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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

仏教は生きている個人の問題であり、故人の供養など生きている人間には出来ないと教えられて居ます

2020年11月15日 | 仏教・親鸞聖人

 仏教は生きている個人の問題であり、故人の供養など生きている人間には出来ないと教えられて居ます

葬式や法事は無くなった人の為になると言う常識はそのような迷信を打破されたのが、仏教を説かれた釈迦(ブッダ)の教えです、親鸞聖人はその釈尊の教えを最も正しく教えられた方です、釈尊に弟子が『死人の周りで有難いお経を唱えると死人が良い所に生まれ変わると言う人がいますが本当でしょうか』と聞きました、釈尊は黙って小石を拾われて、近くの池に投げられました。沈んでいった石を指さされて、こう反問された。『あの池の周りを石よ浮いてこい、浮いてこい、と唱えながら回れば石は浮いてくるだろうか』石は、それ自身の重さで沈んで行ったのだ、人間もまた自業自得によって死後の果報が決まるのだ、経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか、と言うのが釈尊の教えです。読経や儀式で死者が救われると言う信仰はもともと仏教には無かったのです、親鸞聖人は『親鸞は、無き父母の追善供養のために、一片の念仏も唱えた事がない』と仰っているのも、これ等の根深い迷信を、いかに打破されているかが判ります、また『親鸞死すれば鴨川の魚に食わせろ』とおっしゃっている通り仏教は生きている人の為の物であり、厳粛な葬儀を通して、我が身を反省し罪悪感を深め無常を感じて、聞法心を強める縁とすれば有難い勝縁となりましょう。しかしこのような真実の仏教を説くと読経や葬式が死人の為になると宣伝して、生活の糧としている人達から猛反発されるのを恐れて、誰も明らかにしませんので人情も後押しして、世間の根強い迷信となってしまったのです。

『命のあるうちに阿弥陀仏の救いに会わなければ必ず後悔するであろう。よくよく心得ねばならぬ』蓮如上人     END


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