ヤマトトトヒモモソヒメ徒然記

たわいのない日常事をしたためております。

葛城山の麓を行く  H31年1月19日 

2019年01月21日 20時10分17秒 | 日記
土曜日に「ワカタケル大王と葛城」という題の講座を聞きに行ってきました。

楽しい話でした。

葛城山はワカタケル大王の狩場であったことは古代の資料でもわかっています。

葛城でワカタケル(雄略)は同じ格好の一行に逢い、高取川まで送られて帰った話などいろいろ葛城との関係性があった話が伝わっています。

大王家と葛城氏は

葛城そつひこがヤマト王権の対外交渉を担った。

その娘岩の姫が仁徳の皇后になった。継続して天皇家の外戚としてその地位を維持した。

大王と葛城氏の大王政権である。




紀氏との連携で、朝鮮半島からの人とモノ(鉄の原材料など)を独自に受け入れるために
、吉野川ルートが整備されたらしい。

葛城王権の初代(そつひこか?)の次の世代には掖上地域と葛城山麓に王墓を移した。100メートル級に縮小している

河内平野ルート(橿原市大県からの鉄素材の供給)にたよるため、工房群と王墓が忍海に移された。



河内への交通路(竹ノ内街道、丹比道)に渡来人を住まわせた。葛井寺など氏寺とする渡来人の氏寺がある。

物流の交差点や倉庫群などには、渡来系の字が読める人が就業していた? でないと物の往来に支障がでる?

百済への援軍の見返りについては鉄素材とともに技術者、馬飼いが派遣され、戦乱をのがれた百済人、伽耶人が多くやってきていた。

ワカタケルの狙いは忍海地域の生産力であった。

神話なのか史実なのか、5cこのころ葛城王家を滅ぼしている。


吉野川ルートで紀氏との関係強化されてきた葛城王家ではありますが、河内へのルート確立後こちらは破綻している。

そつひこが外交部を代表して朝鮮半島と行き来した道は吉野川ルートであったかもしれないという話でした。

道をおさえることや川を手中にすることで古代どれだけ優位な力関係が成立していたのかな?

久しぶりにとっても楽しいお話を伺いました。




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