魏志倭人伝のいう「道里」とは何か? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 今回はこんな例文からはじめます。東京から東北地方の青森まで行った人の報告書が次のようなものだったとしたらどうでしょう。

 

まず、東京から福島までは北へ250キロメートルです。福島には200万人が住んでいます。次に北東へ70キロメートル行くと宮城に着きます。宮城には230万人います。さらに北へ160キロメートル行くと岩手に着きます。岩手には120万人います。そして岩手から北へ10日行くと目的地の青森に到着します。青森には130万人が暮らしています。このように、青森から南の県については人口と距離を記すことができました。

 

 岩手から青森までの「10日」にすごく違和感があります。最後の文に「距離を記すことができた」と書かれていますが、それとも食い違っています。これでちゃんとした報告書といえるのでしょうか。

そして、「魏志倭人伝」にもそれと同様の記述がみられるのです。

 

 「魏志倭人伝」は、帯方郡からさまざまな国を経由して邪馬台国に到着する行程記述を記した後に、次のように書いています。

 

自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳

(訳)「女王国より北(の国)については、戸数・道里を略載できたが、その他の旁国(ぼうこく)は遠絶なので、詳細はわからない」

 

 今回はここに出てくる「道里(どうり)」という言葉について考えます。この言葉はあまり一般的な言葉ではなさそうです。『三国志』の中でも、この「魏志倭人伝」以外には3か所で用いられているだけです。しかし、この「道里」という言葉は、実は前回の記事で触れた『禹貢地域図(うこうちいきず)』の序文できっちりと定義されているのです。

 『禹貢地域図』は、西晋の裴秀(はいしゅう)が270年頃に完成させた、当時最先端の精巧な地図だと考えられています。『三国志』の撰者である陳寿(ちんじゅ)も西晋の役人で、『三国志』が完成するのは280年代とされますから、ほぼ同時代に生きた二人なのです。

 二人に面識があったかどうかは不明ですが、陳寿が『三国志』撰述にあたって『禹貢地域図』を参考にしたのは、間違いないでしょう。そういう地図を参考にしなければ、魏・呉・蜀をカバーする広範な事象を克明に描くことはできなかったはずです。

 

 裴秀は『禹貢地域図』の序文で、「製図六体」という正確な地図を作成するための6要素について解説をしています。「分率(ぶんりつ)」「準望(じゅんぼう)」「道里(どうり)」「高下(こうげ)」「方邪(ほうじゃ)」「迂直(うちょく)」の6つです。ここで詳細は省略しますが、分率(縮尺)、準望(方位)、道里(距離)を、それぞれの道の高下(高低)、方邪(直角/斜め)、迂直(曲がり/まっすぐ)を考慮して修正すれば隅々まで正しい地図ができると述べています。

 この中で、「道里」とは「所由の数を定める所以である」とされ、後の清朝の学者である胡渭(こい)の解釈を借りると、「道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処に至るに、里数如何程かの謂いなり」(『禹貢錐指(うこうすいし)』訳文/『古地図と邪馬台国』弘中芳男著 大和書房収載)となります。つまり、「道里」とは、「A地点からB地点に至るまでに人の歩いた(移動した)路(道路や航路)の距離であり、里数で表されるもの」であると定義されているのです。

 

 陳寿が『三国志』を撰するにあたって参考にしたであろう『禹貢地域図』に「道里」が明確に定義されていれば、当然、陳寿が「道里」という言葉を用いる場合、その定義にそって用いるはずです。

 

 冒頭の記述に戻ります。

「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳」(女王国より北については戸数・道里を略載できたが、その他の旁国は遠絶なので詳細はわからない)です。

 女王国(邪馬台国)より北の国々に関する記述を確認してみます。(表1)

 

◆表1 女王国より北の国々に関する戸数・道里の記述

 

 狗邪韓国の戸数が記されない以外はすべて記述があります。しかし、ここで注目すべきは、不彌国から投馬国への「水行二十日」と投馬国から邪馬台国への「水行十日陸行一月」です。この日数表記は明らかに先ほどの「道里」の定義からは外れています。「道里」は里数で表されなければなりません。

 これについて、道里を「略載」できたという記述をとらえて、里数を記さず日数表記にしたこと自体を「略載」だとする考え方もあります。しかし、これは筋違いだと思います。この「略載」は、たとえば1250戸という戸数や115里と里数を、「千余戸」や「百里」と簡略化したことを指すとみるのが正しいと思います。

 そして、陳寿が『禹貢地域図』の「道里」の定義を用いていたとすると、日数は道里ではありえません。これは「絶対」です。なぜなら、日数で地図は作成できないからです。

 

 このように考えると、不彌国から投馬国への「水行二十日」と投馬国から邪馬台国への「水行十日陸行一月」は非常に違和感のある記述となります。この2つの行程を述べた直後に、それに反して「道里を略載できた」と記していることになるからです。

 この違和感が、私が「魏志倭人伝」後世改ざん説を考えるきっかけとなりました。「ここで道里と書く以上、直前の日数表記はないだろう」「もし日数表記が正しいのなら、ここで道里という文言は用いないだろう」と感じたのです。

 また、行程記述の原史料となった報告書を作成した梯儁(ていしゅん)は、卑弥呼の都がある邪馬台国まで足を運んでいるはずだから、その具体的な里数を知らないはずがない、という確信もありました。梯儁ら帯方郡使は邪馬台国まで行っておらず、この日数は倭人からの伝聞であるという説もあります。しかし、私はその説には反対です。その理由は大きく以下の2つです。

 

(1)「魏志倭人伝」の後段では、金印紫綬や下賜品を倭王(この場合、卑弥呼のこと)に届けた梯儁らに対して、倭王が感謝の上表文を返したことが書かれています。だから、梯儁らは卑弥呼のいた都の宮室まで行って面会したに違いないと思います。また、常識的に考えて皇帝からの下賜品を届けた郡使たちに会わずに、労をねぎらわずに返すことはないように思うのですが、いかがでしょうか。

(2)当時、皇帝からの品々や詔は封泥(ふうでい)で封印されて運ばれました。封泥というのは現代にもある封蝋(ふうろう)のようなもので、開封されていないことを証明するものです。一度開封すると元には戻せません。わざわざ封印して運んでいるのです。下賜される女王の目の前で開封されなければ意味がありません。だから、梯儁たちは必ず卑弥呼のいるところまで下賜品を運び、それは卑弥呼の目の前で開封されたはずです。それを見届けるまでが梯儁らの任務なのです。決して、途中の伊都国で役人に渡して任務完了とか、その役人が勝手に開封してチェックするなどということはなかったと思います。

 

 卑弥呼が伊都国などまで出向いたという可能性は完全否定できませんが、倭の地を踏査することも重要な任務だった梯儁ら帯方郡使は邪馬台国まで足を運んだ可能性が濃厚だと思います。そしてそうなら、邪馬台国までの具体的な里数を必ず測っていたはずです。つまり、報告書には「道里」が具体的な里数で「○百里」と記されていたはずなのです。

 その「道里」が、なぜ日数表記になったのか。

 それが、「魏志倭人伝」後世改ざん説の出発点といえますがそれは置いておいて、今回の結論は次のようになります。

 

「道里」は人の歩いた(進んだ)道のりの距離のことであり、里数で表されるものである。日数は絶対に「道里」ではない。

 

 だから、「魏志倭人伝」の行程記述には不自然な謎があるのです。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

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文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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