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江戸時代から縁がある越後国新潟(沢海)と伊予国松山

2020年05月22日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

              

秋山好古が前任地、愛媛県知事から新潟県知事として転任、旧知の仲と新潟県民に紹介した伊澤多喜男新潟県知事。(秋山好古と新潟の人びとより引用)

伊予松山と越後新潟とは江戸時代から不思議なご縁がある。
江戸時代沢海藩主が伊予松山藩初代藩主、加藤嘉明の4代目である明英(あきひで)の弟政親(まさちか)が沢海藩4代藩主として溝口家に養子入りしている。

そして秋山好古が大正2年第13師団長として新潟県高田に駐屯、そしてこの時期に愛媛県知事、伊澤多喜男氏が新潟県知事に転任、好古は伊澤知事を愛媛県での実績を重く評価して新潟県民に紹介している。・・

その後、宮本武之輔技官・ 作家、敷村良子さん。

最近では松山市の歌「この街で」の作曲家、新井満さんも新潟市の方である。

前項のブログでは、「秋山好古と三人の副官・全て新潟県出身者、豊邉新作・建川美次・山内保次」を取り上げたが、この項では、伊予国松山と越後新潟(沢海)について探ってみた。

伊予松山初代藩主加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで東軍の武将として参戦、武勲を認められ徳川家康から伊予国松山20万石を拝領し、松山と言う地名は加藤嘉明が命名した。
加藤嘉明は、伊予松山城完成1年前に会津若松藩40万石で転封を命じられたが嫌々会津に行った。
嘉明の死後家督は嫡男の明成が継いだが、家老職の堀主水と折り合いが悪く、堀主水は一党を引き連れ城を出て行った。その時本丸に銃を向け発砲した。

激怒した明成は、堀主水を討伐する事件が起こり、江戸幕府が介入する大事件となり、加藤明成40万石は改易された。

加藤嘉明は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣で有名な賤ヶ岳の戦い「賤ヶ岳の七本槍」の一人、加藤清正・福島正則・片桐且元・糟屋武則・平野長泰・脇坂安治・加藤義明で語り継がれる勇士である。

その後、加藤家再興については祖父嘉明の功績を江戸幕府は高く評価し明友(加藤嘉明の孫)に、岩見国吉永藩1万石を与え、お家再興が叶った。その後近江水口藩2万石で転封となった。

さてここから越後新潟(沢海藩)と伊予松山の関係となる。

         

              沢海城跡の説明版、現在は阿賀野川の河川敷となっている

 

           

                    現在の沢海城跡、阿賀野川の河川敷である。

           

                  新潟市江南区横越の「ふる里めぐり」の案内板。

           

                      伊予松山藩初代藩主「加藤嘉明の騎馬像」

その1 加藤家と溝口家

沢海藩の藩祖は新発田藩祖、溝口秀勝の次男で溝口善勝、1万4000石の大名であったその地、沢海に大正2年7月秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が建立された。
秋山好古揮毫の石碑が日本海側に初めて発見され、NHK松山放送局は現地に取材に行き放映した。

が、51歳で死去、その後長男正勝が家督を継ぐも若くして逝去、息子政武がいたが早世のため、甥の政親「加藤嘉明の孫(伊予松山初代藩主・加藤嘉明⇒明成⇒明友の次男)」を養嗣子に迎えて跡を継がせた。

ところが政親は養父と較べて無能で、百姓に対しては過酷な重税、おまけに昼間から酒に溺れては狂乱に陥る振舞いがあったため、貞享4年8月、所領を没収されて兄の加藤明英の江戸藩邸にて謹慎を命じられ沢海藩は改易取り潰し廃藩となり領地は天領となった。

新発田藩、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)の支藩、沢海藩が越後国蒲原郡沢海(現、新潟市江南区横越)に存在した。

           

               徳川家康の築城許可を受け創建した勝山山頂132mにある松山城天守。
               現、天守は安政元年再建された天守で現存天守12のうち一番新しい天守である。

その2 伊澤多喜男、新潟知事

明治 2年11月24日、 信濃国高遠生まれ

明治  7年、       愛知師範学校付属小学校に入学。

明治25年、       東京帝国大学法科に入学

明治30年、       内務省に入省、和歌山県知事

明治42年 7月、    愛媛県知事

大正 元年12月、    新潟県知事

大正 3年 4月、     警視総監

大正15年 7月、    台湾総督を辞任し、東京市長

昭和24年 8月、13日、東京第一国立病院にて逝去 享年79歳

 

          

                          別子銅山四阪島精錬所。


別子銅山四阪島精錬所の亜硫酸ガス事件の解決をしたのが愛媛県知事伊澤多喜男であった。明治26年愛媛県新居浜市に開設された洋式銅製錬所は近隣に大規模な農作物に煙害を起こし農民と別子銅山精錬所との間で紛争が勃発した。

明治38年170万円の巨費をかけて、精練所を四阪島に移転したが煙害は移転前よりもその範囲が拡大、愛媛県東予4郡(宇摩郡・新居郡・・周桑郡・越智郡)対岸の農作物に大きな煙害を引き起こした。その後亜硫酸ガス中和工場が完成し煙害問題は解決した。

明治43年、愛媛県知事伊澤多喜男により調停案が出され煙害問題の解決の切っ掛けを作ったのが伊澤多喜男知事である。

注1:
大正元年12月愛媛県知事から新潟県知事となる。
秋山好古は、大正2年1月28日、陸軍第13師団長として新潟県高田に着任、伊澤多喜男新潟県知事は、高田にいる秋山好古師団長を表敬訪問した。
その席で秋山師団長は、この度前任地愛媛県知事であった伊澤多喜男知事が新潟に来たが、僕の郷里は伊予松山、そこで伊澤君は別子銅山四阪島精錬所亜硫酸ガス事件の解決をした有能な知事で、新潟でもいい仕事をするよと新潟県民に紹介した。

          

               新潟市江南区沢海日枝神社境内にある秋山好古揮毫の「忠魂碑」

注2:

その時、新潟県中蒲原郡横越村長、神田又一が伊澤知事に揮毫嫌いであった秋山師団長に「忠魂碑」の揮毫をお願いした。
これが大正2年7月新潟市江南区沢海に建立された「忠魂碑」である。

平成19年11月、NHKがスペシャルドラマ坂の上の雲がクランクインし、放映収録の最中であった。この時は未だ好古が揮毫した新潟市の石碑は発見されてなかった。

平成21年11月、北方文化博物館神田館長から新潟市江南区沢海に好古揮毫の石碑(忠魂碑)の建立ありと吉報が秋山兄弟生誕地に届き、平成22年3月17日、現地に写真取材に伺った。

                

             新潟県魚沼市堀之内天満天神宮にある秋山好古揮毫の「戦役記念碑」石碑。

この事が新潟日報に報道され、記事を読んだ新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から魚沼市堀之内にも秋山好古揮毫の石碑(戦役記念碑)があると平成23年5月5日、松山市の秋山兄弟生誕地事務局に書簡が届いた。しかし平成16年10月23日の中越大地震で倒壊したかもしれないので調べて下さいと付記されていた。

北方文化博物館神田館長は書籍「秋山好古と新潟の人々」が印刷段階に入っており、印刷中止をお願いし魚沼市の石碑現況調査依頼をした結果地震で倒壊したが再建立されていることが判明、書籍「秋山好古と新潟の人々」にも魚沼市の石碑を付け加え刊行された。

魚沼市の石碑取材には、魚沼市役所・魚沼市ケーブルテレビ・新潟日報新聞・地元住民の方々が現地に来て頂き感動した。 

 

                

魚沼市の石碑取材には、魚沼市役所・魚沼市ケーブルテレビ・新潟日報新聞・地元住民の方々が現地に来て頂き感動した。
取材記事が平成23年6月22日付の新潟日報新聞に大きな記事がでた。

              

             私の地元愛媛新聞にも新潟市と愛媛松山の縁を取り上げた記事がでた。

           

                      画像左から、秋山好古 清浦圭吾 新田長次郎

揮毫嫌いであった好古が揮毫を始めたのは、大正14年元内閣総理大臣、清浦圭吾伯が松山に来てからであった。

注3:

揮毫嫌いであった好古が揮毫を始めたのは、大正14年元内閣総理大臣、清浦圭吾伯が新田長次郎の招きで松山に来た時、早朝宿舎である道後温泉の鮒屋旅館を訪れた。すると一生懸命に揮毫をする清浦圭吾の姿を見た。新田長次郎は、好古に対して「信さんは頼まれても揮毫はしないそうだが、清浦圭吾伯は早朝4時に起床して多くの人に頼まれ揮毫をしている。
好古は新田氏に「余り年寄を責めるなよ」と言ふと、同氏は「清浦伯は最早一個の清浦伯でなく、日本の清浦伯である。だから揮毫を請ふ者があれば今朝などは4時から起きて厭な顔もせず書いて居る。貴方も今は日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と云ひますから、家宝とするため揮毫を依頼する人格者には、書いてやって貰ひたいものですなア」伯の揮毫を見てゐた将軍秋山は、「なる程熱心がなければ斯うは書けない。之から俺も書くよ」と言った。(伝記 秋山好古から引用)

好古は、この事が切っ掛けで揮毫をするようになった。好古の揮毫は、大正14年以降の揮毫が多く、大正14年以前の揮毫した石碑や扁額は非常に少なく、新潟市・魚沼市の石碑も伊澤知事の願いがあったので揮毫したのである。

             

                   正装姿の「新田長次郎」新田長次郎 

好古とは幼馴染で好古の勧めで大阪に革ベルト製造会社を創設(現、株式会社ニッタの創業者)で大阪市浪速警察副所長から小学校開設依頼を受け、有隣小学校を創立(現、大阪市立栄小学校)故郷松山に、四国初の高等商業学校(現、松山大学)を創設した人物である。

           

その3 宮本武之輔

                        民衆を愛した土木技師、宮本武之輔

            平成25年3月6日北方文化博物館・神田館長が宮本武之輔の顕彰碑と銅像を見聞。
            所在地は、松山市由良町、松山市役所興居島支所の隣にある。

 

             

             地元愛媛県松山市では無名だが、新潟県では恩人として愛されている。
   平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて大きな記事が出た。

            

            民衆を愛した土木技師「宮本武之輔」の顕彰銘板が顕彰碑と銅像の前に設置されている。

地元愛媛県松山市では無名だが、新潟県では恩人として愛されている。
平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて大きな記事が出た。
その記事を、新潟市江南区にある北方文化博物館、副館長佐藤さんに送った。すると、佐藤副館長さんは新潟の人は知らない人は居ませんよ、・・とメールが届いた。平成25年3月6日北方文化博物館の神田館長さんが是非宮本武之輔の顕彰碑と銅像を見聞したいと連絡があり案内した。

事の起こりは

信濃川大河津分水可動堰工事終盤、昭和5年8月2日豪雨により信濃川上流の危険が迫り、一報を聞いた宮本技官は、「信濃川と工事現場を仕切っていた仮締め切り堤防を独断で破壊し分水路に川水を放流。堤防を切れば工事に大きな支障を来たし宮本にとっては重大な責任問題。宮本は堤防を切らねば人々を困窮のどん底に突き落とすばかりか人命に関係する、これを優先し住民を救った。そして工事も遅れることなく予定通り完成したとある。

宮本武之輔氏とは
明治25年~昭和16年49歳の若さで亡くなった。
愛媛県松山市興居島出身の土木技師で、15歳の時宮田兵吉の援助で上京し、勉学に励み東京帝国大学工学部を主席で卒業。土木技師として内務省に就職。新潟県信濃川大河津分水可動堰修復工事でその才能を発揮、銅像が顕彰碑の隣に建立された。銅像建立には、新潟からも多くの寄附が寄せられ、大河津分水を愛する資料館友の会からメッセージが寄せられた。・・「民衆のために生きた宮本の功績を新潟と愛媛で何時までも伝えて行きましょう」とあった。

                

             敷村良子さんが愛媛新聞・道標に執筆した「新潟でも讃えられ」の記事。

その4 敷村良子

敷村良子さんは、愛媛県松山市出身の作家で、松山市主催の第4回坊っちゃん文学賞を受賞。受賞作品は「がんばっていきまっしょい」で映画化、テレビドラマ化された。

坊っちゃん文学賞(ぼっちゃんぶんがくしょう)は、愛媛県松山市が平成元年の市政100周年を記念して創設した文学賞で松山市出身の俳人・正岡子規と、子規の親友である夏目漱石が平成29年、生誕150年となることを記念して併せて設けられた文学賞である。

敷村良子さんは平成24年12月30日、愛媛新聞の「大型コラム・道標 ふるさとの伝言」に執筆、その中に次の様に書かれている。
(一部抜粋)
新潟市立図書館で偶然手にした、神田勝郎編『秋山好古と新潟の人びと』によると、好古は沢海日枝神社の境内にある日露戦争の忠魂碑の文字を揮毫している。建立された大正2年は陸軍中将。
サインめいたことを嫌い、また高田13師団長として多忙だったのに、頼んだ人がよほど押しが強かったのか、徴兵された青年が命を落とし、職業軍人の自分が生き残って申し訳ないという気持ちからか。戦死者のひとり大町助作歩兵一等卒は203高地の鉄条網を徹夜で切断した後に突撃し、敵に撃たれて絶命したと戦友が伝えているが、沢海の人は秋山好古を恨んでいない。・・中略・・

軍人の秋山好古も、土木技師の宮本武之輔もいわば仕事で新潟に来たわけだが、そんな愛媛からの旅の人びとを、新潟の人は現在も出身地以上に好意を持って讃えてくれる。同郷というだけで好感を持ってもらえるのも、立派な先人のおかげである。・・と締めくくってある。

敷村良子さんは、現在新潟市にお住まいで出身校は、愛媛県立松山東高校、秋山眞之・正岡子規、そして夏目漱石が教鞭をとった旧制松山中学(現、愛媛県立松山東高校)で、秋山眞之・正岡子規は大先輩である。
夫君は、新潟国際大学教授で故郷は愛媛県松山市である。

 

               

 その5 新井満

                 もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」のポスター

最近では松山市の歌「この街で」の作曲者、新井満氏(新潟明訓高校・上智大学)も新潟市の方である。

「この街で」

平成17年3月3日、松山市で開催された日本ペンクラブ主催の「平和の日・松山の集い」にゲストで招かれた新井満さんは、本番前日に表敬訪問した松山市役所で「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」というコピーを見つけた。
松山市の「だから、ことば大募集」で市長賞を受賞した桂綾子さんの作品だった。

「シンプルだけど心の深いところまで届いてくると感動して、そんな想いを話したら、市長さんから、このコピーをふくらませて、明日の“平和の日・松山の集い”でぜひ発表して下さいと頼まれた」

本番まで1日もないので徹夜で頑張ったが、曲が完成しないまま本番をむかえてしまう。結局、即興的に「この街で」は生まれた。その後、再演を求める声が市民から殺到し1000枚限定で松山市で発売されることになったが、反応は高まるばかりだった。

そこで新井盤が平成18年5月にリリースされた。さらに平成20年になると城之内早苗がそして布施明、フォー・セインツ、仲本工事と三代純歌など、平成22年になるとトワ・エ・モワなどがカバー盤を相継いで出す。カバーされるということは“いい曲”だという証拠。そして満を持して平成26年6月4日、ブラザーズ5(杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳、因幡晃による新しいスーパーユニット)が“本命盤”をリリースした。

               

                           楽譜入りの

                「もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」のポスター

 

           

平成22年9月8日 松山市総合コミュニティセンター・市民プラザのロビーに 巨大なモニュメントが創られた。 作者である新井満さん自筆の原稿用紙が、そのままモニュメントとしてロビーの床に埋め込まれている。巨大モニュメント大きさを人と比較してみて下さい。

「この街で」

作詞:新井満、作曲:新井満&三宮麻由子、オリジナルCD歌唱:新井満。
平成12年、「ことばのちから」事業として行われた「だから、ことば大募集」で「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」が市長賞を受賞。平成17年3月、この「ことば」に感動した新井さんが作品と同じコンセプトで歌を作り、(社)日本ペンクラブ主催「平和の日松山の集い」で即興で「この街で」を披露。その後CD化され、多くのアーティストがカバー作を発表。市民の愛唱歌として親しまれています。

           

       「もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」の発表会会場での、新井満さんと野志松山市長。

           

「もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」の発表会壇上で、野志松山市長から授与された感謝状を会場の皆さんに披露する新井満さん。

画像左、頭を下げる野志松山市長、満面の笑みで感謝状を披露する新井満さん、左は中村愛媛県知事。

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