エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XI-7

2024-04-27 10:00:09 | 地獄の生活
「グルルー夫妻が言うには、見習いのマルグリット嬢が、彼らの言葉を借りると『お偉方に貰われて行った』後は、彼女とは会っていないとのことだった……でも、それは嘘ね。少なくとも一度は彼女に会っている。彼女が二万フランを彼らのところへ持って行った日にね。そのお金が彼らの財源なのよ……。あの人たち、そのことを吹聴したりはしなかったけど……」
「ああマルグリット、心優しいマルグリット!」
そう呟いた後、彼は大きな声で尋ねた。
「でも、お母さん、そんな細かいことまでどこで知ったんですか?」
「グルルー夫妻に引き取られる前にマルグリット嬢が育った孤児院でよ……そこでも、聞いたのは彼女を褒めそやす言葉ばかりだったわ。修道院長様が仰るには、『あれほど生まれつきの才能に恵まれ、気立てが良く、利発な子供は見たことがありません』と。もしも欠点を挙げるとすれば、年に似合わぬ無口さ、そしてプライドでしょうか。それはときに強烈な傲慢さという側面を持つものですからね、と……。それでも彼女は、製本屋の親方を忘れなかった以上に、孤児院のことを忘れなかったのです。修道院長は一度彼女から二万五千フランを受け取ったことがおありだそうよ。それにまだ一年も経たない前のことだけど、十万フランが孤児院に寄付され、その金利が毎年孤児院の経営を助ける筈だと……」
パスカルは勝ち誇っていた。
「これで分かったでしょう、お母さん、どうです! 僕が彼女を愛する理由が!」
しかしフェライユール夫人は答えなかった。重苦しい不安がパスカルを捕らえた……。
「お母さん、黙っていますね」と彼は言った。「何故です? 僕がマルグリットを妻にすることが許されるその幸せな日、お母さんは僕たちの結婚に反対なさるつもりですか?」
「いいえ、パスカル、私が聞き知ったことのどれを取っても、私にその権利は与えられないわ」
「権利ですって! ああ、お母さん、あなたは理不尽だ!」
「理不尽ですって、私が! 私は聞いてきたことをすべてお前に包み隠さず話したじゃありませんか。お前を激怒させることが分かっていても、なにもかも!」
「それはそのとおりです。でも……」
フェライユール夫人は悲し気に首を振った。
「考えてみて頂戴」と彼女は息子を遮って言った。「お前が自分の生涯の伴侶として、婚外子として世のしきたりの埒外で生まれた娘を選ぶのを見るのが、私にとってどんなに辛いことか! お前があのトリゴー男爵夫人のような女の娘と結婚するのだと思うとき、私が不安な気持ちなるのがお前に分かる? 彼女の母親は彼女を自分の子供と認知することも、その存在を認めることすら出来なかった。既婚の身だったからよ」
「でも、お母さん、それが彼女の罪ですか?」4.27
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2-XI-6

2024-04-20 09:35:21 | 地獄の生活
「で、彼らに会ったんですね……」
「ちょっとした嘘を吐いたけれど、そのことで自分を責める気にはならないわ。それでグルルー夫妻の家に入れて貰って、一時間ほど居たのよ……」
パスカルを驚かせたのは、母の氷のように冷静な口調だった。彼女がゆっくりとしたペースで話すのでパスカルは死ぬほどじりじりしたが、それでいて急かせる気にもなれなかった。
「このグルルー夫妻というのは」と彼女は続けた。「実直な、というのがぴったりな人たちだと思うわ。法律に触れるようなことは決してしない、という。そして七千リーブルの年利収入をとても自慢に思っているようだった。マルグリット嬢を可愛がっていたということはあり得る、と思ったわ。というのは、彼女の名前を出した途端、彼らは親愛の表現をふんだんに使ったからなの。夫の方は特に、彼女に対して感謝に似た気持ちを抱いているように見えたわ」
「ああ、お母さん、分かって貰えたんですね……」
「奥さんの方は、一番の徒弟を失ったことを残念に思っている風だったわね。今まで見た中で一番正直で、一番良く働く娘だったと……。でも彼女の話しから察するに、可哀想な徒弟のマルグリット嬢をさんざん利用したことは間違いがないわ。ただの使用人としてこき使ったことは……」
パスカルの目に涙が光っていた。が、彼の呼吸は元に戻っていた。
「ヴァントラッソンに関しては」とフェライユール夫人は続けた。「姉のところの見習い娘に目を付けたことは間違いないわ……」
「それは……」
「この男はそれ以来恐ろしい悪人となって、今でもどうしようもない男のようだわ。神にも法にも従わず酒と女に溺れて……。義兄のところで働いていた少女、当時十三歳だったそうだけど、そんな少女にとって自分の愛人になるのはこの上ない幸運に違いないと思っていたのよ。ところがその少女が勇敢にも撥ねつけたものだから、プライドが傷つけられたのね、可哀想なその少女にいやらしく執着したので、彼女は親方夫人に訴えたのだけれど、親方夫人の方は、あろうことか、それを若気の過ちとして一蹴してしまった……それからグルルー親方の方にも訴えに行くと、彼の方でも金をせびる義弟を厄介払いしたくて堪らなかったらしく、彼を首にしたということだわ」
ヴァントラッソンのような下劣で卑しい男が、パスカルの心の中で神聖なマドンナの位置を占めている女性にいやらしく言い寄っていたと知って、パスカルは怒りに我を忘れてしまった。
「くそ、悪党めが!許さん!」と彼は呻いた。
フェライユール夫人は息子の怒りに気づかぬ様子で言葉を続けた。4.20
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2-XI-5

2024-04-13 14:08:26 | 地獄の生活
パスカルは母親の面前に立ったまま、片方の手で椅子の背をぎゅっと掴んで身体を支え、来るべき打撃に供えて身構えているかのようであった。彼自身に関わる悲痛な感情は過去のものとなり、今や彼の全神経は高揚し逆上の域に達するかと思われた。目の前には苦悩の深淵があり、それに呑み込まれそうだった。彼の人生がかかっているのだから! これから母親が語る内容の如何によって、彼は救われるか、決定的に死を宣告され、恩赦を請うことも出来ず、希望もない状態に置かれるか、になることになる……。
「それじゃ、お母さんが出かけた目的はそういうことだったんですね?」
彼は口の中で呻くように言った。
「ええ、そうよ」
「僕には何も言わずに……」
「そうすることが必要だった? 何を言ってるの! お前こそ、私の知らないところである若い娘さんを愛するようになり、彼女に結婚を誓ったんじゃないの。それなのに私がその娘さんがどんな人で、お前にふさわしい人かどうか、どうにかして知ろうとしたら驚くのね……そうしない方がよっぽど不自然なことよ」
「だってお母さん、そんないきなり行動を起こすなんて!」
殆ど目につかないような仕草でフェライユール夫人は肩をすくめた。おやおや、こんな子供じみた抗議に遭うとはね、と驚かされたかのように。
「それじゃお前はあの意地悪女の汚らわしい仄めかしを忘れたって言うの? 私たちが雇った女中のヴァントラッソンのおかみさんの?」
「ああ、それか!」
「お前と同じように、私もあの卑しい当てこすりの意味が分かったわ。お前を心配させてはならないと思って表には出さなかったけれど、私だって内心穏やかではなかったのよ……。だから、お前が出かけたすぐ後、私はあの女に問いただしたのよ。というより、自由に喋らせたの。で、マルグリット嬢がヴァントラッソンの夫の義理の兄であるグルルーという男のもとで見習い修行をしていたことを知りました。その男は以前サンドニ通りで製本業を営んでいたけれど、今は年利収入で暮らしていることも。ヴァントラッソンがマルグリット嬢と知り合ったのもその製本屋でのことだった。そして後日ド・シャルース邸でマルグリット嬢に再会したときどんなに驚いたか……」
パスカルはもう息が出来なかった。血管の中で血の流れがぴたりと止まってしまったかのようだった。
 「ちょっとした技を使ったら」フェライユール夫人は続けた。「ヴァントラッソンのおかみさんからグルルー夫妻が今どこに住んでいるか聞き出せたわ。それで辻馬車を呼びに行かせ、その住所まで乗って行ったというわけよ」4.13
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2-XI-4

2024-04-08 15:38:31 | 地獄の生活
というのも、パスカルは自分の母が厳格な伝統に固く縛り付けられていることは知らないわけではなかったからだ。一般市民階級の古い家柄では、母から娘へと代々受け継がれる貞節の掟のようなものがあり、それは情け容赦なく盲目的とも言えるものだということも……。
「男爵夫人は夫から崇拝されていることがよく分かっていたんですよ」と彼は思いきって言ってみた。「夫が帰ってくると知って、彼女はパニックになり理性を失ってしまったんじゃないでしょうか……」
「それじゃお前は、その人を弁護するというの!」とフェライユール夫人は叫んだ。「お前は、過ちを償うのに罪をもってなす、なんてことが可能だと、本当に信じているの?」
「いいえ、断じてそんなことはありません、でも……」
「男爵夫人が自分の娘にどんな苦しみを与えたかを知ったら、お前ももっと彼女に厳しい判断を下すでしょうに。自分の母親によって、中央市場の近くのどこかの家の門の下に密かに捨てられてからド・シャルース伯爵に引き取られるまで、彼女がどれほど危険で悲惨な目に遭ったかを知ればねぇ……彼女が死なずにいられたのは神様による奇跡ですよ……」
フェライユール夫人はどこからこんな詳しい話を聞いたのだろうか? この疑問がパスカルの頭に浮かんだが、その答えは全く分からなかった。
「ぼ、僕は分からないんですが、お母さん……」と彼はもごもごと言い始めた。
夫人は息子の目をじっと見つめた。それから優しく言った。
「それじゃ、お前がマルグリット嬢の過去について何も知らないのは本当なのね。彼女はお前に何も言わなかったのね?」
「彼女の過去がとても不幸だったことは知っています」
「彼女が年季奉公をしていたときのことを、彼女から何も聞いていなかったのね……」
「生きるために手仕事をして働いていた、と話しているのを聞いたことがあります……」
「そうなの。私はね、もっと詳しく知っているのよ!」
パスカルは仰天を通り越して殆ど恐怖に近いものを感じていた。
「お母さん、あなたがですか!」と彼は叫んだ。
「ええ、そうよ。私はね、彼女が引き取られ、養育を受けた孤児院から戻ってきたところなのよ。そこの修道女様二人とお話をしてきたわ。お二人とも彼女のことを覚えていらしたわ。それに、彼女が見習いとして働いていたところにも行って親方夫妻の話も聞いてきたわ。そこを辞してからまだ一時間にもならないわ……」4.8
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2-XI-3

2024-03-31 14:04:40 | 地獄の生活
パスカルは答えなかった。母の言うことは全く正当だと分かってはいたが、それでも彼女の口からこのような言葉を聞くのは身を切られるように辛かった。何と言っても、男爵夫人はマルグリットの母親なのであるから。
「そういうことなのね」とフェライユール夫人は、徐々に興奮の度を増しながら言葉を継いだ。「そういう女性がいるというのは本当の事なのね。女はこうあるべきというものをこれっぽっちも持たず、動物にもある母性本能すら持たない、という……。私は貞淑な妻だったけれど、だからって自分が立派だと思っているわけではないわ。そんなこと、褒められるようなことじゃない。私の母は聖女のような人だったし、私の夫を私は愛していた……義務と言われることは、私にとっては幸福だった……だから私には言える。私は過ちを許しはしないけれど、理解はできるわ。若くて綺麗で男から言い寄られる女が、パリの真ん中に一人きりになって分別をなくしてしまうということ、そして自分のためにひと財産を手に入れるため外国に渡り多くの危険を冒している誠実な男のことを忘れてしまうってことが起こり得るのは、私にも分からないではない。男の方だって自分の誇りと幸福を、そんな風に危険に曝すのは無分別とも言えるわ。でもその女は心弱く、貞節を守れず、子供を身ごもり、挙句の果てに卑怯にもその子を、まるで犬の子を手放すように見棄てるなんて、それは私の理解を越えることです……いっそ子供殺しの方がまだ分かります……その女には心もなければ情もない、人間らしさが欠如しているのよ。でなければ、この世界のどこかに自分が血と肉を分け与えた子供がいると知りつつ、その子がこの世のどこかで惨めさに怯え、捨てられた悲しみに曝されていることを思えば、どうして眠ったり普通に生活したりできるでしょう……? その女はお金持ちだというではありませんか……宮殿のような家に住んでいるとか……それなのに、自分の装いや楽しみのことしか考えないとは!どうやったら毎日の一秒一秒を自分に問いかけずにいられるのでしょう、『あの子はどこ? いま何をしているの?…… どうやって暮らしているの? 不自由はしていないかしら、服はちゃんと着ているかしら、食べ物は十分にあるかしら? 掃きだめのようなところに転落してはいないかしら? これまでは自分の労働で食べてこれたけれど、今日は仕事がなくなってパンにも困ることになって自暴自棄になっていないかしら!』 と。 ああ神様、その女はどうやって外に出たりできるのでしょう! 飢えのために自堕落な生活に追いやられている可哀そうな女たちが通りすがるのを見るたび、どうして思わずにいられるのでしょう? 『あれは私の娘かもしれない!』 と……」
パスカルは母の感情の爆発に激しく心を揺すぶられ、顔面が蒼白になった。母が次のような言葉を発するのではないかと恐れ、彼の身体は震えた。
「お前、よくお聞きなさい。お前が結婚しようとしているのは、そんな女の娘なのよ!」
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