながら最後は、試合運びが巧みな相手チームにインサイドを攻められ、6点差で敗れることになった。
ここで逆転できないのは、バスケはドラマチックではあるが、筋書きのあるドラマではないことを思い知らされる。また、まだまだ我々のチームに改善点があり、伸びしろがある事を教えてくれる。
複雑な心境
嬉しかったことは、交代を申し出てきた選手が「チームが勝つためにできる事」を考えて「自身が交代する」という決断をしたことだ。
僕も選手経験があるので、こういう時の気持ちはよく分かる。「最後までコートに立ってチームの勝利に貢献したい」誰しもが抱く感情であろう。
そういった感情を抑え込んでの決断であったのであろう、目を見ればわかる。
その気持ちがとても嬉しかった。
ただ、悔しい思いもある。
僕はまだまだ「人」を知らない。「選手」を把握していない。「自身」を理解していない。これからもっと勉強が必要である。
今回は苦渋の決断を選手に任せてしまった。反省しかない。
そんなどんよりとした気持ちで読んだ、松下幸之助さんの言葉。
とても深く、心地よく、心の奥まで染み渡ってきたような気がした。
同じように悩んでいる方がいたら、共有したいと思った今日この頃である。
日々これ勉強。
指導者の条件
指導者の条件は、人を知り、人を用いる、の一点に帰する。 如何に自ら手腕力量があって、如何に自ら出世しても、人を知る力無く(人を見抜く目)、人を用いる(適材適所に配置)徳がなかったならば、指導者として失格である。 近代社会の根本的弱点は名士がひとしく人を知らない点にある。 自ら指導者の地位に就いても、普段からあらゆる層のいろいろな人物と交流が無い為、先ず抜擢登用すべき人材を適材適所に配置が出来ない、中には指令する人さえ待たぬ者も少なくない。 この様な事で何の力有り徳有るリーダーシップが行えるだろうか。
人間を語る場合はもちろんですが、リーダーを目指すいかなる人も心しなければならない事は結局、どれだけ人物を知り、かつ普段から沢山の人と信頼関係を保ち、そして、難局にあたった時、どれだけの人間がともに戦ってくれるのか。 「意中人あり」と言います。 いざ鎌倉という時、即座に適材適所を図る采配が下せるか。 そして、それに呼応して、意気に感じて協力してくれる人がどれほど存在するのかです。
指導者の要件は、結局「人を知るの、明、人を用いるの、徳」だという事です。 それに、まず人間を磨き、多くの人と出会い、その縁を生かしていく必要があります。
柳生家の家訓に次の言葉が有ります。
小才は縁に出会いて縁に気づかず。
中才は縁に気づいて縁を生かさず。
大才は袖すりおうた縁をも生かす。
私自身、これまで、どれだけの縁を生かし又こわしてきたか、反省する事しきりです。縁を生かすも殺すも、その人自身が問われていることは言うまでもありませんが「この人についていこう。 この人のためなら、やれる事は何でもやろう」と思ってもらえるのか。 それとも「言う事は立派だけど、言行不一致。 とても一緒に仕事はしたくない」と思わせるのか。 どんなに高い地位についても、自分一人では事は成し遂げられません。 結局、多くの人の協力があってこそ、初めて事は成就するのです。
孔子は「知とは何か」と問われ、一言で「人を知る」と答えています。 松下幸之助塾主も「まずは人間把握。 人間とはどんなものかを人間自身が知らなかったらあかん。 人間が人間自身をこういうものだといって把握しないといけない。 そこから一切が始まるわけです」と塾生に力説しています。 己を知り、人情の情けを知ることによって、人間を磨き、そして、人を得る、指導者にとって、もっとも大切な事として心掛けなければならない事です。