笑っていいか?いけないか?…1/5 | りおみーのブログ ニュースとお笑い芸人に不毛な突っ込み

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主にお笑いのネタに関して、時々ニュースに関して、「これってどういう事?」をロジカルに分析してます。


……では私達は、何を笑うのでしょうか?

□□□□□□はじめに□□□□□□

大坂なおみ選手、
東レ・パンパシフィック・オープンは残念でしたが、
全米オープン優勝ってスゴいですね。

とはいえ、
セリーナ・ウィリアムズ選手との決勝戦では、
審判のジャッジにセリーナ選手が不満を示し、
授賞式では会場のファンがブーイングするなど、
一悶着ありました。

審判の判断にも、
セリーナ選手の主張にも、
賛否両論ありましたが、

オーストラリアの大衆紙「ヘラルド・サン」が掲載した、
セリーナ選手の振る舞いを揶揄した風刺画に対しては、
更なる批判が起きました。

特に、
唇を厚く誇張して描いた事が、
人種差別的と受け取られたようです。

作者と「ヘラルド・サン」は、
人種差別を否定しています。

同じ様な事は、時々起こりますよね。

日本でも、
昨年末のテレビ番組が人種差別だと批判された出来事は覚えてますか?

過去記事「モノマネだから?違うから?」でも書きましたが、

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!大晦日年越しSP絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』(日本テレビ系)において、
ダウンタウン浜ちゃんが、
『ビバリーヒルズ・コップ』のエディ・マーフィーに扮装、

その際に顔を黒く塗った事が、
「ブラックフェイス」だと批判されました。

まぁ、この番組自体、
色々と批判があります。

蝶野さんの平手打ちとか、

去年は、ベッキーさんへのタイキックも批判されていました。

しかし、ブラックフェイス問題の影響は国内にとどまらず、
BBCやニューヨークタイムズでも報道、批判されたそうです。

では、
「笑ってはいけない~」における「顔を黒く塗った外見」は、
差別的な表現なので、
リアルに笑ってはいけないのでしょうか?

いまさらですが、
考え得る多くの視点を排除して、
「笑い」の視点に限定して考えてみます。

□□□□□□ミンストレル・ショー□□□□□□

そもそも、
顔を黒く塗る事は、
何故「差別」ととらえられるのでしょう?

ネットメディアのリテラの記事(http://lite-ra.com/i/2018/01/post-3718.html)が、
批判の根拠としてあげるのが、

19世紀アメリカの大衆演劇「ミンストレル・ショー」。

リテラが引用している「『ちびくろサンボ』絶版を考える」(径書房)によると、

「白人が顔を黒く塗り黒人奴隷の服装をして、黒人の『愚行』を演じていたが、それはあくまで白人が望んだ範囲での黒人の愚かしさであったり、白人の主人への忠実な奴隷像だったりした。またこの中で唄われる『ニグロ・ソング』も、同様に当初は白人の想像上の産物であって、黒人の実際の心情を反映されたものではなかった」

そして、黒人を人間扱いしない奴隷制のもと、
「黒人の無知や無知から来ると思われていた明るさ」
という偏見に満ちた黒人像を笑いにしていたそうです。

リテラの記事は、この歴史を踏まえ、
「顔を黒塗りにすることのなにがいけないのか?」の問いに、
「それは、黒人差別の歴史において、顔を黒く塗り、パフォーマンスするという行為は特別な意味をもつものだからだ。」
と、書きます。

「顔を黒く塗る事」が、
「黒人差別の歴史において」は、
「特別な(差別の)意味をもつ」のは間違いない事でしょう。(括弧は私の補足)

そのため、
「顔を黒く塗る事」を不快に感じる人も多いでしょう。

ただ、
「黒人差別の歴史において、顔を黒く塗り、パフォーマンスするという行為は特別な(差別の)意味をもつ」という事は、
「黒人差別の歴史以外においても、顔を黒く塗り、パフォーマンスするという行為は特別な(差別の)意味をもつ」という事の根拠となる訳ではありません。

もちろん、「顔を黒く塗る事」が、
「ガキの使いのオープニングの着替えシーンにおいて」、
「特別な(差別の)意味をもつ」のなら、
「ミンストレル・ショー」と同じく批判されて当然です。

では、
この2つの笑いは、
同じ笑いでしょうか?

□□□□□差別の笑いのフォーマット□□□□□

「ミンストレル・ショー」の笑いは、
リテラの記事が引用する「『ちびくろサンボ』絶版を考える」の解釈に従うなら、

典型的な、というか、リアルなディスコミュニケーション。

自分達の常識とは異なる黒人の言動を「ディスコミュニケーション」に感じ、
偏見に基づき勝手に自分達の常識の通じない黒人像を作り上げ、
それは無知で自分達より劣っているからに違いないと妄想し、
「下方評価」して笑っていた訳です。

< 基準 >:白人の普通の言動
< ズレ >:黒人の(白人と異なる)特異な言動
<ツッコミ>:「何、ヘラヘラしとんねん!」

< 基準 >:白人の知性と比較して
< ズレ >:(偏見に基づく)黒人の無知
<ツッコミ>:「コイツらアホや!」

これは、
「モノマネだから?違うから?」における「モノマネの笑い」の解釈に従うなら、
モノマネの客体の言動のディスコミュニケーションを再提示して笑いを作る、
「モノマネ本来の笑い」と同じです。

そして、「顔を黒く塗る事」は、
モノマネの客体(黒人)の言動のディスコミュニケーションを効果的に再現、再提示するための手段です。

リテラの記事のタイトルでは、
「ミンストレル・ショーと同じだ」
といいきっていますが、
エディ・マーフィーの扮装の笑いがこれと同じかというと……?

ちなみに、
作家、コラムニストのバイエ ・マクニールさんは、

「黒いという事は、落ちや小道具ではない。ジョークが必要ならもっといい作家を雇うべき。黒人の役が必要なら日本語が出来る黒人俳優を雇うべき。」(筆者訳)
(https://twitter.com/Locohama/status/947455021645381632)

……と批判しました。

では、
「(肌の色が)黒いという事」が、
オチ(=笑いのフォーマットのズレ)なのでしょうか?

< 基準 >:日本人の肌の色と比較して
< ズレ >:黒人の肌の色
<ツッコミ>:「いや、黒いやん!」

まぁ、これもね、
笑った人もそんな事で笑ったつもりはないでしょうし、
作り手側も「肌の色が黒いという事」を笑いにする意図ではない事は、
想像出来ると思います。

でも、
「肌の色が黒い事」を笑う訳ではないとしても、
何らかの「笑いのフォーマット」を感じているからこそ、
笑いになる訳ですよね。

その「笑いのフォーマット」を明らかにしない事には、
「ミンストレル・ショー」と「エディ・マーフィーの扮装」の笑いは違う!とは言いきれません。

では、
「黒人差別の歴史において」は「特別な(差別の)意味をもつ」ブラックフェイスは、
「ガキ使のオープニングの着替えのシーンの笑いにおいて」は「どんな意味をもつ」でしょうか?


「エディ・マーフィーの扮装の何を笑うのか?」

……考えてみましょう。


以下次号。。。


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