言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

今年の発表会で

2021年09月16日 | 歌舞伎・能など

大変ご無沙汰いたしました。

どこからともなく香る金木犀に、

もう秋なのだと、改めて時の流れの速さを感じます。

 

今年の夏は、コロナ、医療逼迫、

以前とは随分変わってしまった気象、相次ぐ災害と、

不自由と不安の多い日々でした。

皆様、いかがお過ごしでしたでしょうか。

 

昨年のコロナ第1波の始まり以来、

様々な催しは中止になることも多く、

開催されても参加は控えましたが、

波が低い時期には、

家族との徒歩での長距離街巡りや美術館、

またこの一年間では二回ほど能の鑑賞も楽しむことができました。

(一公演では一番だけ観るに留めたので、

「呉服」と「三山」の二番だけでしたが。)

 

謡と仕舞の稽古については、

昨年は長い期間リモートに切り替えていただいたので、

謡だけになってしまっていましたが、

秋からは先生のお宅で謡・仕舞ともにの形に戻り、

今年前半には大変幸運にも、能楽堂での発表会で、

舞囃子を舞うことができました。

けれども今回のコロナ第5波で、7月からまたリモートになりました。

 

今年の発表会について、先生からは

「昨年は中止になってしまい、せっかく稽古したものが

舞台にかけられず残念でしたが、今年は別の曲にしましょう。

今まで稽古していない男舞はどうですか。」

とのお話がありました。

けれども私は、腕が思うように上がらない四十肩のような症状と、

しばしば見舞われる腰痛に悩まされていたため、

速度と凛々しさの求められる男舞は無理と判断し、

再考をお願いしました。

 

そこで先生が決めてくださったのは「山姥」でした。

複雑な型があるわけではありませんが、

「三クセの一つと言われる難しい曲だから、頑張って。」との

先輩のお言葉、

また心配してくれたある友は、

「山姥」の舞台となる境川(富山県と新潟県の県境近く)

についての文章や、謡の解釈に大変参考になる古い文献を

コピーして送ってくれました。

他にも、先輩方からの貴重な資料や励まし、

三年前に国立能楽堂で拝見した宝生流のお能の記憶、

今年テレビで拝見した金剛流のお能にも、

大きな力をいただきました。

 

直前にこれまでになく腰痛が悪化し、

どうなるか不安でしたが、

有り難いことに当日は、少々の痛みがあったものの、

最後まで無事に舞うことができました。

 

このような会の常、多くの方が声をかけて下さり、

感想をくださいましたが、

小中高と同じ女子校で育った、

能、歌舞伎、茶道…日本の古典文化に造詣の深い、

また私の能の稽古についての思いや、今回の腰痛など、

様々を知っていて下さる三人の友の、

舞えたことを喜んで下さる暖かい感想は本当に嬉しく、

心の宝箱に大事に収めました。

また能楽堂からの帰り際、

年下の女性の方から呼び止められ、

「お舞台を拝見して、私もこれから一生懸命お稽古して、

 いつかぜひ山姥を舞えるようになりたいと思いました。」

と言っていただいて、とても嬉しい気持ちになりました。

 

けれどもそんなお言葉を頂けたのは、

腰痛だった私の、リアル「山ン婆」感が強かったのかもしれません…。

 

「山姥」の中に、次のような箇所があります。

シテである山姥自身が、山姥とはどのようなものか、

語る謡(実際には地謡)の一部分です。

 

「さて人間に遊ぶ事、或時は山賎(やまがつ)の、

樵路(しょうろ)に通ふ花の陰、休む重荷に肩をかし

月諸共に山を出で里まで送るをりもあり、

又或時は織姫の、五百機(いおはた)立つる窓に入って、

枝の鶯糸繰り紡績(ほうせき)の宿に身をおき人を助くる業をのみ、

賤(しず)の目に見えぬ鬼とや人のいふらん」

 

山姥は人と交わることもあります。

ある時は、木こりが花の咲く木の下で休んでいる時に、

重い薪を背負い、月が出る頃に山を下り、

里まで持って行ってあげることもあります。

またある時は、機織りの娘さんの部屋に入って、

鶯が巣を作る時のように糸を紡ぎ、

手助けすることもあります。

このように人を手伝ってあげるのですが、

普通の人の目には見えず、

「鬼の仕業だ」と言われるのです。

 

このような意味になるでしょうか。

この謡に触れると、私は以前、

静嘉堂文庫美術館の「能をめぐる美の世界」展で見た

山姥の能面を思い出します。

ほんのり赤味のある顔は日焼けのようにも思え、

いくつか展示されていた山姥面の中で、

一番人間味が濃く、鬼からは程遠く感じました。

山で独り生きてきたが故の、ひと時の人恋しさ、優しさ、

けれども執着を振り払う強さ、人を超越した不思議な力、

そして悲しさ…

そんな「山姥」の全てを孕んでいるような、

とても美しい能面だと思いました。

 

  静嘉堂文庫美術館

「能をめぐる美の世界

  ー静嘉堂・岩﨑家蒐集の能面と古面ー」図録より


能の舞台を見ることはできなくても

2020年08月31日 | 歌舞伎・能など

 

当分続けることになりそうな自粛生活の中で、

能を観る機会は減りましたが、

師にリモートで謡の稽古をつけてもらう以外にも、

自分なりに能に触れていると思うことが二つほどあります。

 

一つは、林望著『能の読みかた』(角川文庫)を読む時です。

今まで、能についての本は、鑑賞や稽古の補助的な目的で

読むことがほとんどでした。

でもこの本については少し違うように思います。

 

例えば「千手(せんじゅ)」という能があります。

一ノ谷で源氏軍の捕虜となり、鎌倉で処刑を待つ平重衡のもとに、

その身辺の世話をするよう命を受けた、

駿河の手越の長の娘・千手(シテ)が訪ねてきます。

最初は追いかえされますが、ある春雨の夜、

千手のうた、舞、そして衡は琵琶を奏し、千手は箏を奏で、

お互いの心を通わせます。

しかし翌朝、千手は護送される重衡を見送る、という能です。

 

勇敢な武将でもあり、28歳にして三位の中将という貴公子でもある重衡。

みめ麗しく、技芸に優れた千手。

 

その千手が、妻戸を押し開いて、幽閉されている重衡の

部屋に入ってくるところが、この能の最大のポイントであると、

本の著者・林望氏は指摘します。

少し長くなりますが、その部分をご紹介したいと思います。

 

「その時千手立ち寄りて、妻戸をきりりと押し開く、

 御簾(みす)の追風(おいかぜ)匂び来る、

 花の都人に、恥ずかしながら見(まみ)えん、

 げにや東の果しまで、人の心の奥深き、

 その情こそ都なれ、

 花の春紅葉の秋、誰(た)が思ひ出となりぬらん

 

 戸を開くと同時に、外からは降りしきる雨音が侵入し、

 若く美しい女の姿が現れ、と同時に、

 室内の御簾の陰からは重衡の体に焚きしめた

 香の薫りが鼻を穿つのだ。

 雨の日の湿った空気の匂いや、

 若葉のむせるような匂いもあるだろう。

 このシーンの立ち姿と謡の奥深さが、

 後の芸能や重衡の悲しさを丈高く演出するのである。

 緊張する一瞬である。

 つまり、そういうなにげない場面、

 ある通過点のような一瞬に、

 案外凄い劇的緊張が隠されている、というのが

 能のまことに面白いところで、見るほうも

 気を抜くことができないのである。」

 

林氏の声と顔が浮かんでくるような独特の文章で、

様々な能について語ってくれる一冊、

現実の、特定の舞台、能役者が思い出されるのではなく、

著者の筆によって描き出される物語、

想像させられるシテとツレのたたずまいや動きに、

登場人物の心模様や舞台の張りつめた空気が思い描かれて、

とても感動的な「能」に触れたような気持ちがします。

 

もう一つは、過去の能評を読むことです。

例えば2013年9月25日の日経新聞夕刊の「能・狂言」欄、

村上湛さんが国立能楽堂会場30周年記念公演について書かれた記事の

一部をご紹介したいと思います。

 

三日目の17日、長老・近藤乾之助が「鶴亀 曲入」の

 シテ・玄宗皇帝を演じた。

 直面物(ひためんもの。素顔の劇能)に優れる近藤も、今年85歳。

 眼目の遊舞の「楽(がく)」では定めの立ち位置よりも内輪で、

 足拍子も弱い。

 だがその身体は囃子の演奏を受け止め、

 一筆書きのしなやかな胆力を保ったまま舞台上の空気感を支えた。

 夾雑物が脱落、ただ音楽と肉体のみが呼応し続ける精妙な感覚は

 最も優れたダンスの極意。

 人が草木や石など自然存在と等しくなったような、

 能を支える根本の力でもある。

   (中略)

 衰えた近藤の「鶴亀」に確固として残る抜き差しならない身体感覚を

 感得し受け継ぐ、気骨ある役者が今後出るだろうか。」

 

ただ言葉を追うだけでなく、一言一言理解と想像をしつつ読む作業。

故人となられた近藤乾之助師の、

まさに頭のてっぺんから爪の先まで、

謡と謡の間の一瞬にまで、

気が籠もっているように感じた舞台の記憶と、

「鶴亀」についての知識を総動員して、

村上氏の観た能を思い描きます。

 

このような本や記事を読むことは、実際に能を観るのとも、

師に稽古をつけていただくのとも違う、

それ自体独立した、私の大きな楽しみとなっています。


大変久しぶりにお能を観てきました

2020年06月23日 | 歌舞伎・能など

 

私が今年初めて見に行ったお能は、自粛後初の公演だったそうです。
6月20日水道橋の宝生能楽堂で、五雲会の「善知鳥(うとう)」を観てきました。

入り口で手のアルコール消毒と検温をしてもらい、チケットの半券は自分で切って箱の中に入れました。

舞台とロビーの間の扉は上演中も解放、舞台の切り戸(地謡、後見の出入りする戸口)も開けたままです。
席は隣り、前後が空くように、半数のみ使用。

舞台が始まって、いつもと違ったのは地謡です。
普段8人(4人×2列)のところ、5人の1列。
正面から向かって右側の地謡座の前列ですが、いつもより少し前に出た着座のように思いました。
そして地謡の能楽師の方々は、白の、手拭い半分程の長さの(おそらく)晒を、口から袴の少し上位まで垂らした状態の特別マスクを装着していました。(紐を頭の後ろに回し結びつけてあります。)
この長さは、たぶん謡った時に、布が口にはり付いたり離れたりしないような工夫として考案されたと思われます。
始めは少し奇異に見えましたが、正面の席だったこともあり、また次第に「善知鳥」の能に引き込まれ、気にならなくなりました。

旅をしている僧侶(ワキ)のもとに、亡霊(シテ)が現れ、妻子への伝言を頼みます。
頼みに従い、妻子の住む家を訪ねた僧は、妻子と共に亡き夫であるシテの供養を始めます。

そこに再び現れたシテは、生前猟師として殺生を重ね、その罪深さも生き物への情も忘れ、ひたすら殺生に明け暮れてしまった日々を後悔していると語ります。
そして今は地獄に落ち、生前殺した鳥や獣に攻められて苦しんでいる様を再現して見せ、目の前にいる妻子に近づくこともできず、可愛い子どもの髪を撫でてやることもできない悲しさを嘆くのでした。

能の最後は、次のような謡で終わります。

「安き隙(ひま)なき身の苦しみを
助けてたべや 御僧
助けてたべや 御僧」
といふかと思へば失せにけり 

僧にお経を読んでもらい成仏する、お能によくある終わり方ではなく、

安らかになる時のないこの身の苦しみから
助けてください!助けてください!
と叫びながら地獄に引き戻されていってしまいました

この悲痛、苦悩が身の隅々まで満ちているようなシテ・和久荘太郎さんの表現、特にカケリ以降の動きに、とても惹き付けられました。
またワキの僧侶・森常好さんのしっとりとした情緒ある謡、ツレの妻・田崎甫さんの丁寧な謡が印象に残りました。
そして五人という人数で、一人が一人分以上の働きをされた地謡にも、数ヶ月押しこめていた情熱が解き放たれたようなエネルギーを感じました。

コロナのためか、年長の能楽師の方の姿がないことだけが一点残念なところで、勝手な思いとしては、年輪ある方の謡が加わると、また違う味になったかもしれないとも想像しました。

でも私は怖がりで、能楽堂に行くことに躊躇があったのですが、観に来ることができて本当に良かったと思う「善知鳥」でした。
このお陰で元気が出て、能楽堂のある水道橋から九段下まで歩いてしまいました。


今年の春

2020年03月29日 | 日記

春というと、麗らかな日差しが思われますが、

風が強かったり、花粉で鬱陶しかったり、

今日のように雪が積もったりと、意外に一筋縄では行かない季節、

その上今年は、コロナウイルスへの不安に振り回される毎日です。

・・・不安というより、一つ一つ考え、判断をしなくてはならず、

気が休まらないということかもしれません。

 

コロナウイルスとの戦いは長くなりそうですので、

少し気分転換をと思い、先週半ば、買い物への道を遠回りして、

このところ随分行っていなかった大好きな並木道に足を延ばしました。

 

 

見頃はまだ先のようでしたが、

春の薄青い空に、桜の淡いピンクが溶け込む景色、

緊張した気持ちが束の間やわらいだ気がしました。

 

 

 

 

 

 

その翌日も、また別の遠回りをしました。

 

 

 

 

ここに来ると、「そうだ、京都行こう」という言葉が浮かんでしまいます。

春だけでなく、秋も

 

 

 

このような美しさです。

 

皆様にも、きっと様々な形で影響を受けていらっしゃることと思います。

どうぞくれぐれもお大事にお過ごしください。

私も対策・自粛の範囲の中で、心を緩める時間もとりつつ、

乗り切りたいと思っています。

 

 


久しぶりのMOA美術館

2020年03月10日 | 博物館・美術館など

35年程前に両親と、

25年程前には夫の両親と訪ねた熱海のMOA美術館に、

昨年のちょうど今頃行ってきました。 


   

 

いくつかを除き、大部分の展示は撮影自由でした。


   


   


   


   

   


   


   


   

一年前ですので、館内には海外からの団体での見学者も多く、

20人位のたぶん中国の方達が、

展示を前にした講師の中国語での説明を、

大変熱心に聞いている光景が印象的でした。

またそのような光景を見られるようになるのは、

どれくらい先のことなのでしょうか。

   
   


 

黄金の茶室や能舞台も、「どうぞどうぞ。」と、

にこやかに撮影を許してくださいました。

 

   


   

 

  
   




また来年

2020年03月05日 | 日記

また来年お目にかかる時には、

感染拡大、緊急事態宣言、特別措置法などという言葉が

遠いものになっていますように願いながら、

お雛様を片付けました。

 

 

 

河津桜が満開です。

写真、こんな風にして加工してみました。

 

 


ご無沙汰しております。こんなこの頃です。

2020年02月01日 | 歌舞伎・能など

ご無沙汰しているうちに、どんどん時が進んでしまいました。

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。

私は今、舞囃子(仕舞より長く、能の一部を舞う)の稽古をしています。
舞囃子を発表会に出すのは5回目ですが、4回目からは、24年が経ってしまいました。
そして早舞(はやまい)は初めて、しかも記憶力も体力も、この年月の間に随分衰えてしまいました。

例えば、すっと立ち上がりたいのに、どうも一息遅れてしまう、
筋力が落ちたせいか、腰を入れても姿勢が不安定な感じがする、
謡の暗記や、謡いながらの複雑な動きを覚えることに、以前よりもてこずる…
不安がいっぱいあります。

朝だけだったスクワットを夜もやる、家事の省力化でなるべく練習時間を確保する、
目下こんな努力だけですが、毎日一歩でも半歩でも上達したいと思いつつ過ごしています。

以前より良いこともあります。
先生(男性でいらっしゃいますが)の、手足が長いという体型に、私の体型が似ているので、真似しやすい、
年月の間に少しは知識と経験が増え、役への理解が深くなった(ような気がする)等々。

徳勝龍のように、「もう」ではなく、「まだ〇〇才」だと思って頑張ろうと思っています。

 

一年ほど前に訪ねた、熱海のMOA美術館の能舞台


映画『あなたの名前を呼べたなら』  ・・・  Bunkamura ル・シネマ

2019年08月18日 | 映画

なにかを見に行ったり聞きに行ったりしても、
心に響かないことはしばしば、
というよりも、そのようなことの方が多いものですが、
このところの私は、幸運続きでした。
前回、前々回ご報告した、
セルリアンタワー能楽堂での能『藤戸』、
末廣亭の8月上席昼の部、
その他にも、この一か月ほどの間に、
二つ程、感動するものに出会いました。

そのうちの一つは、Bunkamura ル・シネマで見た映画
『あなたの名前を呼べたなら』(*)です。


   

ストーリーに関わることは控え、
リーフレットに書かれている言葉だけご紹介します。

≪インドのムンバイ。
 ラトナは 裕福なアシュヴィンに仕える住み込みの家政婦。
 近くて遠い二人の世界が交差した時ーーー。≫


ラトナとアシュヴィン、人生が交差した後の
それぞれはどうなっていくのか。

入場を待っている時、私達の前の回を見終わり出ていらした二人連れの方が、
結末の解釈の違いを、熱く論じ合っていらっしゃいました。

実際に見てみると、映画の中に散りばめられた何気ない描写に、
多くの事を考えさせられると共に、
二人の行く末は、たしかに様々な解釈ができると思いました。

またインドでは、この映画は公開されていないという事も、
想像や興味が膨らむ種になり、
二人で見た私達も、解釈の色々な可能性を話し合いました。

心に残る観賞となり、大好きな映画の一つになりました。



* 監督    ロヘナ・ゲラ
 ラトナ    ティロタマ・ショーム
 アシュヴィン ヴィヴェーク・ゴーンバル

 2018年カンヌ国際映画祭の「映画批評家週間 GAN基金賞」をはじめ、
 全部で12の賞を受賞したそうです。


   


新宿末廣亭 八月上席昼の部に行ってきました

2019年08月09日 | 日記



   


   


   



客席は椅子席ですが、両側が畳の桟敷で、
高座、桟敷の上部に、提灯が下がっています。
私は行ったことがありませんが、
各地に残る、古い、趣のある芝居小屋と
共通した雰囲気があるのではないかと思います。
(内部の写真は、申し訳ありませんがご遠慮をということでした。)
東京新宿にあるそんな末廣亭に、とても久しぶりに行ってきました。



一番に高座に上がった前座さんは、
鈴々舎美馬(れいれいしゃ・みいま)さん。
若い女性の方で、少しくすんだ薄いオレンジ色の和服を
きりっと着流しで。
名前を名乗った後、枕は無しで入った噺は「元犬」。
声も、お顔形もすっきりと素敵で、
話し方、仕種、癖がなく爽やかです。
帰って検索したところ、昨年の一月に入門、
今年七月に前座になったばかりとのこと。
将来が楽しみな、出来立てほやほやの噺家さんです。
噺だけでなく、
座布団を返して、師匠が置いていった羽織を持って帰ったり、
紙切りの正楽さんの後に、少しだけ落ちていた紙片を、
懐から出した手拭いに集め、また懐に入れて帰る等々、
高座での働きも、丁寧できびきびしていて感心してしまいました。
   
美馬さんに続いてのこの日の出演者は

 林家まめ平
 ジキジキ
 柳家小せん
 三遊亭窓輝
 アサダ二世
 春風亭柳朝
 桃月庵白酒
 鏡味仙三郎社中
 鈴々舎馬櫻
 柳家権太楼
 林家正楽
 鈴々舎馬風

  中入

 林家たけ平
 ロケット団
 春風亭一朝
 吉原朝馬
 三増紋之助
 林家正蔵

この中で特に印象に残った方々を、
勝手気ままに書かせていただきます。

音楽パフォーマンスの「ジキジキ」さん、
お二人とも歌がとてもお上手、
そして可笑しさは問答無用でした。

白酒さんは「子ほめ」を。
艶のある明瞭なお声、安定感のあるきっちりとした語り口に、
品を感じます。

権太楼さんの「家見舞」。
初めて聞いた噺ですが、わかりやすいすじ、
展開はだいだい予想できるのに、どうしても笑ってしまいます。
やはりさすがです。

トリの正蔵さん。
実は今まで、失礼ながら面白さを感じとれなかったのですが、
この日の「幾代餅」、とても惹きこまれました。
さらりとした可笑しさと、登場人物それぞれの誠実さが伝わる熱演に
感動しました。
このような人情噺が合っていらっしゃることが実感されました。

また仙三郎社中の太神楽、紋之助さんの曲独楽、
江戸の芸の美を感じました。


   

寄席の魅力を堪能した一日でした。

嬉しい予想外  ・・・ Bunkamuraセルリアンタワー能楽堂・渋谷能第四夜『藤戸』

2019年08月02日 | 歌舞伎・能など

  


7月26日(金)渋谷能第四夜、宝生流「藤戸」を観てきました。

能楽評論家・金子直樹さんの解説に続き、お能一番のみ。
体力減退気味の私にとって、有り難いプログラムです。

金子さんの解説は、
平家物語巻十にある話をもとにしたこの能の
特性、見どころを丁寧にわかりやすく説明してくださり、
とても参考になりました。
そして最後に、この能を観た人一人一人が、
色々なことを感じるであろうということを述べられた時、
次のようなことを話されました。

能は、舞台の上に気迫が満ちて、
それが客席に伝わるというものだが、
宝生流の能は、少し違う。
思いを内に内にと籠め、ぎりぎりまで凝縮した、
その粒を、観客が探すような感じ。
宝生流の家元も、美術館で絵を観ることに似ていると
述べられている。
絵が鑑賞者に働きかけるのでなく、
鑑賞者が絵を観に行き、その中に探し出す、
そのようなものである。


大変納得できる解説に、私はとても感銘を受け、
今日はどんな粒を見つけることができるか、
とても楽しみになりました。

照明が少し変わり、囃子方、地謡が舞台に登場、
「次第」の囃子でドラマが始まります・・・。

ところが観終わった時の感想は、
予想とは全然違うものでした。

この日の舞台では、シテもワキもワキツレも、
そして地謡も、「内に内に」ではなく、外に向かって
思いのエネルギーを放出しているような感じを受けました。
思いの凝縮された粒を探すのではなくて、
伝わってくる演者の表現をストレートに受け止めることによって、
ドラマに惹きこまれ、とても感動したのです。

抽象的な言い方になってしまいますが、
演者の方々の発する熱気が、ぶつかり合い、混ざり合い、増幅しあい、
舞台が、とても気迫に満ちた空間になっていて、
観ているものの意識を吸い込むように引っぱっている印象を受けました。


見どころ、聞きどころの多い、ドラマチックな能ですが、
これまではそれほど心に留まらなかったのに、
今回とても感銘を受けたところを一か所、書いてみたいと思います。


かつて息子を、大変にむごい状況で殺された老母(シテ)が、
その心の内を吐露する箇所です。


はたち余りの年なみ かりそめに立ち離れしをも、
待ち遠に思ひしに、又いつの世に逢ふべき、
世に住めば うきふし(*1)しげき河竹の
杖柱とも頼みつる、海人の此の世を去りぬれば、
今は何にか命の露をかけてまじ

 *1 ・・・ 憂き節


 二十歳あまりになるまでの年月
 少しの間離れた場所に行っているだけでも
 帰りを待ち遠しく思ったのに
 (この世からいなくなってしまったとは)
 またいつ逢うことができるのだろうか
 生きているという事は
 辛いと感じる時が多いけれど
 節の多い河竹で作った杖とも柱とも思い
 頼みにしていた海人(息子)がこの世を去ってしまった今、
 いったい何のために生きていけばよいのだろうか

こんな感じになるでしょうか。

この謡に合わせ(というより伴って)
シテは、二十歳余りだった息子の
在りし日の姿を思い出すように、
少し顔を上げ、遠くを見ました。
やがてその死を思い、顔を少し伏せ、
最後の一句で、両手でシオリ(*2)をして、
慟哭を表しました。
     

想像していたよりも声の調子を張った地謡と、
シテの、少ない中にも気持ちのこもった動きに、
幾百の表情、所作、セリフを連ねるより、
母親の、胸の張り裂ける思いが伝わってきたように思いました。
(能では、ここからさらに母親の気持ちが募っていきます。)
とても蒸し暑く、雨も降り始めた夜でしたが、
見に来て本当に良かったと思いました。


金子さんの、説得力があり、本当にそうだと感じた宝生流についての解説は、
もしかしたら意外度を上げて
今日の演者の方達を応援していらしたのかもしれないと、
勝手な深読みをしてしまいました。


 シテ   高橋憲正
 ワキ   野口能弘
 ワキツレ 野口琢弘
 ワキツレ 則久英志
 アイ   山本則重

 笛    小野寺竜一
 小鼓   田邊恭資
 大鼓   國川純
 後見   宝生和英・金森良充
 地謡   和久荘太郎・澤田宏司
      東川尚史・藪克徳
      内藤飛能・辰巳大二郎
      川瀬隆士・田崎甫


*2 シオリ・・・
       能での泣く仕種。
       左手だけのことが多い。
       手の甲が外側になるよう、開いた掌を
       目から口にかけて触れないように当てる。