僕が大学を目指したあの何年間、
あれは一体なんだったんだろう。
〝学校〟という組織から抜け出したと同時に
とてもそう思うことが多くなった。
大学を目指す自分、卒業を目指す自分
そしてその時に適した環境、学校
そういったものがない限り
僕はあの世界にいることは難しかったのだろうか。
自分でも不思議なほどに
払い除けるのが難しいような
熱苦しい思いだけを抱えて(そうでもなければ目指すような場所でもなかっただろうけど)、
その一心だけで自分がこなしてきたことが
思ってたよりも大きくなりすぎて
やっぱりこれは違うなぁとか思いつつも
今を捨てることは過去を捨てることになってしまう
今更投げ出すなんてことも逃げ出すなんてこともできはしない
せめて資格だけは取らないといけないやと。
今考えてみると確かに場違いだったのかもしれない。
周りはみんな優等生でそれなりに育ちも良かっただろうし、
大学に行くことさえ当たり前のような顔をして、
慣れたような態度で教授とコミュニケーションを取っていた。
こんな場所に自分みたいな人間がいてもいいのだろうかということは何回か考え込んだようなことがあったが、
それは予備校にも通い、大学にも合格したところで人との出会いがある程度増えたことだし、
母親には
「初めて見る人たちだったとしても、それもあなたの目指した道にいる人たちです。あなたも一応その一部ですから。」
と言われて仕方なく納得のいかない納得を自分に重ねていた。
見ている風景や光景がいつまでも信じられなくて、
いつまでもその一部には、嘘でもなりきることはできないような気がして
苦しい学生生活をしばらく送ること、をやめる勇気は出せずにいた。
そんな学生生活も資格取得を経て無事に修了し、そのままその職業として就くことになった。
大学生までの柵から抜けた〝開放感〟は途轍もないものだった。
〝達成感〟にもなり得ることができず〝開放感〟というものが大きく存在した。
そうして就職をしてからは、いろいろなこともあって、落ち着いて過ごしている。
けど、正直なところ
〝大学という組織から抜け出したら結局僕の行き着く場所はここなのか〟
と思ってしまうような部分がなかなか抜けない。
あの何年間で得たものは大きいし、
持ってて困るような資格でもないし、それがなきゃ得られなかった出会いや価値観、物の見方、考え方も多くある。
けどここに戻ってきてしまうならあの時あんなに苦しむ必要性なんてあったものだろうか。と考えたくなるときがある。
確かにそうだ。
もう10年も前に、
僕は大学合格と引き換えに今の居場所を失うんだろうなと未練がましいことを考えては一日中泣いた。
今あるものを失っても自分が目指したい場所だから仕方ない。
それと引き換えに絶対に大きいものが手に入るはずだ、大きい自分になっているはずだ。
もし、僕が少し離れる場所が
まだ懐かしく在りつづけていて、
僕の座れる場所が少しでもあれば
それを遠くから懐かしむくらいでいいと思ってた。