長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ハートに唄もて

2019年07月14日 12時02分30秒 | お知らせ
 本気で観光立国を目論んでいるのなら、日本人はもっと自国の文化を知らなきゃなりません。
 わざわざ外国から、この極東の小さい島国を訪れるからには、プチ西洋文化だったり、イエローモンキー的人真似エセ文化だったりするような文物を観たい…どうしても見たい!!……なぞと思うはずがありません。

 日本のよいところは、この過酷な自然環境(地震、カミナリ、火事…etc.)で生命の存続に脅かされながらも、朗らかに前向きに生きることを忘れない、心根の明るさとあっさりした達観、それにより長い年月積み上げてきた、文化的文物および技術の素晴らしさです。

 昨日今日、近代化した圧倒的物量に支配された横文字の発想でない、こまごまとした日常からあふれ出す情緒豊かな文物の数々。
 人間の細やかな神経、精神力から生み出された美しいものたち。
 だって、人間って、どんなに文明が進んでも、人間自身を生かし育てるのは、結局、口から摂取する食物によるエネルギーであって、その食べ物は、仮想世界ではぐくまれたものじゃなくて、一つ一つ人力で賄っているわけですからね。
 いかにコンピュータで制御されようとも、一個の人間が日々営む細かい作業あってこその、わたくしたちなんですね。

 巨大なものを形作るのは、小さい細胞なのです。

 さて、横に逸れましたが、そんなわけで、日本文化の奥深く豊饒なことと言ったら、付け焼刃で身につくものではありません。
 日本の歴史丸ごとが、能・狂言、歌舞伎、文楽、美術、音楽etc.に生かされて、今日の日本文化が出来上がっているわけですから、日本の藝術を理解したいなぁ…と思ったら、日本の歴史を知ればいいわけですから、そんな難しいことじゃないのです。
 
 サブカルで出来ているような私でさえ、昭和の学校でスタンダードな日本文化を教わってきたから、古文・古典で出来ている、伝統芸能にすぐスライドできたのです。
(いや、学校ばかりでなく、じいさんばあさん、叔父叔母、町内会や子供会…今のようにスカスカな人間関係ではなく、うっとおしいことも多々ありましたが、日常展開する人間関係のあやというものが、子どもの知識と経験を育てていったのではなかろうかと思います)
 
 令和となって、万葉集ブームが一時あったようですが、なんで今更…といぶかしく思ったのが、昭和の小学校に行っていた者たちでした。だって教科書で、習ったもん。基本中の基本です。万葉集だの、古今和歌集だの。源氏物語だの枕草子だの、土佐日記だの伊勢物語だの。方丈記だの、平家物語だの。古事記だの日本書紀だの。

 ですから、改めて、子供の時から自然と分かるように、日本の歴史をよくよく教え伝えたほうがよいのです。
 それぞれの自分が育った時代の政治的思惑からの、世代のバイアスは取り除いて、負の歴史ばかりとらえることなく…自虐的になることなく、普通の歴史をコンスタントに、客観的に教えなくちゃ、偏ります。
 偏っていた立脚点であったことも、両サイドの視点から教えないと、永遠に偏ったままで、外国からああだこうだと非難されたときに、論破できなくなります。
 両サイドからの観点を知るのと同時に、では自分はどういうことに拠って立つのか、ということも考え学ばないと、ただの物見高い野次馬になってしまいます。

 子どもの時から知っていれば、日本の文化はそんなに遠いものであるはずがありません。
 ブレイクダンスを必修にするよりは、仕舞を必修にするべきなのです。
 古典の美しい言葉を、意味が分からずとも音から身に着ければ(だいたい英語の音楽だって意味が分からずとも音から歌ったりしているではありませんか)、立派に観光立国の独自の余興となりましょう。

 さて、そんなわけで、歌唱法というと欧米の歌い方ばかり学校で教えるので、ミュージカルやオペラしか思い浮かばない方もいらっしゃるのかもしれませんが、
 日本には、日本の歌唱法があります。
 それを学ぶには、お謡いもありましょうが、わたくしは誰?

 …というわけで、長唄の唄い方をぜひ、体験、習得なさってくださいませ。
 ただいま、杵徳会で家元の唄稽古、新シーズンのプロジェクト、受講生募集中です。
 7月第3土曜日、20日13時より、下北沢稽古場にて始まります。
(中級以上の方には、同日17時よりの「汐汲」講座がおススメです)
 
 西洋式では、眉間の間から声を出す、ということをよく聞きますが、日本は真逆でお腹から出します。
 日本列島の宿命として、いつ襲われるか分からない天変地異、というものがございます。
 自分が踏みとどまる大地がいかようになろうとも、本質を見失うことなく、心安らぐ落ち着きの文化、というものが日本にははぐくまれたのです。

 女性が高い音を出せるのは当然で、低音部を出せるのが女声としての自慢、また、男声は、美しく伸びやかな高音部を出せるのが自慢。
 …というのが、長唄における美学でもあったのです。
 
 

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