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秋山好古佛蘭西に補導役として行く(秋山好古・仙波太郎・久松定謨)

2020年06月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

                   

佛蘭西(フランス)のサン・シール陸軍士官学校時代の久松定謨(左)と秋山好古(右)

秋山好古・仙波太郎は、久松定謨(旧伊予松山藩主、伯爵久松家第16代当主)のフランス留学の補導役として白羽の矢を受けた。
後述するが、大正3年衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・仙波太郎・久松定謨の3名が守護したのも予測していなかった事か、・・それとも陸軍司令部は分かっての指示であったのか、それとも偶然か?実力があっての抜擢であったのか? この3名に付いて少し触れてみた。

旧伊予松山元藩主久松伯爵家の当主、第16代久松定謨は、秋山好古よりも8歳、仙波太郎よりも12歳年下であった。(仙波太郎、安政2年・秋山好古、安政6年・久松定謨、慶応3年)
明治16年、久松定謨が17歳の時、佛蘭西のサン・シール陸軍士官学校に留学することになり、加藤恒忠に付き添われて入学した。

注:加藤恒忠は、正岡子規の妹の律の養子となりとなり正岡家を継いだ人物で、第5代松山市長である。

入学以降の補導役として久松家の家令役である、藤野漸によって白羽の矢が立ったのが、秋山好古と仙波太郎であった。
藤野漸は先ず、仙波太郎に久松定謨の補導役としてフランスに行ってくれるよう頼んだが、仙波太郎はこれを断った。仙波は、藩政時代久米郡福音の庄屋の長男として生まれた。
藩政時代多くの年貢を納め務めて来たのに、未だ久松家の世話をせねばならぬのかと、断った。
もう一つの理由は、当時陸軍の用兵はドイツ式でフランスの用兵を学んでも役に立たず、その上身分の昇進が中断されるからであった。

次に、藤野は秋山好古に頼んだ、信さん(当時秋山好古の事を信さんと呼んでいた。幼名が信三郎であったので)は藩士の出で、久松家から家禄を賜りしした家系、恩をきせるわけではないが是非とも願いを聞き届けてほしいとたっての頼みであった。

秋山もフランスの用兵を学んでも役にたたず、ましてや私費留学扱い昇進もストップするので断ったが、藤野は、好古の父秋山久敬にも頼み込んだ。好古は仕方なく引き受け、明治20年7月20日付で本職、陸軍騎兵大尉を免じ、軍務総局長・桂 太郎から私費留学の訓令が発せられた。

       

明治20年6月30日、久松家・家令役の藤野 漸が秋山久敬(好古の父)に送った書簡。

(御令息好古君には我陸軍大学校をも卒業さられ、前途洋々たる処、久松定謨の補導役として是非とも渡佛御報導置候也)
秋山好古は、陸軍大学校1期生として卒業、階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在った。

        

   陸軍総務局長 桂 太郎から陸軍騎兵大尉 秋山好古に送られた訓令。

明治20年7月23日、横浜港から陸軍局の訓令により私費留学の名目で、仏蘭西に行くことになり同年9月5日仏蘭西に到着した。階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在ったが階級は大尉で、東京鎮台参謀の要職も解かれた。

生活費は、久松家から年間1000円の支給であった。
秋山好古は、朝敵出身者で有るがために昇進が遅れていたが、努力して大尉まで昇進して来たが、久松定謨の補導役として身を捧げる事とした。しかし思わぬことでフランスに行った事が後日有利に展開するのである。それは、下記の通りである。

フランスの騎兵用兵が日本人の身体にマッチする事が渡佛して初めて分かった。
当時陸軍の用兵は、ドイツ式であった。
山縣有朋中将が欧州視察の際、フランスに居た秋山好古を訪ねてくれた。騎兵の用兵だけは是非ともフランスの用兵を採用して欲しい旨説明した。山縣有朋は、好古に対して即答は出来ぬが、東京に帰り要人たちと相計らい連絡すると約束した。後日、明治23年2月10日、陸軍総務局長、桂太郎から、正式に官費留学の許可となり、学資金は1ヵ年1、600円が支給された。スットプしていた昇進も解除され、日本騎兵用兵はフランス用兵を採用し改めて好古は、日本騎兵隊を育てる事になった。日露戦争時世界最強のコサック騎兵団と戦い善戦したのもフランス用兵のお陰である。

        

               仙波太郎について

陸軍大学校一期生、優等第三位で卒業し陸軍の三太郎と言われた一人である。

仙波太郎経歴

安政2年6月5日、     伊予国久米郡福音寺村の庄屋仙波家の長子として誕生
慶応 元年         三輪田米山に漢学を学ぶ
明治 7年         陸軍教導団に入る
明治 8年         陸軍士官学校入学
明治11年12月、     陸軍士官学校卒業・2期生
明治12年 2月、     陸軍少尉・歩兵第8連隊(大阪)付
明治16年 4月10日、  陸軍大学校入学・一期生(歩兵中尉)
明治17年5月、      古戦場、星岡山に「星岡表忠之碑」建立を発起
明治18年12月24日、  陸軍大学校一期生・優等で卒業
明治20年 4月、     久松定謨の補導役としてフランス行きを断る
明治23年 2月、     ドイツ留学
明治30年         乃木希典中将子息の教育監督
大正 4年 2月15日、  第1師団長(この時秋山好古、近衛師団長、久松定謨、第
              1連隊長として衛戍地である東京を守護した)
大正 9年 4月、     退役、岐阜3区から衆議院議員に出馬当選
昭和 4年 2月19日、  岐阜県加納町にて死去 享年74歳 正三位勲一等功三級
昭和49年 4月25日、  仙波太郎生誕地に「仙波太郎生誕の地」の記念碑建立

参考事項
陸軍大学校卒業徴章⇒制服ノ右胸部ニ装着ス⇒徴章は、星章金色金属・菊座銀

     

             陸軍大学校卒業の徽章

    

陸軍大学校卒業徴章⇒制服ノ右胸部ニ装着ス、この徽章が陸軍大学校卒業の証である。


陸軍大学校は、明治16年4月2日開校入学、1期生は推薦で15名が入学、その内10名が明治18年12月24日卒業した。
朝敵とされた伊予国松山から仙波太郎と秋山好古が推薦された。仙波太郎は優等第3位で卒業、秋山好古は、7番目の成績で卒業した。優等第3位以内で卒業した者には恩賜として双眼鏡が贈られた。
2期生から試験制度となる。

     

     

        陸軍大学校第1期生優等卒業恩賜として贈られた双眼鏡
                  書籍「仙波将軍と田所大佐」より

         

           陸軍大学校第1期生卒業写真

陸軍大学校1期生卒業生
上段右から 東条英教(優等1位)・山口圭蔵(優等2位)仙波太郎(優等3位)

中段右から 井口省吾・藤井茂太・石橋健蔵

下段右から 秋山好古・長岡外史
資料「仙波将軍と田所大佐」より

陸軍大学校第1期生でダントツの成績で卒業したのは、東条英教であるが上層部と意見が合わず批判が絶えず、日露戦争時作戦に従わず解任されたりした。昇進は中将止まりで自らもあえて大将などになろうとは考えず、後は息子に託した。息子の名は、東条英機(元内閣総理大臣)である。
なお、写真には8名しか映ってないが、榊原 歩兵少佐と山田 歩兵少佐は卒業後病死したからである。

東条英教は南部盛岡藩(岩手県)の出身者で、盛岡藩は戊辰東北戦争では反政府軍として戦った。新政府軍(官軍)の上層部は薩長で占め、陸軍は長州閥で大山巌・山縣有朋・児玉源太郎・乃木希典らと意見が合わず大将になる気がなかったのではないか?

戊辰東北戦争の事があり岩手大学に医学部が設置されなかったとか? 伊予松山藩は朝敵とされた結果、愛媛大学医学部設置が遅れたとか、讃岐国高松藩は長州征伐・鳥羽伏見の戦いで酷い殺戮があったので薩長からにらまれ香川県人からは陸軍大将が出なかったとか? 明治、大正時代陸軍士官学校に入学するのも難しかったとか?色んな噂話がある。

高松藩は、最後の将軍である徳川慶喜が生誕した水戸徳川系列の親藩なので余計に、にらまれたのでは、伊予松山藩は、宗家徳川家康系列の親藩である。
朝敵であった伊予松山から陸運大学校1期生として秋山好古と仙波太郎が入学出来たのは優秀であり実力があり、次世代日本の陸軍を背負って行く期待が大きかったのだろう。

            

            陸軍大学校第1期生卒業名

陸軍大学校第1期生卒業者名で留学先が秋山好古以外はドイツ留学である。
陸軍大学校第1期生卒業者で大将まで昇進したのは井口省吾と秋山好古の二人だけで、優秀者として陸軍大学校第1期生として推薦入学したのに卒業後上層部と折り合いがうまくいかなかったのか?

資料「仙波将軍と田所大佐」より



        

陸軍中将時代の仙波太郎で右胸に陸軍大学校卒業の証の徽章を装着している。

       

陸軍大将時代の秋山好古で右胸に陸軍大学校卒業の証の徽章を装着している。

         

旧伊予松山元藩主、久松家の当主・久松定謨で最終階級は陸軍中将、爵位は伯爵である。

          

左から「秋山好古・近衛師団長」「久松定謨・近衛第1連隊長」「仙波太郎・第1師団長」

旧伊予松山元藩主は15万石の大名であったので本来ならば侯爵の爵位を与えられるはずだが、朝敵とされた家柄だから侯爵でなく伯爵となった。
前項で述べた、衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・仙波太郎・久松定謨の3名が守護したのも予測していなかった事。・・それとも陸軍司令部は分かっての指示であったのか、それとも偶然か?実力があっての抜擢であったのか? ここで少し触れてみる。

先ず、
大正4年2月15日、
秋山好古が近衛師団長として、天皇と宮城(皇居)を警備する師団で、一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。

大正4年2月15日、
仙波太郎が第一師団長として、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。

大正4年5月11日、
久松定謨は、近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。
伊予松山藩は朝敵とされ15万両の制裁金の上納、旧藩主、久松定謨の爵位は本来なれば侯爵であるはずが、朝敵であったがために伯爵止まり。しかし大正4年、摂政宮時代である東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上できたと喜んだそうだ。
しかし、秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者が故に身分の昇進が遅れていた。

           

           

                     明治7年市ヶ谷に開校された陸軍士官学校
                  陸軍の現役の兵科の将校となる者を養成する学校である。

                  仙波太郎は、明治11年12月、陸軍士官学校2期生卒業。
                  秋山好古は、明治12年12月、陸軍士官学校3期生卒業。
                  久松定謨は、明治22年 8月、フランス、サンシール陸軍士官学校歩兵科卒業。
                  久松は、陸士を卒業してないが、陸士第11期生扱いになった。

 

                      

                     松山市星岡町にある「星岡表忠之碑」

揮毫は、二品伏見宮貞愛親王

石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎は、故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
「星岡表忠之碑」右側に、建立発起人 陸軍中尉 仙波太郎・松田通博・吉田格堂・鈴木安職、鴻田佐太郎の各位の氏名が刻まれている。

「星岡表忠之碑」裏面碑文

建武中興之功臣楠氏新田氏北畠氏固卓々牟亜之者莫西海菊池氏南海土居氏得能氏若也得能氏名通綱土居氏名通増並河野之族為伊予著五世祖河野通信為国守護承久之役属官軍軍敗・・中略・・仙波太郎等慨此謀建碑表之同志者・・明治十七年甲申五月

史館編修 従五位 藤野正啓撰・・と揮毫してある。

 

得能通綱は、伊予国の守護、河野一族の一人で、勤皇方として新田義貞とともに後醍醐天皇に忠義を尽くし戦い、延元2年(1337年)3月6日北国・金ヵ崎城で足利尊氏軍との壮絶な戦いで戦死した。その忠魂碑である。(宗家・河野は鎌倉幕府方であった。)

 

       

西条市丹原町得能「常石山城跡」にある。

石碑の由来:前項の仙波太郎が発起人で建立した「星岡表忠之碑」と関係のある石碑で、中世南北朝時代南朝方の得能通綱の忠魂碑である。
伊予の守護、河野通信の子、通俊の領地が丹原得能にあったので通俊は得能氏を名乗り、その城を常石山に定めた。通俊の孫、常石城主得能通綱は、周桑の人々を卒いて勤皇の兵を挙げ同じ河野氏から出た土居通増と連合して、北条時直の大軍を松山・星の岡で大破した。

昭和3年の御大典記念として山頂に通綱公の忠魂碑が建った。建立には、得能の老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石に巻き、コロをしいて山頂まで引き上げ、除幕式には好古もこの地を訪れ馬で常石山を登った。

得能通綱は、伊予国の守護、河野一族の一人で、勤皇方として新田義貞とともに後醍醐天皇に忠義を尽くし戦い、延元2年3月6日北国・金ヵ崎城で足利尊氏軍との壮絶な戦いで戦死した。その忠魂碑である。(宗家・河野は鎌倉幕府方であった。)

碑石裏面に得能通綱の経緯が記載されている。

好古揮毫石碑の中、歴史上一番古い忠魂碑である。

           

       久松小学校開設130年記念式典愛媛新聞記事。

久松定謨(慶応3年~昭和18年)は
※ 明治6年7月、東京都中央区立久松小学校が日本橋久松町に設立された。その校名の由来については同校校友会の方々もこれまで解明を試みていたようだが、「校名は町名からきており、伊予松山の久松家と特別の関連がある訳ではない。」との説が有力でした。しかしその後の調査の中で、平成5年に当時校友会会長である渡邊氏により「東京府志料」に、「久松学校 明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金一金千圓(現在の貨幣価値では数千万円)筆頭ヲ資本トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」との表記が発見され、考証が重ねられた結果、史実として認識が改められた。

平成15年5月25日、久松小学校開設130年記念式典が挙行され久松家第18代当主、久松定成氏を同校に招き「久松家を感謝する会が開かれた」

※ 大正12年7月、政府から松山城山・城濠の縁故払い下げを受け、維持金4万円を添えて松山市に寄付した。「伯爵久松定謨頌徳碑」はその功績を称えた石碑が昭和30年松山城本丸艮門前に建立された。

     

      「仙波太郎生誕の地」記念碑建立除幕式に参列した関係者

仙波太郎は、安政2年4月21日、伊予国久米郡福音寺村の庄屋の長男として誕生、記念碑が建立された。
記念碑の揮毫は、松山市高井町(旧温泉郡久米村大字高井)出身の元郵政大臣、桧垣徳太郎である。

昭和49年4月25日、松山市福音寺町にある福音寺公民館に仙波太郎生誕の地記念碑が建立された。公民館の敷地は、仙波太郎が生誕した屋敷跡で、此処に「公正会堂」と命名され、福音寺町に寄付され福音寺公民館として社会教育の推進の活動拠点として使われたが現在はなくなった。

写真久米村史より

     

         秋山好古の志を決定付けた・学問のすすめ

 

『学問のすすめ』初版本で、冒頭にある言葉。「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」

人は生まれた時はみな同じ、三歳前後から両親の躾を受け、やがて学校で学び、ここで努力した者と、しなかった者との差が出て来る。・・好古は此れを感じ教師の道を選んだ。秋山家は伊予松山藩下級武士徒歩目付家禄10石の家系で学校に行ける経済的な余裕はなかった。学費の要らぬ学校が出来た。それが大阪師範学校であった。そして名古屋師範学校付属小学校の教師となった。

伊予松山の先輩である、和久正辰の強い勧めで明治10年5月4日陸軍士官学校入学、軍人となる

秋山好古が一番尊敬した人が、福沢諭吉であったことから大正13年4月郷里の北豫中学校校長となり青少年の教育の振興に尽力した。

「生来、人間はすべて平等であり、貧富・家柄・職業・社会的身分などによって差別するような偏見を、否定していう言葉。

秋山好古と新田長次郎は、この本を読み自分の志を決めたのである。

秋山好古は教師となり、新田長次郎は、信さん(好古)が先生になるのであれば私は(長次郎)会社をお興し、その財をもって学校を作ると決めた。」

秋山好古は、教師として社会に踏み出し、暫く軍人の世界に身を置いたが晩年郷里伊予松山の北豫中学校(現、愛媛県立松山北高等学校)の校長として郷里の青少年の教育に身を捧げた。

新田長次郎は、大阪市浪速区に有隣小学校(現、大阪市立栄小学校)を創設、郷里松山には四国初の松山高等商業学校(現、松山大学)を設立した。

       

             松山市福音寺町「土亀山」にある仙波太郎中将の墓。

仙波太郎は、奥さんの郷、岐阜市加納町で死去した。福音寺の墓は分骨である。

墓石の左側に先妻の「妻ケイ」の名前が揮毫されている。

正岡子規の「凩にはひつくばるや土亀山」明治25年 終わりの冬、に詠んだ句がある。

生前墓は、大きな墓石にするなと言われたのではないか? 先祖の墓石とほぼ同じ大きさである。

軍人の墓石は、肩書入りの大きな墓石であるが、秋山好古も墓石は家族と一緒「秋山家」の墓で眠っている。

仙波も、秋山もよく似たものだ。
 

昭和49年、仙波太郎の長男、仙波正、孫の仙波昭が建立した。

正岡子規の土亀山を詠んだ句がある・・「凩にはひつくばるや土亀山」明治25年 終わりの冬、に詠んだ句である。

 

        

                          秋山好古の墓

秋山好古の墓は東京青山霊園に在るが「秋山家」の墓に家族と一緒に眠っている。
軍人時代の肩書は一切揮毫していない。
また松山道後鷺谷墓地に在る墓は、東京青山霊園からの分骨である。

昭和62年までは、秋山眞之の墓もこの場所にあったが現在は鎌倉霊園に移された。

 

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