邪馬台国があるのは「会稽東治」の東? 「会稽東冶」の東? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。

 これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。

 

『三国志』

計其道里當在会稽東治之東

(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。

 

『後漢書』

其地大較在会稽東冶之東

その地(邪馬台国)はだいたい会稽東冶の東にある。

 

 「治」と「冶」。サンズイとニスイ、点一つしか違いはないのですが、そこから想定される場所は大きく違います。

 根拠の詳細は省きますが、「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、現在の江蘇省蘇州市辺りとなります。一方、「会稽東冶」だと「会稽郡東冶県」という解釈で、福建省福州市辺りとなります。両者は、南北で約580キロメートルも離れています(図1)。

 

◆図1 会稽東治と会稽東冶

 

 その東が日本列島のどのあたりになるのかをみると、会稽東治の場合だと鹿児島県鹿屋市付近に、会稽東冶の場合だと沖縄県那覇市付近にたどり着きます。

 

 結論からいいますと、私は『三国志』「魏志倭人伝」が記す通り「会稽東治」が正しいと思っています。

 それは、「邪馬台国までの道里を計ると、まさに会稽東治の東にある」という一文の直前に、夏(か)の時代の王少康(しょうこう)の子にまつわる会稽での逸話があるからです。「少康の子が会稽に封じられたとき、断髪して入れ墨を入れて、蛟龍(こうりゅう:伝説上の生き物である龍の一種)の害を避けた。倭の水人も入れ墨をして大魚や水禽(すいきん)から身を守っていた。諸国の入れ墨は、左右、大小、身分の差によって異なっている」というような話で、ここに登場する「会稽」は明らかに現在の紹興市にある会稽山付近を指しています。

 そして、この逸話を受けて「邪馬台国までの道里を計ると、まさに会稽東治の東にある」と語られている以上、「会稽東治」説しか成立しないと考えられるのです。

 

 「魏志倭人伝」はこの一文の後にも、倭地の風俗や地誌についての記述を続けます。もし、「会稽東冶」だとしたら、関連性のないこの位置に入るのはおかしいのです。

 図2のように、「魏志倭人伝」はこの一文の少し後段で、「儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)」に言及しています。「儋耳・朱崖」は現在の海南島(南シナ海にある)付近のことであり、「所有無与儋耳朱崖同(倭の動植物や産物は儋耳朱崖と同様である)」と記しているのです。万が一、「会稽東冶」であるなら、「計其道里當在会稽東冶之東」の一文はこの付近に挿入されるのが適当だと思います。

 

◆図2 「魏志倭人伝」の記述

「計其道里當在会稽東治之東」の直前には、夏の少康の子に関する会稽の逸話が倭の水人との関連で述べられています。

それに続けて、倭の習俗や動植物の有無、産物などを紹介し「所有無与儋耳朱崖同」であると記します。

 

 実際、「会稽東冶」だと誤認した『後漢書』は次のように記しています。

 

其地大較在会稽東冶之東与朱崖儋耳相近故其法俗多同

その地はだいたい会稽郡東冶県の東にあり、朱崖・儋耳に近く、それ故に法や習俗の多くが同じである。

 

 以上のことから、「魏志倭人伝」の撰者陳寿(ちんじゅ)と『後漢書』の撰者范曄(はんよう)の認識は明らかに異なっていることがわかります。しかしながら、二人とも確信を持って「会稽東治」と「会稽東冶」を用いているのです。それは、陳寿は邪馬台国が鹿児島県付近にあると考え、范曄は沖縄県付近にあると考えていたことを示しています。

 しかし、430年代に完成した『後漢書』が、280年代に完成した「魏志倭人伝」を参考に編纂されたとしたら、間違えたのは明らかに范曄『後漢書』の方ということになります。

 

 では、なぜ范曄は誤認したのでしょうか。

 『三国志』には少なくとも5か所で「東冶」という言葉が出てきます。

 

・孫策(そんさく)が呉県の厳白虎(げんはくこ)を討つ前に、浙江(せっこう)を渡り、会稽に本拠地をおいて東冶城を落としたという話が1か所

 

・孫策が会稽に進撃して王朗(おうろう)を破った際に、王朗が東冶に逃げたという話が2か所

 

・呂岱伝(りょたいでん)に出てくる会稽東冶の賊の話が2か所

 

 これらはすべて南方での出来事を記したものです。文脈上、「会稽東冶」で間違いないものばかりです。「会稽東冶」という熟語も呂岱伝には2度出てきます。

 また、『後漢書』は女王国の記述に続けて、会稽の海の外にいる東鯷人(とうていじん)(「鯷」はナマズのこと)や、徐福(じょふく)の子孫がいるとされる夷洲(いしゅう)・澶洲(せんしゅう)について触れていますが、その記述のなかに「会稽東冶縣人」(会稽郡東冶県の人)が登場します。そして、ここも明らかに「会稽東冶」で間違いありません。

 

 このように、「東冶」「会稽東冶」は複数回用いられている言葉なのです。その中に1か所だけ用いられた「会稽東治」という言葉が、范曄の誤認を招いたのではないでしょうか。

 『後漢書』編纂時の范曄にすれば、中国からみて辺境の倭地、過去に存在した女王国(邪馬台国)の記述はそれほど重要なものではなかったでしょう。間違いを正すチェックも甘く、見落とされた可能性もあります。

 

 一方、陳寿は233年に生まれ、297年に亡くなっています。まさに邪馬台国の時代と重なる年代を生きた人です。確かな意図を持って「会稽東治」と記したはずです。

 しかし、297年にこの世を去った陳寿には、430年代に『後漢書』の間違いを指摘することはできません。そして、『後漢書』は当時の皇帝文帝のお墨付きをえて、社会に受け入れられていくのです。それは、邪馬台国が「会稽東冶」の東、つまり沖縄県あたりの南方にあるという認識が定着することを意味するのです。

 

 以上の考察をまとめると、今回の結論は〈陳寿が「魏志倭人伝」で正確に記した「会稽東治」を、後世の范曄が『後漢書』編纂の際に正しく理解することができなかった。それにより、他箇所で用いられより一般的に認知されていた「東冶」「会稽東冶」と混同されてしまった〉ということになります。

 

 私は、これこそが現代の邪馬台国論争を生んだ大きな原因だと考えていますが、それはまた次の機会に記します。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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