冤罪をテーマにしたお話です。
主人公・洋平は大学生。
癌で母を亡くし、実家の荷物を片付けていたところ、天井裏にあるものを見つける。
それはお腹の大きな母と見たこともない男の写真とその男からの手紙だった。
気になってその男の名前を調べると、なんとその男・赤嶺とは、殺人事件の犯人として収容されている死刑囚だったのだ。
赤嶺は、母との結婚を強硬に反対していた母の両親を殺したとされていた。
つまり……
自分の本当の父親が犯罪者の赤嶺なのか?
ショックを受ける洋平だったが、赤嶺事件に冤罪の疑いがあると知り、一縷の望みに賭けて調べ始める。
冤罪について追っている記者・涼子の助けを得ながら、洋平は事件の真相に近づいていく。
そこには日本の司法の問題点や、人間の思い込みの危うさがあった。
すべての真実を知った洋平が選んだ答えとは……。
というお話。
起訴されれば99.9%有罪という現状は、
「代用監獄」や「人質司法」、
検察官の無罪判決を出してはいけないという意識、
一般市民と隔離された生活を送る裁判官、
そして人々の思い込みや勘違いや印象操作の上に成り立っている…らしい。
ただひとつ確実に言えることは、
冤罪があるということは、逆に、真犯人が普通に生活をしているということでもあるってこと。
洋平が赤嶺の冤罪を信じて調べていく中で、いくつもの冤罪事件があったけど、
それは人が人を陥れたものもあって。
洋平は、赤嶺が無実なのかどうかという気持ちで揺れ、
実の父である赤嶺と、母の弱っていく姿を見ていられないと離婚した育ての父の間でも揺れる。
でもそれって普通のことで、もっと言えば大事なことなのかなって思った。
「揺れる」っていうとダメなようにも思えるけど、
「こういう事件がありました。この人が犯人です」って言われた時に、何の疑いもなく「こいつが悪いやつだ」って信じるのではなく、
「本当にそうなのかな」って思うことも大事なんちゃうかなって思う。
テレビで言うこと、人が言うこと、それはテレビや人が言ってることであって、もちろん事実もあると思うけど、人のメガネを通したものも多いと思うのよね。
前に何回か書いたことあるけど、「事実はひとつでも真実は人の数だけある」ってのと同じで。
でも、特に事件とかの場合、「この人が犯人」とされれば、その人が本当に犯人なのかと疑うような要素は報道されない。
だから余計に、人々の意識は「この人が犯人」に固まってしまう。
そういうからくりもあることを分かっていないといけないと思うのよね。
何事もフラットな気持ちで客観的に物事を見るのは大事ですよね。