笑っていいか?いけないか?…5/5 | りおみーのブログ ニュースとお笑い芸人に不毛な突っ込み

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主にお笑いのネタに関して、時々ニュースに関して、「これってどういう事?」をロジカルに分析してます。

……では私達は、何を笑うのでしょうか?

前号続きです。。。

(注):セリフは書き起こしたもので、正確ではありません。

□□□□□□ここまでの要約□□□□□□

ここまでの分析の通り、

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!大晦日年越しSP絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』(日本テレビ系)における、
ダウンタウン浜ちゃんのエディ・マーフィーの扮装には、

「手間をかけた事」や、
「状況のあるべき姿からの逸脱」に、
ディスコミュニケーションを感じている笑いがあります。

そして、
「扮装」という手段を採る事から、
「モノマネ」の笑いととらえると、

「ミンストレル・ショー」の笑いが、
モノマネの客体(黒人)の言動の偏見に基づくディスコミュニケーションを再現する事で笑いにする「モノマネ本来の笑い」であるのに対し、

「エディ・マーフィーの扮装」の笑いは、
モノマネになっていない部分を笑いにする「非モノマネの笑い」です。

□□□□□□手間と非モノマネ□□□□□□

ちなみに、
特殊メイクで浜ちゃんではなく完璧なエディ・マーフィーにしたなら、
「エディ・マーフィーではなくどう見ても浜ちゃん」という「非モノマネの笑い」ではなくなりますよね。

たかだかオープニングに必要以上に手間をかけた事にズレを感じ、
「手間をかけた事」に対する笑いは大きくなり、
「何処まで手間かけとんねん!」
と、突っ込みたくなるでしょう。

逆に、手抜きで浜ちゃんそのものでしかないなら、
「やるならちゃんとやれや!」
と、突っ込みたくなるでしょう。

もちろん、これらも一つの笑いです。

今回のエディ・マーフィーは、
ある意味「手間をかけた」と感じさせて笑いにしながらも、
隠しきれていない「浜ちゃん要素」でも笑いを感じさせる、
微妙な匙加減で作り出された笑いと言えそうです。

もちろん、
どこまで考えて作っているかは知りません
が、
結果としてはそういう笑いになっていたという事です。

□□□□□□比較すべきは……□□□□□□

「ミンストレル・ショー」と比較され、
同じだと非難される訳ですが、

むしろ、
真っ先に比較すべきは、
当たり前ですが、毎年行っている登場シーン。

そうすれば、
「手間をかけた事が面白い」
「状況のあるべき姿からの逸脱が面白い」
という事に気付けたでしょう。

毎年恒例の流れを知らないと、
「手間をかけた事が面白い」
「状況のあるべき姿からの逸脱が面白い」って、
思わないのも仕方ないかも知れません。


また、
世界でウケている渡辺直美さんとは手段(黒塗りの有無)が違うと非難される訳ですが、

むしろ考えるべきは、
「手段」よりその笑いの「内容」

そうすれば、
「非モノマネの笑い」という笑いの類似点に気付けたかも知れません。

どちらも「本人の外見」という技術では如何ともし難い部分こそが、笑いの源泉です。

□□□□□□笑ってはいけない□□□□□□

批判する人達は、
「このネタはこういう笑いに違いない!」
と、理解出来た気分になっています。

しかし、
この「分かったつもり」は諸刃の剣。

製作側の都合で、
「分かったつもり」をうまく裏切り、
「思い込みの間違い」の笑いにする事もあるでしょう。

ところが逆に、
「分かったつもり」が笑いを阻害する事もある訳ですね。

「笑いのフォーマット」が提示されているにも拘わらず、
それを感受するよりさき(pre)に、
「差別だ!」と別の判断(judice)をしてしまう「prejudice」。

「差別」の笑いではないにも関わらず、
「差別」の笑いに違いないと「分かったつもり」になる「prejudice」は、
「手間をかけた事」、
「その状況のあるべき姿からの逸脱」、
「非モノマネの笑い」、
……などの「笑いのフォーマット」の感受を阻害します。

実は、
この「分かったつもりにならない事」こそ、
「笑ってはいけないシリーズ」の笑いの基礎なんですが、
それはまた別記事で。。。

□□□□□□まとめ□□□□□□

黒人差別の歴史として、
「ミンストレル・ショー」等の具体例を挙げる事は、
見映えもよく、
説得力もあるように感じさせる事が出来ます。

しかし、
その差別の歴史と外形的に共通である(顔を黒く塗った)事が、
内面的に共通である(差別である)という事を証明する訳ではありません。

同じ差別であるかどうかは、
その内容を具体的に検討してみないと分かりません。

そういう訳で、
「笑ってはいけない~」のエディ・マーフィーの扮装が意図した、
笑いを作るという効果の面から、
「ミンストレル・ショー」の笑いと同じかどうかを検討してみた訳です。

結論。

「笑ってはいけない」のエディ・マーフィーの扮装の笑いに見つかったのは、
「手間をかけた事」に対する笑い、
「あるべき状況から逸脱する事」に対する笑い、
「非モノマネの笑い」、
であって、
「ミンストレル・ショー」の偏見に基づくディスコミュニケーションを再現して笑いにする「モノマネ本来の笑い」とは異なります。

批判する人は、
「面白くない」
と言いますが、

同シリーズを見ていない人は上記の「笑いのフォーマット」を認識できないですし、
「差別、偏見に違いない」という偏見を持つと、それが「笑いのフォーマット」の感受を阻害します。

差別とは無関係な「笑いのフォーマット」を感受して笑う事は、
悪い事でも何でもありません。

よって、

「笑ってはいけない」のエディ・マーフィーの扮装は、
笑ってもいいか?いけないか?

答え:笑ってもいい。


「顔を黒く塗る」事だけで人を笑わせてる?

いやいや、
何で笑わせるかって、単純じゃありません!

お笑い芸人って、どんだけ楽な仕事だと思われているんでしょう?

残念!

m(__)m


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