原日本紀の復元059 崇神天皇・神武天皇・山幸彦の同一人物説を再確認する | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

 いよいよ第10代崇神天皇の時代までさかのぼってきました。

 ここでまず表明しておきますが、私は現在のところ崇神天皇・神武天皇・山幸彦の同一人物説という立場です。〈原日本紀の復元024 山幸彦(彦火火出見尊)、神武天皇、崇神天皇は同一人物?〈1〉〉と〈2〉で考察したように、3人の間にあまりにも不可思議な共通項が多く認められることが根拠です。

 垂仁天皇の時代にまで検証がさかのぼる間に別の発想が浮かぶかもと思っていたのですが、特に画期的な発見もなく逆にこれしかないという気持ちになっています。

 

【橿原神宮】神武天皇は紀元前660年に橿原宮で即位されたと『日本書紀』は記します。

橿原神宮はその地で神武天皇をお祀りしていますが、創建されたのは明治時代です。

 

 この3人の共通点については、不思議なことに3人全員に共通するものはないのです。山幸彦と神武天皇、神武天皇と崇神天皇、崇神天皇と山幸彦というように、3人のうち2人に共通するものばかりなのです。つまり、A=B、B=C、C=Aを記事として提示するので、A=B=Cを導いてほしいというような設定になっているのです。実に暗示的です。

 ではまず、簡単にその共通点をまとめ直しておきたいと思います。

 

 

山幸彦と神武天皇の共通点

 

(1)諱(いみな)

どちらも諱、いわゆる生前の本名が「彦火火出見(ひこほほでみ)」である。

 

(2)塩土老爺(しおつつのおじ)との運命的な出会い

塩土老爺は、海幸彦の釣針をなくして困っていた山幸彦に対して海神の宮へ送る手助けをし、山幸彦はそこで釣針をみつけることができる。神武天皇に対しては、東方に天下を治めるのに良い土地あるのでそこで都をつくるべきだと進言して、神武東征のきっかけをつくる。

 

(3)系図

山幸彦と神武天皇の系図において、本人、妻、子、妻の妹の婚姻関係が一致する(図1)。

 

■図1 山幸彦(彦火火出見)と神武天皇の系図

 

 

神武天皇と崇神天皇の共通点

 

(4)「はつくにしらすすめらみこと」という称号

どちらの天皇にも「初めて国を治められた天皇」という共通の称号が与えられている。ただし、あてられた漢字は異なっている。

 

(5)52歳で即位

東征出発時の年齢45歳から算出した神武天皇の即位年齢は52歳である。また、「開化天皇28年に19歳で立太子」から導かれる崇神天皇の即位年齢も52歳である。

 

 

崇神天皇と山幸彦の共通点

 

(6)男子三兄弟の第二子

どちらも男子三兄弟の二番目である(図2)。

 

■図2 崇神天皇と山幸彦の系図

 

(7)兄弟名の「火」と「彦」

山幸彦の本名は「彦火火出見」です。山幸彦と崇神天皇の兄弟の名前をみると、山幸彦の三兄弟の名前は「火」で統一されている一方、崇神天皇の三兄弟の名前は「彦」で統一されています。「彦火火出見」はそのどちらの要素も兼ね備えた名前なのである。

 

 以上のような共通点をどう考えればよいでしょう。人によって受け取り方は違って当然だと思います。偶然の産物だと考える人もいれば、「自説によい部分だけ切り取って並べただけ」という人もいるでしょう。

 しかし、私はこれだけの一致は偶然の範囲を超えていると思うのです。明らかに人為的な操作なり設定なりを感じてしまうのです。

 それで、私は山幸彦・神武天皇・崇神天皇の同一人物説を採用して、『日本書紀』を読んでいきたいと考えています。

 

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*これは内輪で気にかけていただいていた方への報告になりますが

 新宿シティハーフマラソン、無事完走いたしました!

 

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総合オピニオンサイト「iRONNA」に論文が掲載されました。

邪馬台国畿内説批判と熊本説の妥当性についてまとめた小論です。

タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。

こちらもぜひお読みください。

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