……では私達は、何を笑うのでしょうか?
前号続きです。。。
(注):セリフは書き起こしたもので、正確ではありません。
□□□□□□外見□□□□□□
「状況のあるべき姿からの逸脱」の笑いでは、
「顔を黒く塗った外見」は手段となっていました。
では、
「手間をかけた事」や「状況のあるべき姿からの逸脱」以外に、
エディ・マーフィーの扮装は笑いになっていないでしょうか?
いえいえ、
浜田さんの「顔を黒く塗った外見」「見た目」そのものが笑いになっているのも確かです。
オープニング部分で松ちゃんは、
「これとずっと一緒にいるんでしょ?」
「ずっと一緒はしんどいです」
と、発言。
扮装の「見た目」に対する突っ込みです。
バスの中では、
仕掛人の門脇麦さんが、
時間が経ってから、突然、浜ちゃんを見て笑ってしまいますし、
警察署到着後には、
浜ちゃんが黒塗りの顔で表情を作って笑わせたりもしています。
「顔を黒く塗った外見」も笑いになっている訳です。
では、
「顔を黒く塗った外見」の何が面白いんでしょう?
「黒人」だから?
「肌の色が黒い」から?
いやいや違うでしょう、、、
……逆です!
「浜ちゃん」だから……です。
「黒人の見た目」を笑っているのではなく、
「浜ちゃんの見た目」を笑ってるんでしょう。
どういう事か分かります?
□□□□□□非モノマネの笑い□□□□□□
これこそ、
モノマネを分析した過去記事「モノマネだから?違うから?」で書いた、
「非モノマネの笑い」です。
モノマネの客体に似せるという名目であるはずのモノマネのネタでありながら、
「モノマネの(客体の)あるべき姿から逸脱」している、
つまり、「モノマネになっていない事」が面白いのが、
「非モノマネの笑い」。
例えば、
過去の「笑ってはいけない」でも披露していた、
ホリさんの「○○が絶対言わない事」というネタは、
「○○(モノマネの客体)のあるべき姿から逸脱」する事を笑う「非モノマネの笑い」です。
過去記事「モノマネだから?違うから?」でも引用したように、
『ワイドナショー』(フジテレビ系)のコメント席の福嶋麻衣子さんが、
「黒く塗らなくても受け入れられている」と、
浜ちゃんの黒塗りと比較し、
それを受けてリテラの記事が、
「再現する技術をもっている」
「ビヨンセにしか見えなくなる」
と肯定的に表現した渡辺直美さんのビヨンセのモノマネも、
その笑いの基本は「非モノマネの笑い」です。
渡辺直美さんの笑いは、
リテラの記事が書くように、
「再現する技術をもってい」て、
「ビヨンセにしか見えなくなる」から面白い訳ではなく、
「(動きを)再現する技術をもっている」にも関わらず、
「(外見は)ビヨンセには到底見えない」から面白いんでしょう。
< 基準 >:動きはなりきっているにも拘わらず
< ズレ >:外見は全然違う
<ツッコミ>:「全然ちゃうわ!」「どう見てもビヨンセじゃなくて渡辺直美や!」
【ちなみに、
過去記事「モノマネだから?違うから?」の中では、
外見は似てないにも拘わらず、
モノマネしているビヨンセのステージや映画での自信ありげな振る舞いに、
今田耕司さんが突っ込んだ一言、
「腹立つぅ、、、!」
から、
なりきった感をディスコミュニケーションととらえた、
< 基準 >:外見が違い、なりきれていないにも拘わらず
< ズレ >:なりきれているかの様な振るまい
<ツッコミ>:「何やねん、そのドヤ顔!」「鏡見てみろや!」
という「笑いのフォーマット」を例示しています。】
浜ちゃんのエディ・マーフィーの扮装も、なりきれてないからこそ面白い「非モノマネの笑い」。
「肌の色が黒い事」を笑っている訳ではなく、
肌の色を黒く塗ったにも拘わらず、
髭をつけているにも拘わらず、
かつらをつけているにも拘わらず、
衣装を着ているにも拘わらず、
エディーマーフィーに寄せているにも拘わらず、
どう見ても浜ちゃんでしかないところが面白いんでしょう。
わざわざ手間をかけているにも拘わらず、
エディーマーフィーになりきれず、
「浜ちゃん要素」の主張が強い事が面白いんだと思います。
< 基準 >:手間をかけて他人に扮装しているにも拘わらず
< ズレ >:どう見ても本人
<ツッコミ>:「どう見ても浜田やんけ!」「浜田濃すぎるわ!」
笑いの対象になっているのは、
「ブラックフェイス」ではなく、
むしろ、否応なく浮き出てくる「浜ちゃんの風貌」です。
門脇麦さんが、
始めはセリフが言えていたのに、途中で笑ってしまうのも、
「エディ・マーフィーの扮装」の中に「浜ちゃん本人の要素」を見つけ出してしまった瞬間だと想像します。
少なくとも、
「顔を黒く塗っている事に気付いた」、
「エディ・マーフィーの扮装に気付いた」、
「黒人の理解出来ない明るさを思い出した」、
から笑ったという訳ではないですよね。
改めて、
「エディ・マーフィーの扮装をしても、よく見ると、結局、浜ちゃんの顔でしかない事に気付いた」
から面白くなったんでしょう。
リテラの記事では、
渡辺直美さんのモノマネと比較して、
技術が伴わず劣っているかの様にとらえられていますが、
モノマネ出来ていない部分があるからこそ笑いが生まれる「非モノマネの笑い」である点は、
全く同じです。
警察署到着後に、
浜ちゃんが表情を作ったり、真顔で笑わせようとするのも、
「黒く塗った中の浜ちゃんの顔」を強調しようとしている訳ですね。
□□□□□□非モノマネ□□□□□□
「ミンストレル・ショー」が、
黒人に対する偏見、差別を背景に、
白人が顔を黒塗りにして「黒人を演じる事」で、
「黒人の無知や無知から来ると思われていた明るさ」を再現して、
観客たちを笑わせていたのなら、
その笑いは「非モノマネの笑い」ではなく「モノマネ本来の笑い」です。
「モノマネ本来の笑い」は、
モノマネの客体のディスコミュニケーションを再現、再提示して笑いにする事。
白人にとって、
黒人の存在、言動はディスコミュニケーションだったので、
それを再現する事で笑いにしていた訳です。
「なぜ黒塗りが必要なのか?それは、知識と技術が足りないからだろう。」
というリテラの記事の記述は、
この「モノマネ本来の笑い」に関しては正論です。
黒塗りしなくても、
客体のディスコミュニケーションを「再現する技術をもっている」なら、
黒塗りは必要ありませんからね。
ただ、ここまでの考察で分かるように、
浜ちゃんのエディ・マーフィーの扮装には、
「ミンストレル・ショー」と同じ「モノマネ本来の笑い」にあたるものは、
どこにも見当たりません。
そこにあるのは、
「手間をかけた事」「その状況のあるべき姿からの逸脱」という「モノマネとは無関係な笑い」と、
モノマネの様でありながらもモノマネではないからこそ面白いと感じる「非モノマネの笑い」。
別に、
「『モノマネ本来の笑い』を目指したけど、『技術が足りないから』『黒塗りが必要』となった」という訳ではないでしょう。
「モノマネ本来の笑い」を目指したと思ってる人います?
批判する人達が例に出す「ミンストレル・ショー」の笑いとは異なりますね。
「肌の色を黒く塗っている事」が面白い訳でもありません。
ツッコミの言葉の分析からは、
「差別」とは関係無い事が分かります。
ちなみに、
この件のコメントに、
「浜ちゃんが尊敬するエディ・マーフィーに敬意を表した」
と擁護する意見もありましたが、
別記事に書きますが、これも違います。
「差別、揶揄」や「オマージュ、尊敬」という優劣の価値判断とは、
全く関係の無い笑いです。
以下次号。。。
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