25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

言語の縦糸、横糸、編み目

2019年12月11日 | 文学 思想
昨日「木枯らしの手帖 ~ 一足早い遺言」 というブログを、真夜中の徒然に読んで、感じ入ってしまった。まず、視線があわただしくないこと、静かであること、目に映る範囲でしか書いていないこと、写真が上手であること、と考えていくうちに、言語というのは、沈黙も言葉なんだと、あるいは、行間も、字と字の間も沈黙の言葉なんだと実感的に思う。この筆者の文体は無意識にか沈黙感の多いものになっていて、読む側に「立ち止まり感と見つめる感」を与える。癒されると言ってもよい。
 この方は草木にも詳しいようだ。

 言語が芸術として成り立つのは、指示表出言語と自己表出言語が縦糸と横糸に織られた上で、ぼくが付け加えるならば沈黙の言語も同時に編み目のように作られているからだ。

 「今日は12月11日です」この言葉は一般に受け止め、特殊な事情がない限り、そのまま日付を表すだけのことである。ところが「3月11日です」というとニュアンスがかわり、日付に東日本大震災の様相が重なってくる。桑田佳祐のTSUNAMI」はあの震災の津波ではなく、侘しい想い、逆に言えば激しい想いを意味する比喩としての言葉であり、自己表出言語である。桑田佳祐が今この歌を封印しているのも、TSUNMAIという言葉が生々しく強烈過ぎるからだろう。逆に津波に襲われてないという状態で歌うのならば明確に侘しい想いの比喩歌として大成功していたのである。
 見つめ合うと素直にお喋りできない
 津波のような侘しさに
 I know 怯えてる hoo
めぐり逢えた瞬間から魔法が
 鏡のような夢の中で
 思い出はいつの日も雨
  (桑田佳祐「TSUNAMI より」

この歌は若い日々に自分を置いた作り話だと思う。自分の心にだけ集中した感情を表現している。あまり沈黙の言語がない。その部分を音楽が補っている。この歌を前川清が歌うとまた違ってくる。前川清はこころの襞まで歌い上げる。

 「木枯らしの手帖」さんの文に戻りたい。「柊木」の花も香りが微かに風が乗せてくるところから文は始まり、柊木は鰯を置き去りにして、いつのまにかアメリカに渡り、魔除けに植えられている、という話を伝え、そして最後の感想を述べている。
 この葉の刺は老木になるとしだいに減少し、ついには全くなくなる。
 こうなると魔除けにはならない
 どうしてそうなるのか不思議だが、人間と同じで歳を重ねると
 角がとれて丸くなるということなのか・・・

と綴っている。見つめてふと思う時間が漂っている。これは沈黙の言葉である、とぼくは思う。「木枯らしの手帖」さんには突然許可も申し入れずに文を引用させていただいた。いわば評論のようなものだと捉えていただき許しを乞いたい。言語の縦糸と横糸、その編み目について言いたかった。上手く書けてないなあ。


 


  

 


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kogarashi316)
2019-12-11 16:53:20
初めまして、こんばんは。
ご紹介いただき、恐縮しております。
今後とも、よろしくお願いいたします。

コメントを投稿