(都立第五福竜丸展示館)は
#夢の島公園 の中にあります。
「新木場」下車して 徒歩15分
福竜丸を実際に見ることができます。
たくさんのビキニ水爆の写真と説明が展示されていますよ。
今年10月に東京に行ったときに
#夢の島植物園 に行ってきました。
雨降りだったのですが、たくさんの家族連れが訪れて
賑わっていました。
東京に居て、外人とすれ違う日々だったのが
日本人の家族連れが殆どでホッとする場所でした。
(都立第五福竜丸展示館)のそばの広場で
ちょうど、ハロウイーン・イベントをやっていて、
パフォームしてる人たちがいて
福竜丸の悲劇を演じていました。
65年も経ってるのに、まだ高裁なんですね。
国は被爆を認めないのですね。
福島第一原発事故も被爆を認めない。
この国の司法は、
総理大臣の独裁で口封じされてる感じです。
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第五福竜丸とは
第五福竜丸は 1954 年 3 月 1 日、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。爆心地より 160 キロ東方の海上で操業中、突如西に閃光を見、地鳴りのような爆発音が船をおそいました。やがて、実験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が第五福竜丸に降りそそぎ、乗組員 23 人は全員被ばくしました。
その後、第五福竜丸は放射能がへるのを待って東京水産大学(現・東京海洋大学)の学生の航海の練習船「はやぶさ丸」となりました。
水爆ブラボー
3 月 1 日に、アメリカが炸裂させた水爆「ブラボー」は、広島に落とされた原爆の1000 倍(15 メガトン)の破壊力でした。爆発によって砕けた珊瑚の粉塵はキノコ雲に吸い上げられ、放射能を帯びた「死の灰」となり周辺の海や島々に降り積もりました。放射能は広範な海と大気を汚染したのです。
(都立第五福竜丸展示館)
第五福竜丸(当時は水産大の「はやぶさ丸」)は 1967 年に廃船処分となり
、解体業者に払い下げられ、船体はゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置されました。
これを知った市民のあいだから保存のうごきがおこり、
「沈めてよいか第五福竜丸」の投書(朝日新聞 68 年 3 月 10 日)や
原水爆禁止運動など全国で取り組みがすすめられました。
1976 年 6 月に東京都立第五福竜丸展示館が開館し、
船は展示・公開されました。
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^---引用ーー
信じられない💢💢💢
あらためて思う。
「終わってるな、この国の司法」
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二審も元漁船員ら敗訴
ビキニ被ばく記録訴訟 高松高裁
12/12(木) 13:18 時事通信
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ビキニ水爆実験の被ばく記録開示をめぐる控訴審判決で敗訴した原告ら=12日午後、高松高裁前
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二審も元漁船員ら敗訴 ビキニ被ばく記録訴訟 高松高裁
1954年に米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験をめぐり、周辺海域で操業していた高知県の元マグロ漁船員や遺族ら29人が、被ばくに関する記録を国が隠蔽(いんぺい)したなどとして計約4200万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が12日、高松高裁であった。
増田隆久裁判長は訴えを退けた一審判決を支持し、原告側控訴を棄却した。
原告側は、2014年に開示されるまで国が故意に記録を隠し続けたと主張したが、増田裁判長は「隠匿方針が決定され、その意思が貫徹されてきたとは認め難い」と退けた。
一審高知地裁は、賠償請求権が20年で消滅する民法の「除斥期間」などを理由に請求を棄却したが、二審は除斥期間について判断を示さなかった。増田裁判長は「賠償請求では司法的救済を図ることは困難で、立法府、行政府の検討に期待する他ない」と言及した。
判決後に記者会見した遺族の増本美保さん(78)は「どこを見て判決を言い渡したのか。本当に悔しい思いだ」と話した。原告団は、原告らが高齢であることを踏まえ、上告については慎重に判断するという。
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第五福竜丸被ばく、2船員のカルテ現存=東大病院で初確認-体温・白血球数を記載
1954年に米国が太平洋ビキニ環礁周辺で行った水爆実験で被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員23人中2人分のカルテが、東京大付属病院(東京都文京区)に存在することが26日、分かった。東大病院には7人が入院したが、5人分は破棄された可能性が高いという。残り16人分のカルテは、コピーが千葉市内の研究施設に存在することが分かっているが、東大病院でカルテの存在が判明したのは初めて。
カルテには、2人が55年5月に退院するまでの体温や白血球数の推移などの検査データが、詳細に記載されているという。広島・長崎に続く「第3の核被害」から生まれた「生の資料」は別の被ばく診療に役立つ可能性もあり、貴重な発見と言えそうだ。
第五福竜丸は54年1月、母港の静岡・焼津港を出港した。同年3月1日、公海上で操業中に米国の水爆「ブラボー」の実験に遭遇。強い放射能を帯びたサンゴ片の「死の灰」が降り、23人全員が被ばくした。乗組員は約2週間後に帰港したが、被ばく半年後には元無線長久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった。
久保山さんら16人は国立東京第一病院(現・国立国際医療研究センター、新宿区)に、残り7人は東大病院に入院。放射能研究の専門施設である放射線医学総合研究所(千葉市)が、両病院を退院した元乗組員の診療を引き継いだ。2010年7月には、放医研が久保山さんら16人分のカルテの写しを同センターから入手していたことが判明。放医研は東大病院にもカルテなどを照会したが、コピーも含め存在が確認できなかったという。
東大病院に入院した7人は既に他界。23人のうち生存している4人の平均年齢は85歳を超えた。
時事通信は昨年9月、東大病院にカルテの存在について取材したが、同病院は「保管期間が過ぎており、所在は確認できなかった」と回答していた。しかし、今年2月に入って情報公開請求があり、調べ直した結果、2月中旬に発見された。
東大病院によると、カルテには体温や白血球数のほか、傷口の状態などが記載されているが、紙の経年劣化が進み状態は悪いという。同病院は「歴史的に価値があるものなので、早ければ4月にも、(重要な法人文書などを保存する)東大文書館に移管したい」としている。
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(*一部省略しています。書き起こしは時間がかかるので、誤字・脱字・変換ミス等はご容赦ください。「校正」より、記事のUPや 書き起こしに時間使っていますご理解ください。)