年末に、神保町の岩波ホールに行き、

映画を観てきました。

アストリッド・リンドグレーンの若き日々の物語。

 

そう、あの長靴下のピッピの作者が主人公。

 

世の中の人々は

子どもとかかわる大人には

清廉潔白を求めるのでしょうけれど、

どうなんだろうと、常々思っていた。

 

ワタシが読み届けをしている、語り手である、と言ったとたん

『ご立派な お心がけ』などと 褒められたりする。

そのたび、いえいえ、そんな立派な事じゃござんせん、

と言っても、

謙遜なさって!おほほほほ、などという流れになり

さらにいたたまれない気分になる。

 

ワタシは、腹黒い所もあるし、

それなりに おべんちゃらだって言えるぐらい

本音と建て前の使い分けを 盾と矛にして 

社会生活を営んだりしてる。

純真無垢で汚れ無き魂の持ち主なんかじゃない。

 

だけど、ひとたび、

おはなしの活動をしていると知られたら

子どもが好きで 心優しい 穏やかなひと、

と、認定されてしまう 息苦しさがある。

 

子どもは好きでも嫌いでもない。

面白いと思う事はあっても、

幼いからと言って 存在自体がいとおしい

なんて気持ちには さらさらならない。

だからといって、おはなしをやってはいけないとは

思っていない。

 

 

所属しているグループのひとつで、

新年最初の ミーティングがあって

そこで、それぞれの 

今年の目標と抱負などを述べなさいと言われた。

フレッシュな 若手のみなさんの

絵本へのあふれる愛情を感じながら

楽しくすごした。

 

 

夜、風呂の中でつくづく考えてみる。

何故、おはなしをしたいのか。

聞いて、と、思うのか。

 

 

アストリッド・リンドグレーンは

子どもの心を 子どもの目線のまま

物語を綴ることができる作家だ。

でも、その半生は、

波乱に満ち情熱的で破綻しかかっていた。

不倫の末に 未婚のまま母になり、

子どもを里親に預けて ひとり秘書として働きながら

なんとか、暮らしを立て直そうと奮闘する。

 

先の 展覧会の年表等で

その事実は知っていたけれど

映画では、それらの出来事は

これこれと言う理由があって

仕方なかったのだという描かれ方をするのだと

薄ぼんやり 想像して 観ていたのだが、

そういうことは無く、いっそ潔いほどに

一切の言い訳も 説明もなかった。

生々しい 若い娘の無鉄砲な好奇心が映し出されていく。

 

映画を観ていない人のために

ストーリーに触れることは書けないけれど、

ただ一か所だけ・・・。

 

ずっと離れて暮らしていた我が子と

共に暮らす日々がやってきた アストリッド。

心を通わせたいのに、

お互い、そのきっかけが見えなくて

せつない時間が続き、

ある瞬間、

その溝を ぽんと 飛び越える助けとなったのが

おはなしだったのだ。

 

そのシーンが 見事で、涙が出そうでした。

子どもを 愛している。

でも、どうやって それを伝えればいいのかわからない。

切ない、でも、心に触れて 抱きしめたい!

その気持ちが

幼いころから彼女の中にあった空想世界に一穴を穿ち

くちびるから 物語が零れ落ちる瞬間!

 

おはなしを、きいてね・・・。

 

 

ああ、そうだったのかと、

言葉にならない納得が胸に落ちてくるシーンでした。

 

自分の中に広がる 空想でもって

自分以外の誰かを 楽しませたり 喜ばせたい。

それが おはなしをすることなのかな。

 

ワタシは アストリッドのように

自在に世界を作ることはできないけれど

身体の中に充満する昔話の世界を

くちびるから こぼしながら 生きているのだ、

と、

そう思ったよ。

 

 

『良い事』をしたくて

おはなしのひとでいるのではない。

 

じぶんがやりたくてやっている。

 

きいてね、って

『思ってる』だけ。

 

とてもシンプルな動機に

気が付かせてもらった映画でありました。