言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

大変久しぶりにお能を観てきました

2020年06月23日 | 歌舞伎・能など

 

私が今年初めて見に行ったお能は、自粛後初の公演だったそうです。
6月20日水道橋の宝生能楽堂で、五雲会の「善知鳥(うとう)」を観てきました。

入り口で手のアルコール消毒と検温をしてもらい、チケットの半券は自分で切って箱の中に入れました。

舞台とロビーの間の扉は上演中も解放、舞台の切り戸(地謡、後見の出入りする戸口)も開けたままです。
席は隣り、前後が空くように、半数のみ使用。

舞台が始まって、いつもと違ったのは地謡です。
普段8人(4人×2列)のところ、5人の1列。
正面から向かって右側の地謡座の前列ですが、いつもより少し前に出た着座のように思いました。
そして地謡の能楽師の方々は、白の、手拭い半分程の長さの(おそらく)晒を、口から袴の少し上位まで垂らした状態の特別マスクを装着していました。(紐を頭の後ろに回し結びつけてあります。)
この長さは、たぶん謡った時に、布が口にはり付いたり離れたりしないような工夫として考案されたと思われます。
始めは少し奇異に見えましたが、正面の席だったこともあり、また次第に「善知鳥」の能に引き込まれ、気にならなくなりました。

旅をしている僧侶(ワキ)のもとに、亡霊(シテ)が現れ、妻子への伝言を頼みます。
頼みに従い、妻子の住む家を訪ねた僧は、妻子と共に亡き夫であるシテの供養を始めます。

そこに再び現れたシテは、生前猟師として殺生を重ね、その罪深さも生き物への情も忘れ、ひたすら殺生に明け暮れてしまった日々を後悔していると語ります。
そして今は地獄に落ち、生前殺した鳥や獣に攻められて苦しんでいる様を再現して見せ、目の前にいる妻子に近づくこともできず、可愛い子どもの髪を撫でてやることもできない悲しさを嘆くのでした。

能の最後は、次のような謡で終わります。

「安き隙(ひま)なき身の苦しみを
助けてたべや 御僧
助けてたべや 御僧」
といふかと思へば失せにけり 

僧にお経を読んでもらい成仏する、お能によくある終わり方ではなく、

安らかになる時のないこの身の苦しみから
助けてください!助けてください!
と叫びながら地獄に引き戻されていってしまいました

この悲痛、苦悩が身の隅々まで満ちているようなシテ・和久荘太郎さんの表現、特にカケリ以降の動きに、とても惹き付けられました。
またワキの僧侶・森常好さんのしっとりとした情緒ある謡、ツレの妻・田崎甫さんの丁寧な謡が印象に残りました。
そして五人という人数で、一人が一人分以上の働きをされた地謡にも、数ヶ月押しこめていた情熱が解き放たれたようなエネルギーを感じました。

コロナのためか、年長の能楽師の方の姿がないことだけが一点残念なところで、勝手な思いとしては、年輪ある方の謡が加わると、また違う味になったかもしれないとも想像しました。

でも私は怖がりで、能楽堂に行くことに躊躇があったのですが、観に来ることができて本当に良かったと思う「善知鳥」でした。
このお陰で元気が出て、能楽堂のある水道橋から九段下まで歩いてしまいました。



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