25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

歯とオイルサーデン

2020年01月10日 | 日記
今日も歯医者へ行った。そして歯の点検をした。まだ4本ほど抜かねばならないらしい。
「いずれ最後は総入れ歯になってもしかたないと思ってるんでが、どのような段取りで進んでいくのですか」
「グラグラしているのをとりあえず抜いて、抜いたところを入れ歯にして、またグラグラしてきたらそれ抜いて,入れ歯作って・・・・」「でその間、食事はどうするんですか。2か月もかからんと思うけどな」
 歯医者さんは今日もグラグラしているのを抜きそうな気配である。16日に人と会う出張があるので、それによって16日以降のスケジュールも決まるので、 16日以降にしてもらえん?」 と今日は逃れた。

 歯に関して最初は「超スッキリしたのだが、さすがに歯がなくなってくると噛めず、食べる物も限られ、今では暗澹としている。
 スウェーデン人に虫歯がないのは、歯を磨いたあと口の中をゆすがず、ペッとペイストを吐き出すだけらしい。それを食後必ずする。虫歯の菌もそれで殺菌されるらしい。
 歯がよいと言えばバリ島の人たちもみな歯がきれいで虫歯があると聞かない。虫歯くらいはあるだろうが、みな一様に歯が白くて歯並びもよいのには理由がありそうだ。 バリ島の水は硬水である。カルシウムが多いだろう。それに紫外線がサンサンと照る。ビタミンDが合成される。それで歯が強くなる。 塩で歯を磨くのもいいのかもしれない。これは理由はわからない。そんな感じがする。虫歯菌と歯周病菌って塩に弱いような気がする。これは勘であり、なんら根拠がない。

 いつか歯のことはなんとかしなければならない日が来るとは思っていた。そしてやっぱり来た。ここは忍耐。
 それにしても温かい日が続く。
 イオンに「鬼エビ」が出ていた。エビやカニなら食べることができる。「カタクチイワシ」は食べられないが、最近スペイン産のイワシで作ったオイルサーデンを買って食べた。 温めて、醤油少々に唐辛子をかける。これが美味かったので、脂がのすっかりなくなった尾鷲のカタクチイワシは食べられない。イワシの缶詰めでいくことにした。柔らかく噛むこともない。

中島みゆき

2020年01月09日 | 音楽 ポップス
自動車業界は大転換期に入っているようだ。トヨタは先進的な町つくり(コネクティッド シティー)を始めるらしい。車は自動運転でカーシェアリング。物と物とがインターネットで繋がり、AIやロボットも活躍するらしい。電気は太陽光や水素を使うらしい。
 この構想は自動車会社が生き残っていくためには、ITの技術が要ることを示している。逆に言えばIT会社は車産業に参入できる可能性もあるということだ。ソニーも参入するらしい。

 一方、日産はぼくにはイメージが悪い。経営陣が姑息で会社内で調査をおおかた済ませ、その結果をもって警察に行けばいいものを検察と取引した。おそらくゴーン氏のルノーとの合併を拒否したいと政府にも泣きついたことだろう。あくまでも憶測であるが。

 三菱も日産もこの事件で未来への戦略が消費者に示されない。日産はもつのだろうか。結局ルノーと合併するのではないかと正直思う。あまりにもイメージが悪すぎる。どうして反乱の役員たちはイメージ戦略に思いが及ばなかったのだろう。

 ゴーン氏との闘いはまだまだ続くことになる。続けば続くほど日産の価値は減っていくように思う。こういう批判合戦の車を誰が買うのだろう。ちょっと嫌だな、と思う人も多いだろうと思う。

 テレビは「アメリカ vs イラン」「ゴーン会見」「障害者殺傷事件の裁判」この3つ。

 そうそうぼくは「中島みゆき」の公式メルマガに登録した。彼女の曲には好き・嫌いはある。ぼくはプロジェクトXの主題歌なんというんだっけ?ああいう歌は苦手である。「宙船」も「麦の唄」も苦手である。ところが「川風」「寄り添う風」「月夜同舟」「恋文」「East Asia 」などが好きである。気持ちよさそうである。そしてアジアぽい。柳の木が両端にある川を舟に揺られて旅する感じもする。「恋文」を聴いていると作曲家宮川泰を越えているようだ。

 いつかコンサートでもあれば、と思ってメルマガを登録したら昨日最新のブログが来た。ぼくより1つ下。精力的な活動がメルマガからわかる。テレビでもコンサートをやってほしいものだ。

進化

2020年01月08日 | 文学 思想
個人幻想が共同幻想と重なると現在のイランでの葬儀のようになる。アメリカの場合、トランプ大統領という共同幻想であり、個人幻想をも併せ持つ人が「鶴のひと声」でイランの司令官をドローン攻撃するが軍人の個人幻想と共同幻想の重なり方にはズレがあると思われる。
 イランは宗教国家というのは自明のことであるが、アメリカや日本、他の国のような国民国家も宗教の最終的な姿である。つまり、仏教もキリスト教も過激な原理主義は別として、国民の中に道徳のようなものになってしまっている。国民国家が宗教の最終的な姿であるというのは自由・人権・平等という民主主義の根本で国家が形成されている国民国家とて、最後に残るのは国と国を区別し、国を守り、国のために戦い、国の方針に個人幻想を重ねてしまうという点で究極のところで出てくる宗教的な姿である。

 ぼくはAIだIot だ、第四次産業革命のシンギュラリティーが来る、と未来のことをいくら叫ぼうが、個人幻想と共同幻想の観念の仕組みが解明され、重なると危ないときには自動的にブレーキがかからない限り、未来も同じだと思う。進化は自然淘汰、生存闘争で起こる。進化は退化する場合もある。生存闘争に退化が必要ならば退化という進化を生物は選ぶ。

 生存闘争で自分あるいは自分たちにとって不利と思うことは進化に現れる。例えば、遠い将来、自己幻想と共同幻想が重なろうとした場合、そのことは危険だから危険のブレーキをかける働きが脳に備わるかもしれない。 
 人類の歴史は類人猿と人類に分かれてから弱さを補いつつ進化してきた。強いネアンデルタール人は強さゆえに滅んだ。ホモ・サピエンスは弱いゆえに強力な共同幻想、つまり集団で行動する方が強い、ということを知った(イスラエルのハラリ氏はフィクションと呼んだ)。一夫一妻の方が子孫を残せ、有利に生活を営めること(対幻想)を知った。

 親鸞聖人は「歎異抄」の中で、「人一人殺してこい」と唯円に言うが、唯円は「とてもできません」と答える。しかし親鸞は「機縁さえあれば人は何百人でも殺せるものだ」(言ったとおりではないぼくの記憶である)
 というようなことを言う。ここなのだ。普段人ひとり殺せない我々が個人幻想と共同幻想がピタッと重なったとき、人を殺せてしまうのだ。800年以上前に言われていたことなのに、人間はこの「機縁」を克服できていない。この問題が進化につながっていかなければならないのだ。


テレビ三昧

2020年01月07日 | テレビ
 新年早々、アメリカ軍がドローンを使って、革命防衛隊の司令官などを殺害した。イランの反応は激しく、しかしやや冷静に対応している。ロシア、中国がイラン支援を宣言している。イランはサウジアラビアとイスラエルを囲むように三日月地帯をつくろうとしている。
 レバノンはイスラエルを攻撃しそうである。トルコはリビアに進出した。ヨーロッパに天然ガスのパイプラインを敷いているイスラエルをトルコは快く思っていない。トランプ大統領はイスラエルひいきである。
 中東はイギリス、フランス、のちにアメリカも加わり、勝ってに国境線を定規でひいたような地域である。罪深い先進国である。翻弄されるのは大衆である。
 こんなニュースとともに、元日産社長のゴーン氏が巧く出国検査を免れてレバノンに逃亡し、8日に記者会見すると発表した。日産は検察の力を借りてゴーン氏に反旗を翻した。明日、何を言うのか楽しみである。
 日本ではIR関連で汚職疑惑が浮上し、逮捕者もでたが、疑惑者は否定し続けている。
 テレビのニュースを見ていても明るいニュースがない。ノーベル賞が終わり、M1グランプリが終わると、事故や火事、殺人事件が連日続く感じである。
 夕方はあいも変わらずB級グルメの案内である。これはワンパターンの平穏なことである。
 不穏な年明けではある。ぼくもまた昨日2本の歯を抜いた。これもカンネンしたのだった。
 堀ちえみが「徹子の部屋」に出ていた。壮絶な病気との闘いであったようだ。強い人だ。おかしなことに無事に治ると、病気に感謝するのだ。不思議だなあ。
 テレビ三昧の日である。




流れ流れて北京在住!

2020年01月06日 | 文学 思想
「流れ流れて北京在住!」というブログを時々読む。読むというよりは見る。文字がとっても少ない。「弁当」という題があれば、ひとり作った弁当も写真を載せて、
 御用始です。
 お弁当を持って行きます。

 (ここに弁当の写真)

 まだ暗い北京です。
 今日も寒そうです。
 気合い入れて行きます。

 という風である。なんていうことはない。でもぼくはこの人のことが気になって
ついどうしてるかな、と思い、昔行った北京の路地裏や最近行った北京の街並みを思い浮かべ、作者の1人暮らしを思い浮かべる。別に何かを主張しているわけではない。俳句や短歌を書いているものでもない。本当のところは知らないが、さすらっている感じもするし、寂し気な感じもする。
「気合い入れて行きます」に弁当つくって、気を張るぞ、という自分を奮い立たせる雰囲気が「侘しさ」も伴って思える。饒舌ではなく、何これ? と思うがまた気になってしまう。これだけの文で想像してしまうことが多いのだ。それは作者が隠して書かないから。
 
 ブログの作者の文を追いかけ読んでいくのもおもしろいものだ。書店で売っているエンタメ・大衆小説やへたなサスペンスもを読むより気に入ったブログを読むほうがおもしろいものだ。編集者の目など通らず、思うように書いている。
 いっぱいあるのだろうな。

振り返ってみる 纏める

2020年01月05日 | 日記
 朝の満員電車に乗って通勤することは考えられなかった。会社に入り、上司の小言を言われ(上司は小言を言うとかぎらないのだが)、同僚とは話が合わないだろうと想像し、東京の空の下、どこかの会社に入るための就職活動をすることをやるつもりもなかった。甚だしい就職活動という世界に身を置いたことはなかった。
 しかもスペイン語の授業をさぼり、挙げ句、2単位を落として、卒業できず、留年することになった。教職免許をとるために、母校尾鷲高校で教育実習をさせてもらった縁で、尾鷲高校の講師の席が空いたから、やってみてその間に三重県の試験を受ければいいじゃないかと、教頭先生からお誘いの電話をもらったが、卒業できなかったから、お断りせざるを得なかった。高校での実習は楽しく、好き勝手にやらせてもらったことをおぼえている。
 大学受験のときは前の日久しぶりで会った恭くんと大阪で夜中まで話し込んで、翌朝、京都の受験会場まで30分も遅刻した。東京では別の受験会場に行ってしまい、あわてたことがあった。
 もう少し慎重であるべきだったのに、頭がなんだかぼんやりしていたのだろうか。性格上のことなのか。いまではどっちもだと思っているが、なんとも反省する性格であると未だに悩ましい。
 とにかく、大学を卒業して故郷に帰り塾を開いた。故郷は海と山の町で、ようじゅは人口も3万人以上あって、コンパクトな居心地が、たぶんきっと母の子宮中にいるような感覚だった。だから都会の人ごみを逃れてのびのびとやれたように思う。
 塾は開講早々多くの生徒が集まり、繁盛した。貧乏学生から即結婚式資金を一年で貯めて、今の細君と結婚した。教える仕事をやっていると、自分の説明の仕方や常にシステムとしてこれでいいのかよく考えた。夜中になると、いろいろな本を毎日欠かさずに読んだ。新婚から30歳くらいが一番楽しかったのではないかと思う。塾は成長していき、LLシステムを導入し、それに見合う音声教材を作り、LLシステムと一緒に塾や学校に販売することはじめた。英語圏の人を雇い、彼らが教えられるようマニュアルも作り、要望のある塾や学校に派遣もした。
 東京や名古に事務所をもつことになったが、ぼくが移住して東京に住むことはなかった。会社名称もカーネル出版とし、パナソニックとソニーと取り引きをぢていた。会社はそのご紆余曲折して閉じることにはなったが、これまで69年。オリジナルに作ってきたものが多々ある。会社を閉じてからのほうがよく作ったと思う。経験もそれなりに蓄積されていた。
 昨年はアプリを開発して、精神的には20年のリベンジを果たしたと思う。お金もその開発に注いだ。
 今年はこれまでに作ったものを資産化するために、ゴスペル、ファド、バリの音などの音楽CDや、銀のアロマペンダントや万華鏡ペンダント、5種のオリジナルブレンドエッセンシャルオイル、木彫りのCD立て、木彫りのマグネット、写真集、ボディーチューニングのテキストや動画、各種マッサージのしかた、手順動画、ALTや小学、中学生のための指導マニュアル、その他作ったものをホームページに陳列しいてまとめておこうと思っている。もちろん、アプリもgoogle からだけではなく、簡単にダウンロードできるようにする方法も探りたい。
 書くことの方は「うんぷてんぷ」の続編を書いて置きたい。
 自分の人生は都会、企業から「逃走劇」であったが、もちろん今はこの逃走も終えている。自由にのんびりやっているが、やりきったのか、まだやるべきことがあるほどの余裕があるのかちょっと曖昧である。

宇多田ヒカル 落とし物話

2020年01月04日 | テレビ
 「本来あるべきところから置き去りにされているということに共感するんです」と宇多田ヒカルは「マツコデラックス」に出演して、「落とし物」について語っていた。散歩していると落とし物を見つけると、写真に撮る。だいたい落とし物を撮るのはロンドンかパリらしい。脱ぎ捨てられたズボン。ドアまである。絆創膏もある。絆創膏を見ると道路に感情を寄せて、道が傷ついているのかな、と思ったりする。
 こんな話は誰も聞いてくれないので、話すのは初めてだと言う。いろいろなもののが落ちているものだ。ケチャップが窓辺に。人形が壁の間に。どうしてそうなったのだろう。落とした人はどんな人だったのだろう。
 宇多田ヒカルのような有能なシンガーソングライターが日常、どんなことを思っているのか、その切っ掛けのひとつがわかって面白かった。
 15歳で鮮烈なデビューをして、もう21年。2016年に「道」というアルバムをだした。そのなかには傑作曲が多い。朝ドラ「トトねえちゃん」のテーマソング「花束を君に」も入っている。
 次のアルバム作りをドキュメンタリーでNHK(確かそうだったと思う)が放映していた。いつまでもできない曲があった。ああでもない、こうでもない、なんだか違う、もっと、と試行錯誤していく。苦悩しているようだった。ポコポコと湧き出てくるように曲ができるのではない。全感覚とこころをフル稼働して判断してゆく。
 「削り落としたらオルゴールで聞こえるメロディ、スーパーで流れてくるような曲を作りたい」みたいなことを椎名林檎がテレビで語っていて、笑ってしまったことがある。彼女の「カーネーション」はそれに近いものがあったが、彼女はパフォーマーが好きそうである。その点宇多田ヒカルはもうオルゴールのレベルには到達している。「友達」という歌もとってもよい。
※※※※※
 正月4日。昨日、アメリカ軍がドローンでイラン革命防衛隊の司令官の乗る列車を爆撃し、殺害した、というニュースが流れた。トランプ大統領が弾劾訴追から目をそらせようとして行ったのであれば、なんと、これもテロではないかと思うのと、イスラエルのガス田がヨーロッパに伸びるのを、不快に思っているトルコなど、何が起こるかわからない状況である。そんな中へ自衛隊が派遣された。





初釣り

2020年01月03日 | 日記
 息子たち一家が2日の午後1時31分の特急南紀で帰りし、娘一家は12時42分の下り南紀で到着した。わずか30分ほどの重なりがあって、午後2時には前の大好きな堤防で娘の夫である婿殿とハゼ釣りをした。彼は夏の川でハゼ釣りをしてすっかり気に入って、今度は大きなハゼを期待していた。じっと手に伝わるアタリを待つ。

 釣り餌店で、「そこの堤防やけど、ハゼ、まだおるかいな」 
 店主は、「まだ水温高いみたいやでおるんとちゃう」
「これから干潮やな」
「そうやな。ほやけど上から下ってくるのもおるやろし」
と話をしながら、ゴカイとかハリを買い、二人でいざ大物ハゼ狙いへ。
 せっかく釣りに興味をもち始めたのだから、喜んでもらいたい。
 ハゼの姿はまったく見えない。アタリで釣るしかない。プルルンときたら竿を上げる。これが婿殿には初めてである。夏の川では目視で釣っていた。潮が動いている。一匹め、小指ほどのハゼを彼は釣った。いる、という印である。婿殿は2引目はちょうど天ぷらによいサイズを釣った。ぼくはさらにひとまわり大きいサイズを釣り、これはいけるぞ、と興奮気味になった。あっという間に2時間半。釣りは竿先をみているだけで気持ちが集中するものである。その気分がわかるらしい。
「これは今日は天ぷらにしよう」と家に持ち帰ってかぞえたら21匹いた。
 一月のハゼは食べたことはないので、さてどんなものか。捌き方を婿殿に教え、
天ぷらの準備万端にしておいた。
 
 「うーん、旨い。これは旨いですね。」
「そうやろ、天ぷらでは、ハゼ、コチ、キスの順で美味しい」
「上品な味ですね。ハゼの天ぷらなど出す店あります?」
「店主が釣りに行ったときは尾鷲で出るときがあるよ」

今日はは曽根へ行き、カサゴ、ハタ釣りである。満潮時を見計らって行った。釣れた順に言えば、フグ、ネンブツダイ、カサゴ、笹ベラ、カサゴ。前方の筏の客が「潮はうごかんのう」と言っているのが聞こえた。そう言えば今日は長潮。婿殿はフグのみ。それでも楽しそうだった。向かいに見える町はイタリアの島のようだ。12時を過ぎたら風が出てきた。それで竿を納めた。
 一家は午後から熊野古道馬越峠を歩き、そのあと古道センターで凧上げをして、「夢古道の湯」に入るのだそうだ。元気あるー。ぼくは釣りだけでもうバテている。
 
 




 




紅白歌合戦批判

2020年01月02日 | 音楽 ポップス
 紅白歌合戦の歴史は、歌に振りがついて、そのうちダンスがついてきた。踊りながら歌う。次第にグループでフォーメーションを作って踊り、歌う。Perfume を見ていると、これが音楽か、という「あきれさせ方」または「ビックリさせ方」を感じさせるだけである。とにかくグループで歌い、踊る者たちはみなお粗末で、せいぜいスーパーフレアーという女性の歌手が3分ほどの間歌の力で惹きつけて聴かせた。もっとはっきり言わせてもらえば、Misiaの歌もよいといえばよいのだけど、アメリカのほうにあんな歌い方をする歌手が幾人かいる。「ゆず」と「いきものがかり」では曲を交換しても同じような曲に聞こえる。とにかくじっくり聴かせる歌が少ないのである。「たけし」もどうしたんだい、とこの頃言いたくなる。「韋駄天」でのお粗末な落語。ぼくは呆れている。
 やっぱりユーミンの曲はよかった。彼女の才能を感じる。石川さゆりにたいしてはNHKも酷なことをするなあ、といつも思う。彼女は琉球の歌や民謡を研究し、新しい試みを多くやっている歌手である。
 もう紅白歌合戦も「歌合戦」ではないのだから9時から11時45分くらいまででいいと思う。
 もうやるべき傾向まではとことんやったのではないのだろうか。Perfume も究極だし、美空ひばりも究極である。武田のサックス付きの五木ひろし、マジック付きの水森かおりだ、ケン玉付きの三山ひろし。なぜここまでして画像に釘付けにさせなければならないものか。
 そしてやはり歌は歌として聴きたいものだ、と思ったのだった。
 
 息子らはスマホから情報をとりながら紅白歌合戦を観ている。ケン玉をしっぱいしたシーンをすぐにアップする者がいるものである。それを見たり、テレビ画面を診たりとテレビの見方も違っている。こういう見方NHKも総力上げて阻止しようとしているようである。
 
 「朝まで生テレビ」もみた。若い政治家が出ていた。ややポスト安部の雰囲気になっていた。31日。カルロス・ゴーンがレバノンに逃亡したニュースを聞いた。
 今日息子家族が帰り、交代で娘家族がくる。せわしい正月だ。

謹賀新年

2019年12月31日 | 社会・経済・政治
謹賀新年

 本年もよろしくお願いします。

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「紅白歌合戦」をぼんやり観ていました。スーパーフライとMisia の歌の上手さに感心しました。「朝まで生テレビ」ではなんだかポスト安倍というか次の政治を論じているようでした。変化です。
 

一年を振り返る

2019年12月31日 | 日記
 google の商売の仕方はなんとなくそうなっていったのか、予めの構想があったのか、その知恵には驚くことばかりだ。ぼくは今年、それを体験した。スマホやタブレット、PCをもっている人は Googleを無料で使っている。Google は広告で収入を得ている。検索エンジン、マップ、GPS機能、Youtube、翻訳機能も有り難く使っている。スマホやタブレットで使えるアプリを作り、売ろうと思うと、Google はアプリを作るプログラミングソフトを無料で公開している。仮にそれが完成すると、次は登録となる。登録料は2000円ほどである。登録までの手続きもぼくですらできるのだから、誰でもできるということだ。この先にGoogle は大きな網を仕掛けている。作ったアプリは売りたいものだ。だから、売りたい国別に翻訳してくれる。これも無料だ。さてこれで世界各国のGoogleで売れると思うと大間違いである。
 そこにはアプリを閲覧してもらい、選択してもらうための方法がいる。そのためにGoogle はGoogle アドセンスという網を用意している。ここがお金を儲けるところなのだ。つまりアプリの広告である。このアドセンスが検索エンジンでホームページやYoutubeを見るときでもかならず広告が出てくるが、これはアドセンスがやっている。便利な、またはおもしろいアプリを作らせておいて、迷路のようなところを歩いていくと、ここから先はお金の世界である。世界中にパッとひろげるにはそれなりの資金がいるということだ。売上からの10%を取り。各国でのアプリ広告料が必要となる、
 
 よく、まあ、こんなビジネスモデルを作ったものだ。この産業はサービス業ではなく、人間が介在してこない広告業の4次産業化である。
 日本の企業でこの発想をもつ企業はなかった。

 今年一年を振り返れば、この事実を体験したことは大きかった。この世界がわかったのだった。
 一年の前半は民泊の手続きがあった。後半はアプリのことが仕事を占めた。すると過去に作った語学用のテキストと音声、教授法が再活用できる可能性がでてきた。すると、これは来年の話になるが、これまでにプロデュースしてきた音楽CDやボディーチューニングやエステ関係の本質的な身体論、マッサージ動画、講習会動画、創作エッセンシャルオイル、創作CD立て、創作マグネット、対葉豆茶、銀のアロマペンダント、銀の万華鏡ペンダントがあることに気がついた。これをひとまとめにしてホームページにしておくか、とひとつの資産形成をしておこうと考えたのである。土地家屋の資産は下がっても、この衰退する日本の中で生きてきた中で作り上げた資産である。この点では不動産とはちがうITは大きな可能性を開いた。

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賀状は22年前にやめました。よいお年をお迎えください。


 

ジョージア

2019年12月30日 | 社会・経済・政治
 毎年のことだが、息子たちが帰省すると、尾鷲では目にすることがないDVD映画をもってくる。セルビアの映画とか、昔の日本映画とかであるが、今回の一発目は「葡萄畑に帰ろう」というジョージアの映画だった。この国も難民問題が政治の課題のようである。ヨーロッパ人はほぼみんな元をたどればアーリア人で、そこからスラブ人も、ゲルマン人もラテン人も出ている。たしかに言語や文化はわずかに違うが、大きく変わることはない。建築物やテーブルと椅子、インテリアをみていてもヨーロッパ人だとわかる。
 ジョージアの人がアメリカにいても何の違和感もなく、白人の中に溶け込んでいることだろう。

 ヨーロッパには大きな問題がある。それはイスラム教の浸透である。フランスでは2048年でイスラム教徒が過半数を越える。中東、北アフリカを植民地化し、イスラム教徒を見下した罰かのように、移民たちはフランスに根を下ろし、ギリシャやイタリア、ドイツも頭を痛めている。メルケル首相は過去にユダヤ人を虐待したことから難民への寛容策をとり100万人以上を受け入れている。
 難民受け入れを渋るヨーロッパ諸国の悩みをトルコが引き受けているが、トルコの動きはどこか不気味である。
 現在「世界の民族移動」から見た世界史の本を読んでいるので、ジョージアの映画からいろいろなことを思うのである。
 強者はやがて衰退する。ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスをみればわかる。今はアメリカであるが、衰退の兆候が見えつつある。中国は100年計画で、世界の経済的覇権を目指しているように見える。中国は香港やウィグル、台湾の問題を世界から認められるような形で収束、解決しないと尊敬を得られないと思う。たしかに14億の民を食わしていかなければならないのはたいへんなことだろうが、いわば革命的な折り合いのつけかたに知恵をしぼらなければならないだろう。
 ところでジョージア。栃ノ心の故郷。映画で見る限り、家も街並みも豊かそうにみえる。黒海に面した小さなキリスト教国だ。エネルギー資源はない。人口は約220万人。観光案内やワイン製造が主な産業らしい。
 一度行ってみたい国のひとつである、
 
 

スコアというイヤなAI

2019年12月29日 | 社会・経済・政治
 みずほ銀行の社長ととソフトバンクの社長がにこやかに握手をしていた。AIで提携するのだという。個人の信用度がスコアとなってスマホに表れ、それによって融資の可否、限度額などがわかる。
 アメリカでは起業家は失敗は勲章のようなものであると聞く。これはひとつの文化である。事業で失敗した人はどんなスコアになるのだろう。別のシステム、たとえばベンチャーキャピタルとか。
 中国では自転車を置くにも違反をしないよう、仕切り白線にまで気をつけている青年を紹介していた。スコアを落とさないためである。監視社会があって、それが金融や仕事、教育と繋がっていく。
 みずほとソフトバンクの社長の握手を見ていて、日本のような一度失敗したら、銀行取引もクレジットカード発行もできないような経済社会文化をもつ国で、彼らは何を考えているのだろう。
 はたまたイギリスはどうするのだろう。一人あたり800万円ほどの借金をもち、800万人ほどの人が借金返済不能になっている。因みにイギリスの人口は日本の約半分である。
 要するにAIというのは当面は情報をインプットするときに国の状態や文化が織り込まれるということなのだろう。これに帯する反乱はあり得ると思う。自立しなければならない個人幻想がギクシャクとし、強力なシステムに紐づけされるからだ。

 客を囲い込もうと新しい技術を得意気に見せて笑顔で握手をしているこの人たちに哲学的思考はあるのだろうかと穿って見てしまう。

 それはさておき、2020年は、再度糠漬けを作って大根の皮をパリパリ食べたい。ナマコとアワビを食べたい。タコの唐揚げを食べたい。
 
 

ハラリ氏のホモ・サピエンスについて

2019年12月28日 | 文学 思想
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「ホモ・サピエンス全史」は尾鷲の書店でも置かれ、続く「ホモ・デウス」でついに人類は別の物、つまり神の領域に入り込み「神」になると分析している。昨年、今年の世界的ベストセラーである。出版後、彼はテレビインタビューにも世界各地での講演会にも出席した。
 日本ではNHKがトンマな池上彰が聞き手となって要は本の解説をさせるだけで、この本にたいする疑問、批評というものはまったくなかった。多くの分野の「わかりやすい解説」で有名だからどんなインタビューをするのか、好奇心があった。
 ハラリ氏はホモ・サピエンスが他のホモ属より抜きん出たのは「フィクション」を作り出す能力をもったからだと断じている。

 ぼくらはこの「フィクション」という観念世界については1970年に吉本隆明の「共同幻想論」ですでに知っていた。吉本隆明は観念の領域には、個人幻想と対幻想と共同幻想があると「古事記」「遠野物語」を解きながら、この三つの観念を証明した。残念ながらこの本は日本語で書かれたため、またその意義を見出だす英語圈人が現れなかったため、翻訳されて世界に紹介されることはなかった。ついでに言っておくが2016年に漸くフランス語翻訳電子版が刊行された。
ハラリ氏はこれを読んでいないように思える。翻訳するに難解なこの共同幻想論の「共同幻想」とハラリ氏の「フィクション」は同義語である。

 ハラリ氏の論は単純である。ホモ・サピエンスがフィクション(共同幻想)を生み出す。フィクションの代表的なものは集団の一員で生きるためにまもらなければならない「法」であり、もっとも集団を大きくまたがってより大きなフィクション(幻想)を作り出した。ハラリ氏は無神論者のユダヤ人であるが、絶対の神を強く意識している。神を作り出したホモ・サピエンスはテクノロジー、たとえば分子生物学や遺伝子工学、AI などによって神の領域に入り、神の領域に入った人間と無役な人間にホモ・サピエンスは分かれていく、と説く。具体的に言えばAIのような知能を操り、コントロールする人間と知能に仕事が替わられ、役に立たない人間の層に分かれるということだ。

 ぼくの理解のしかたではこのハラリ氏の書物は以上の事が分厚い四冊の書物の物語である。いわば「神とテクノロジー進化論」である。この書物では何の解決案も示されていない。
 ぼくは以前にも何度かブログで書いたように、個人幻想と共同幻想が完全に一致したときが人間の一番危ないときだと吉本隆明の本を読み、さらに50年たって真面目に考えるようになった。解決の方法は共同幻想を解体することであり、個人幻想が共同幻想に対して自立することである。共同幻想にいくつかの出口を作っておき、個人幻想が自由に出入りできるようにすることである。それは知能ではすることができない。優秀な知能というのはおうおうにしてアホだからだ。自由に出入りさせられるのは「意識」である。
 AIがどうなろうと、ビッグデータがどうあろうと、それが豊かさをもたらすことを保証しない。それらの知能も人間に乗っかっているだけだ。ハラリ氏の思索では戦争を止揚することはできない。
 その視点がごっそりと抜けている。戦争を生むのは強固な共同幻想と強固な個人幻想が結び付いたときだ。

JRは民営企業なのか 競争もないのに 

2019年12月27日 | 社会・経済・政治
「モーニングショー」では年末年始の交通渋滞について特集していた。
 交通渋滞が起こるのは車でいくほうが安いからだ。JRだと一家四人(大人2人、子供2人)で東京から尾鷲に来るには9万円かかる。
 ぼくら夫婦が東京にいくにもこれだけ高いとそう頻繁には行けない。

 ぼくは前々からこのブログでも愚痴っているのだが、今日は愚痴らずにちゃんと言おうと思う。
 ひとつはJRの料金である。高すぎる。JRは独占民営企業というのも腑に落ちない。なぜなら競争相手がいないからだ。そこで、例えば12:00 発はA社、12:05発はB社、12:10発はC社 、12:15分はD社と5分おきに発車するのを4社ほどに分けてはどうか。レ-ルや電線の管理は別会社。別に国有にしてもいい。とにかく競争原理に持ち込む。地方路線では鉄道の上をバスを走らせばよい。
 JRは料金を安くする努力をしているようには見えない。子供、高齢者、外国人旅行者への割引だけである。しかもこんな小さな島国に、しかも災害の多い島に、どんな必要があってリニアモーターカーを走らせるのか知らないが、技術をもっと広い外国にでも売って、その分国内料金を安くしてもらった方がよい。政府は株主配当を国民に還元すればよい。

 次に高速道路である。これは無料化するか、少なくとも半額にするべきだ。民主党政権で一部やり始めたが、残念ながら東日本大震災でとん挫した。財源は?とリアリストはすぐに言うが、列車と車で安く移動できるようになれば消費効果、ひいては経済効果は大きい。したがって税収もちょっとは増える。
 武器の購入を減らす。県議会など10人くらいでよい。そもそも県は要らない。愛知・三重・岐阜がひとつになればよい。議員数も公務員数も相当減らせる。州は経済政策をやり、市町村は住民サービスに徹する。尾鷲ならば「地場産業振興」と念仏のようにすでに50年言っているだけだ。それで地場産業は成長したかと言えば衰退したのである。こういう経済政策は「州」に任せたほうがよいと思う。それだけでも大きな財源になる。

 また憂鬱な年末年始が来る。尾鷲のような温暖なところでもこの時期は寒く、魚も釣れないし、市場に魚も揚がらない。美味しいものを子供たちにたべさせようと思っても、この時期だけは高いスーパーの派手で美味しそうでもない物を買わざるを得ない。普段買っているものはなくなり、あるコーナーなどはかまぼこばっかりである。別のコーナーでは漂白した数の子だのスペイン産の貝だのイカをどうたらしたのだのが満載である。
 いっそのこと元旦はバリ島のような「ニュピ」にして、飛行機も、公共交通も、ビジネスもストップし、家でじっと過ごす。ついでにテレビやラジオ、携帯もストップして。1日を静かに過ごすことを想像するが、消費大国日本ではできることではないだろう。

 またしばらく交通情報が頻繁にニュースネタとなる。報道記者はテンションあげて声高に実況する。必ずやJR東京駅の乗車光景や帰りの子供へのインタビューを報じる。みんなJRも高速も高いと思っていると思う。特別な人(議員や大金持ち、相撲の幕内力士などなど)以外は。