道明寺(藤井寺市) ・菅公と和菓子と第一次大戦の慰霊塔

道明寺

2019年2月訪問
道明寺(どうみょうじ)は大阪府藤井寺市道明寺にある寺院です。同じ藤井寺市内にあり市名の由来ともなっている葛井寺(ふじいでら)と同様に、京都市右京区にある仁和寺を総本山とする真言宗御室派(古義真言宗)の寺院ですが、道明寺は尼寺で、山号は蓮土山。本尊である木造十一面観世音菩薩立像は国宝に指定されています。

道明寺(藤井寺市)
道明寺(藤井寺市)

東隣にある道明寺天満宮とともに菅原道真公ゆかりの地として有名なだけでなく、和菓子の原材料発祥の地ということでも全国的に知られた寺院といえます。





歴史と概要

道明寺の正確な創建年は不明ですが、かつてこの地を根拠地として周辺を治めた土師(はじ)氏の土師連八島(はじのむらじやしま)が氏寺として建立した土師寺が前身と考えられています。その時期に関しては、推古天皇2年(594年)とする説や7世紀中ごろなどの説があるようです。ちなみに、現在の道明寺天満宮は土師神社と呼ばれていました。

道明寺(藤井寺市)
山門の扁額

「道明寺略縁起」によると、聖徳太子がこの地に尼寺を建立する際、代々仏教導入に積極的であった土師氏が邸宅を寄進しましたが、その土地は東西320m、南北640mに及ぶ広大な土地で、そこには金堂や五重塔をはじめとする七堂伽藍を擁する大規模な寺院が建てられたそうです。なお、土師寺(道明寺)は明治時代まで土師神社(道明寺天満宮)の南側にあり、現在も天満宮参道の西側に塔心礎が残っています。

道明寺(藤井寺市)
道明寺略縁起

延喜元年(901年)、菅原道真が大宰府に下向する際にこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の鳴からむ里の暁もかな」と詠んで別れを惜しんだと伝えられています。この故事は後の江戸時代に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「菅原伝授手習鑑」の「道明寺」の場面にも描かれています。

延喜3年(903年)に道真は亡くなりますが、天暦元年(947年)には道真が自ら彫ったとされる十一面観音像を祀って土師寺を道明寺と改め、同時に土師神社内に天満宮も創建されました。この「道明寺」という名は道真の号である「道明」に由来します。

戦国時代に入ると、天正3年(1575年)に高屋城の戦いによる兵火で天満宮を含む寺の大部分を焼失しましたが、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川歴代将軍などの庇護により復興し、朱印地(朱印状により所領の安堵がなされた寺社領)にも認められました。

江戸時代の寛永10年(1633年)には石川が氾濫したため、道明寺を北側の高台にある現在の天満宮境内に移転させましたが、やがて両者は一体化して行きます。

道明寺(藤井寺市)
本堂前の説明板

明治5年(1872年)に神仏分離することとなり、6月に道明寺五坊の内、二之室が神職家となって天満宮は土師神社に改称しました。翌明治6年(1873年)9月、道明寺は天満宮と分離し、道を隔てた西隣の現在地に移転。大正8年(1919年)には本堂落成。なお、土師神社が道明寺天満宮に改称するのは昭和27年(1952年)です。

道明寺粉

道明寺は、関西風の桜餅(道明寺餅)など和菓子の材料として知られる道明寺粉の発祥の寺としても有名です。道明寺糒(ほしい)とも呼ばれる道明寺粉は、水に浸して蒸した餅米を干し、粗めに挽いたものです。桜餅といえば、関東及び一部の地域以外では、この道明寺粉を使ったいわゆる関西風桜餅が一般的で、関東のものは長命寺餅と呼ばれることもあるそうです。

境内

現在の道明寺は道明寺天満宮から道を隔てた西側ということで、より幹線道路である国道170号(旧道)に近くなっていますが、道明寺と天満宮の間の道こそが分離当時は主要道だった東高野街道です。

道明寺(藤井寺市)
山門

道明寺駅と国道170号(旧道)を結ぶ道路と東高野街道の交差点付近に道明寺の入口があり、駐車場から北に参道を進むと山門が見えます。こちらの山門は、旧道明寺(現道明寺天満宮)にあった頃は鐘楼として使われていたそうです。

道明寺(藤井寺市)
境内

南側にある駐車場からほぼ北に向かって参道を歩き、山門から境内に入るといくつかのお堂が見えますが、正面に見えるのは大師堂で、その左手にあるのが本堂です。

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手水舎

手水舎は山門をくぐってすぐ左手にあります。

道明寺(藤井寺市)
手水鉢

蓮の花を模したと思しき手水鉢と「寄附道明寺婦人會」「大正15年」などと彫られた八角形の石枠が印象的ですが、その周りにはベンチがあり休憩もできます。

道明寺(藤井寺市)
本堂

手水舎の少し奥には本堂が見えています。参道や山門は南向きでしたが、この本堂は東向きとなっています。道明寺の本尊である国宝十一面観音菩薩立像は像高約1m、檜の一木造で、正月三が日や毎月18日と25日に厨子の扉が開かれ拝観することができます。本尊の拝観のみ拝観料500円です。

道明寺(藤井寺市)
地蔵菩薩像

少し戻り、山門をくぐって右手に目を移すと、東側の壁沿いに地蔵菩薩像や石碑が並んでいます。

道明寺(藤井寺市)
護摩堂

さらにその奥には護摩堂があります。

道明寺(藤井寺市)
大師堂

また、山門からの正面には大師堂があり、キリンのオブジェ?も置かれている他、向かって左手の本堂との間には大きな丸い礎石が顔をのぞかせています。

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十三重石塔

本堂の北側には十三重石塔。

道明寺(藤井寺市)
多宝塔と石碑、看板

そして、山門から入って左側、手水舎の奥にあるのが石造りの多宝塔です。この多宝塔は、大正7年(1918年)に藤澤友吉(ふじさわともきち)氏が亡父の十七回忌供養にあたり、道明寺の本堂落成を記念して建立されたものです。この藤澤友吉氏とは、藤沢商店(後の藤沢薬品工業、現在は合併してアステラス製薬)の創業者で初代社長だった人物。

多宝塔の正面には建立趣旨が10行の漢文で刻まれていますが、多宝塔の手前右側にはその趣旨が英文で刻まれた石碑が建っています。さらにその石碑右側には英文の和約を記した看板が設置されています。

道明寺(藤井寺市)
寺院では珍しい英文の石碑

この多宝塔には本堂落成記念とともに、第一次世界大戦で亡くなった人々の霊を慰める願いが込められていることから、その建立趣旨をここを訪れる世界各国の人々に伝えるべく英文で彫られた石碑が昭和4年(1929年)に藤澤友吉氏により建てられました。

道明寺(藤井寺市)
石碑の日本語説明板

石碑の英文を和訳したこちらの青銅製と思われる看板は昭和54年(1979年)に藤沢薬品工業により設置されました。

それによると、石碑の英文は「戦いが終わればそこには敵も味方もない。互いに恨みを忘れ、戦場に散った人たちの冥福をただひたすらに祈ろうではないか」、「正義と人類愛のためにその尊い命を捧げた世界大戦戦没者の霊を、敵味方の区別なく慰霊しよう」といった趣旨のことが書かれているようです。

また、この(英文の)石碑の下には、「第一次大戦最大の激戦地であったフランスベルダンの鮮血に染まった土が同市長から寄贈され納められている」旨が記されています。

ベルダン(ヴェルダン・フランス語:Verdun)は、フランスの北東部、ロレーヌ地方ムーズ県の都市で、第一次世界大戦では両軍合わせて700000人以上の死傷者を出したヴェルダンの戦い(英語:Battle of Verdun)が1916年2月21日から12月19日の約10ヶ月間に渡り繰り広げられました。

道明寺(藤井寺市)
石灯籠や観音菩薩石像

ベルダン関連の碑などと本堂の間には菩提樹、石灯籠、手水鉢、観音菩薩石像などがあります。

道明寺(藤井寺市)
東門

本堂の正面、やや北寄りには道明寺東側の東高野街道に面した門もあります。

寺院周辺

現在の道明寺周辺は、道明寺天満宮以外は住宅地と商店街などですが、所々に寺社に関わりのありそうなスポットがあります。

道明寺(藤井寺市)
白光龍王大神

道明寺の東門から出て、東高野街道を少し北に進むと左手(西側)に立派な御神木と白光龍王大神を祀る祠があり、白光龍王大神の少し手前(南)の分岐を左に進むと線路の手前に土師ノ里八幡神社があります。

道明寺(藤井寺市)
古代道明寺五重塔礎石

また、前述のように、道明寺天満宮の参道を南に80mほど進むと右手(西側)に古代道明寺五重塔礎石があります。

●蓮土山道明寺 ホームページ →http://www.domyoji.jp/index.html

アクセス

近鉄南大阪線・道明寺線「道明寺」駅から道明寺天神通り商店街を通って西に約350m進んだ交差点の右手に道明寺があります。途中で道明寺天満宮前を通るコースです。また、「土師ノ里」駅からは改札を出て国道170号(旧道)を左に約400m進み、「道明寺」交差点を左折し約120mです。

車で行く場合は、国道170号(旧道)の「道明寺」交差点を東に約120m進むと左側に駐車場があり、その奥から山門への参道が続いています。駐車無料。

なお、北の近鉄線の線路を越えると、允恭天皇陵をはじめ、国府八幡神社志貴県主神社伴林氏神社など古墳や神社が多数があります。

Doumyouji Temple(Fujiidera City,Osaka Prefecture)


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