文学フリマが終わって、ごくごく軽くロス状態になっています。だけど、仕事のおかげで誤魔化せているかなと思う。忙しさにかまけて自分の内面の整理を先送りにしているのです。まあもっとも、自分の内面の整理など、わざわざしなくても、どんなにとっちらかっていても、そのうち忘れたり記憶が改ざんされたりして、どうにでもなってしまう。これは悪いことでは無く、人間の生理だし、防衛機能でもあると思う。ともあれ、年末に忙殺されて自分のことをうっちゃっている隙に、ロス感も消えていくことでしょう。それでよい。
しかしまあ考えてみれば、こうしてブログにあてもなく何かを書こうとする行為自体が、私の内面の奥底に、おのれを整理したい欲求があるのだと思う。そんなものは放っておいていいと言いながら、放っておくべき大義名分を言葉の中に見つけようと、いまこうしてキーボードを叩いているのです。読まされている人はいい迷惑ですよ。ほんと。
ひとつ創作のことと言っても、小説だけのつもりが、キンドルに手を出せば表紙などビジュアルのことを考えるようになり、フリマで小間物屋を広げようと思えば、色だの設営だの考えることになる。最近では動画もやっとる。そんなふうに、小説を中心にしていろんなクリエイティブをあっちにぺったん、こっちにぺったんとくっ付けていくと、なにか楽しみが無限に広がる感じがしてよいけれど、じゃあ根幹にある小説という作業がそれらを包含してなお盛り立てるべき中心軸なのかと言われると、小首がボキッと折れる。ポキッ。
まあ好みなんて、潮の満ち引きと同じで、寄せては返す波のように、盛り上がったり醒めたりする。中には沖に流れたっきり帰って来ないのもあれば、浜に上がったきりにっちもさっちもいかないのもある。やはりある程度、あっちにぷかぷか、こっちにぷかぷかしているくらいのほうが、「波にもまれて」いいのかもしれない。あ、今言った「いい」も「かもしれない」も、どっちもいい加減な気持ちで私の口から出た。予測というより希望である。
あ、毒と薬にも例えられるね。
うん。
「大丈夫、きみたちなら例えられるよ」
12月です。しわすです。
作家は先生なんでしょ? 走んなさいよ。
ぼかぁ寝る。では。