今日も外はジリジリの暑さです。

日当たりの良い我が家の2階はもはや危険区域です(涙)。

我が家は2階のベランダに洗濯物を干しているのですが、そのたった15分ほどの作業でも汗だくになるし、お肌にも紫外線がズシズシと刺さっていることを感じます。

欧州のようにお庭やテラスで日光浴~!なんて優雅なことは言っていられません。

いや、本当に焦げちゃいそう(苦笑)!

そんな感じなので、洗濯物は2時間も干せばからっから。むしろ長時間放置していると生地すら傷んでしまいそうな勢いです。

お日様も大いなるお恵みですが、危険と背中合わせ。考えてみると、雨も全く同じですね。なくてはならない存在だし、全ての源であり、栄養源でもあるけれど、度が過ぎると危険になるという。両方とも、程よい量と、程よいバランスが大切です。そのバランスが崩れてきている今日、私たちが向き合うべく大きな課題ですね。

コロナももちろんそうですが、この地球環境こそが、今後私たちが真剣に取り組んでいかざるを得ない、地球人全ての人の命に関わる大問題であると、先ほどベランダで洗濯物を干しながら改めて感じたのでした。

さて、今日は、おそらく初めて、お金をテーマに書いてみようと思いました。

「お金」は誰にとっても身近で、大切なものなので、ゆえに誰にとっても興味のあるテーマなのではと思いながら書いています。

お金については、育った環境によって、その考え方やアプローチが変わってくるように思う。

例えば、ルーマニア人である夫の弟の奥様は(義妹ですね!)、お金に対してかなりシビアな見方をしている。

というのも、彼女は子供時代、共産主義政権の下育って来たため、一般市民は非常に困窮していたそうで、食事は配給式、服やその他生活必需品は、お店に数種類色の違うものという選択肢があるのみ、どれかを選んで購入。住宅は質素で無機質な集合住宅の一室が国民全世帯に与えられ、自由に使えるお金はほとんどなく、そもそもエンターテイメントはほとんどないという生活を送っていたそう。

先進国の裕福な家庭育ちの子供たちに見られる、”将来の夢”や仕事は、自己実現を追求する手段、的な発想は全くなかったとのこと。

とにかく仕事ができる年齢になったら与えられた仕事を淡々とこなし、お金をもらって満足に食べられる生活をきちんとする、それが重要。仕事というのはそれ以上でもそれ以下でもない、仕事というのは生きていくため、生活費を稼ぐための手段、という、そんな考え方が一般的だったよう。

一方、先進国と言われる国の、余裕のある家庭で育っている子供たちはどうかというと、給与や社会的地位に関係なく、やりたいことをやる、仕事を通して自己実現をする、という考えが一般的。

無意識のうちに、お金はある、生活はきちんとできている、というのが前提となっていて、仕事という行為には、マスローの欲求段階によると、さらに上層のカテゴリーである、承認欲求とか自己実現を求める。

このように、育った環境により、お金に対する見方が生活をするための手段であると見る場合と、生活を豊かにする手段、より多くの選択肢や自由を手に入れ、より多くの人生の果実を謳歌できる可能性を秘めた道具として見る等、お金の捉え方も多様だ。

一般的に感じるのは、お金がそれほど潤沢ではない環境で育っている人の方が、ハングリー精神は強い。

欧州という、移民を含め様々なバックグランドを持つ人々で国が成り立っている世界で生活をしてまさに感じたこと。

でもだからこそ、当然のごとくお金に対する考え方もかなりシビアである。

私はというと、兄弟が多い家族の中育ってるので、物欲はかなり抑圧されて来たように思う。

自分が何か買ってもらったら、他の兄弟も欲しがるから、あまり自分の欲を出すのはよくない、とそんな風に勝手に感じて育って来た。長女だからというのもあるかもしれない。

いづれにせよ、親も子供にあまり物を買い与えるのは良くないという考えを持っていたので、特別な時以外は欲しい物は買ってもらえないし、頼めない、という暗黙の了解を感じさせる環境であったと思う。

ただ、幸運なことに、我が両親は、経験を積むのは良いこと!という考えを持っていたので、留学したり旅をしたりする際の費用は当然のごとく出してくれ、むしろ奨励してくれたのだ。

当時はまだ、お金の価値というのを全く理解していなかったし、お金を稼ぐことがいかに大変だということもわかっていなかったので、お金というものがあったからこそ、貴重な体験が積めたという考えには残念ながら至っていなかったものの、さすがに社会人になり、年齢を重ねるごとに、いかにお金というものが人生の選択肢を広げてくれるかということが理解できるようになってきた。

そしてお金に対する価値観が大きく変わったのは、パリ在住時代、シャンゼリゼ通り凱旋門近くにオフィスを構える人材コンサル会社に勤めていた頃。

社長さんがとても寛大な方で、ことあるごとにシャンゼリゼ付近の高級レストランやカフェ、ホテルで御馳走してくれたり、ビジネスマンたちが集まる社交の場にネットワーク構築のため積極的に参加できるよう斡旋してくれたのだ。

始めの頃は全てが新しく、エキサイティングであったが、何より刺激的だったのは、ビジネスマンやビジネスウーマン、そして上流階級の方たちとの交流。

お金があると、こうして洗練された優雅な場所で、繊細なお料理をいただけるんだ!こんな素敵な衣装をまとった方たちと交流ができるんだ!こんな上品で知的な方たちとお話ができるなんて!

当時20代後半の私には、とてもとても手の届かない場所に、ポーンと投げ込まれ、仕事の一環として何とも刺激的な環境に身を置くことができ、何ともラッキーなようで、でも現実離れしているようで、地に足のついていない感覚だった。

その頃から、身なりをきちんと整えること、TPOに合わせてドレスアップすること、食事の作法や社交の作法を学ぶこと、そしてグローバルなビジネスマナーを身に着けることの重要性を学び、そのような環境に身を置き対等な付き合いをするには、自分を高める必要がある、と強く感じ始めたのだった。

MBAを始めた大きな理由の一つはそれ。

まさに自分を高めて、彼らのレベルに少しでも近づきたいというハングリー精神。

そして、教育とお金は人生の選択肢を与え、より多くの自由を与える、ということ強く感じ、考えるようになったのでした。

そう、教育とお金は人により多くの自由を与える。

だから、お金が欲しい!とその頃から強く感じるようになったのでした。要は、自由が欲しい!ということ。

お金がないから、これができない、といった制限は嫌なのだ。

自分の理想とする人生を歩むには、ある程度のお金がいる。

世界を旅したいし、時には美味しいものを食べに行きたいし、時にはいいホテルに泊まりたいし、スパにだって行きたい。

と、幸か不幸かそこまでの物欲はないので、所有物にはそれほどお金はかからないものの、経験値を積んだり、感動体験をすることには非常に貪欲な私。そんな私の欲望に応えるには、それなりのお金が必要になる。

自分が思い描く人生を歩むには、思いを実現させるためのお金がいる。

どんなに夫や家族であっても、他力本願だと振り回される。となると、自分でどうにかつかむしかない。

と、そんな風に考えるようになったのでした。

とはいうものの、仕事を選ぶ際に最も大切な要素はお金ではなく、経験と考えている。

直近のお金を求めるのではなく、長期的に考えて、より自分のスキルになりそうだとか、より自分の素質が生かせそうだ、より主体的にモチベーション高く仕事ができそうだと感じるものを選ぶ。

その経験がそのうち大きなリターン(お金かもしれないし、何か他のものかもしれない)となって戻ってくると信じているから。

また、お金はどんどん流すのがいいと考えている。

貯めておくのではなく、流れを良くする。経済活動に参加する。すると、またどこかからか入ってくる。そんな風に感じている。

生活に困っているわけでなければ出し渋りをすることはない、と。

こちら側が寛大であると、相手も信頼してくれ、寛大になる。

リターンを期待して出しているわけではないけれど、巡りに巡って、出した分以上のものが返って来るように近年、特に感じている。

お金を使う時は、経済に貢献するぞー!と考えながら使ったりもしている。

損をすることを恐れて、自分の傍から離さないのが実は一番良くないのではと思うのです。

どんどん手放し、どんどん新たなスキマを作る。

ロンドン在住時代は、あまりにナニーさん代が高額過ぎて、私の収入の大半はナニーさんの給与として支払っている現実に時々萎えてしまったけれど、いやいや、彼女がいなきゃ私は働きに行けなかったわけだし、お蔭様で快適な生活ができているわけだし、彼女も助かり彼女の家族も助かっているわけだし、よく考えてみたら、最高に良いお金の使い方をしているではないか!と。そんな風に考えるようにしていました。

今思えばあの時働きにいけて、仕事を通して得たスキルが、今、何倍ものリターンとなる潜在パワーを秘めていると感じています(早くそれが形になって欲しいものですが(笑))。

長くなってしまいました。

と、ママンはお金は自由への道、とそんな風に考えているのでした。

ただ、お金は結果として入ってくるものであって、目的ではない。お金を求めて仕事をするのではなく、仕事自体に集中し、役割を全うし、楽しみ、結果としてお金が入って来る、そんな風にとらえています。

そのうち、お金を使って、更にお金を育てる方法についても、もっと学んでいきたいなーと思っています。

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