原日本紀の復元045 応神天皇〈3〉誉田別尊の幼名/好太王碑文との比較 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

***【お知らせ】******************************

総合オピニオンサイト「iRONNA」に論文が掲載されました。(9月24日)

タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。

ぜひ、本ブログとあわせてお読みください。

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 応神天皇紀の冒頭に、一云(「ある説にいわく」の意)として次のような不思議な話が記されています。

 

天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国(こしのくに)においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づけたという。それだと大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名を去来紗別尊ということになる。けれどもそういった記録はなくまだつまびらかでない。

(宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫より引用)

 

 神功皇后紀13年条に、武内宿禰に命じて、皇太子を敦賀の笥飯大神にお参りさせたという記事があり、その時のことだとされています。

 この記事が意味するものは、誉田別尊(ほむたわけのみこと)の元の名、つまり幼名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)であったということです。

 

 前記事で、麛坂皇子(かごさかのみこ)と額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の同一人物説、忍熊皇子(おしくまのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)の同一人物説の可能性を考えました。その額田大中彦皇子と大山守皇子には弟がいます。その名は、去来眞稚皇子(いざのまわかのみこ)です。誉田別尊の幼名である去来紗別尊と似ているのです。そして、誉田別尊(応神天皇)は麛坂皇子と忍熊皇子の弟なのです。

 

 『日本書紀』では、去来眞稚皇子は誉田別尊(応神天皇)の子だとされています。だから、自身の幼名に近い名前を自分の子に付けたとしても何ら不思議はありません。しかし、いったんそれを無視して、去来眞稚皇子が名前を変えて誉田別尊(応神天皇)になったと考えると冒頭の話が理解しやすくなります。

 それに、幼名の去来紗別尊が記されたほんの数行後に、去来眞稚皇子が応神天皇の子として登場するのです。それは、『日本書紀』の紀年延長に際して、一世代追加する必要に迫られた編纂者たちが知恵を絞った結果ではないでしょうか。そして、その真実を「一云」という形で書き残したように思えて仕方ありません。

 

 しかし、これも見方を変えれば、応神天皇と兄弟だった大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)を、神功皇后紀による紀年延長により親子と改変せざるを得なくなった弊害といえるでしょう。

 そして、さらに去来眞稚皇子が誉田別尊(応神天皇)だと仮定すると、大鷦鷯尊(仁徳天皇)は誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)なのでは、という疑念が湧いてきますが、妄想が過ぎるといけないので、この話はこの辺にしておきます。

 

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 さて話題を変えて、ここからは原日本紀年表で導かれる応神天皇の治世、396年から418年という暦年代についてみていきたいと思います。「原日本紀の復元」も時代をかなりさかのぼってきましたので、この辺りで改めて年代観の妥当性についてみておく必要があると思うからです。

 といっても、なかなか比較検討する史料がありません。

 最も信頼度が高いと思われるのは、高句麗(こうくり)の好太王碑文(こうたいおうひぶん)です。その他というと、どこまで信用できるかわかりませんが『三国史記』(12世紀完成)の「百済本紀」「新羅本紀」ということになるでしょうか。それらと『日本書紀』の記述を較べてみたいと思います(表1)。

*表内の(碑文)は好太王碑文、(百)は百済本紀、(新)は新羅本紀です。

 

■表1 『日本書紀』と朝鮮半島文献の比較

 

 まず、好太王碑文と『日本書紀』を較べてみますが、ぴったり対応した記述は見あたりません。

 しかし、399年・400年・404年・407年の碑文から、当時は朝鮮半島のかなり北部にまで多くの倭人や倭兵が進出していたことがわかります。『日本書紀』の記事からも新羅・百済・高麗(こま)といった朝鮮半島の国々との密な交渉があったことがわかります。碑文は好太王を顕彰するという目的で建てられたものであるため、当然のことながら戦勝記事が中心となっていて、各国から朝貢があったとする倭国側の記事内容とは一致しませんが、倭国の活動範囲の拡大は両史料から共通して読み取れると思います。(続く)

 

*2018・9・24 【お知らせ】を追加更新しました。

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)