奴国と不彌国〈1〉「魏志倭人伝」を忠実に読むと、奴国はどこに? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 「魏志倭人伝」に登場する国の中で、末盧国(まつらこく)と伊都国(いとこく)の位置についてはほぼ確定されています。定説になっているといってよいかと思います。

 すると、それに続く奴国(なこく)、不彌国(ふみこく)もかなり高い確度をもって比定できると思います。しかし、なぜか比定地に大きなバラツキがみえてくるのです。

 私は『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、この二つの国についても検証を行いました。そして、かなり自信を持って推断したつもりです。今回はその根拠も含めて綴ってみたいと思います。

 

 帯方郡を出発した郡使は、朝鮮半島南部の狗邪韓国から海を渡り、対馬、壱岐島を経由して九州島に着きます。

 その上陸地点は唐津湾内だったと考えられています。呼子説や博多説なども提唱されていますが、私の感覚だと8割方の人たちは異論がないと思います。大体の地点としては、少し時代的には古いのですが桜馬場遺跡の辺りではなかったかと思われます。湾奥の西側です。

 

 「魏志倭人伝」は、その末盧国から500里で伊都国に到着すると記します。

 ここでひとつ前提条件を確認しておきます。

 

(前提条件1)道里の算定基準点は郡使たちの滞在した拠点集落である

 

 当時の倭地において、国と国の間に明確な国境はなかったと思われます。だから、「魏志倭人伝」に記された国と国との間の道里は、国境を起点としたものではありません。郡使たちが邪馬台国への行程の中で逗留した、当該国の中心的な拠点集落がその基準点だったと考えられます。

 

 伊都国は糸島市にあったと断言してよいでしょう。「魏志倭人伝」の中でも重要な国とされている伊都国については、古来、文献学や考古学などさまざまな視点から検討がなされ、今では糸島市で確定したといってよいと思います。

 では、伊都国で到着する拠点集落はどこでしょうか。やはり、三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)・井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)・平原遺跡(ひらばるいせき)などが営まれた平野部南東地域の、背振山地の麓辺りと考えるのが妥当でしょう。

 末盧国の拠点集落から、この伊都国の拠点集落までが500里です。これが一つの基準になります。ここで二つ目の前提条件を確認しておきます。

 

(前提条件2)倭地の行程記述に用いられる道里(道のりの距離)は同一の尺度に基づくものである

 

 この500里という「道里」は郡使一行の歩いた道のりの距離です。2地点間の直線距離ではありません。これは以前の記事でも検証しました。そして、「魏志倭人伝」で語られる国と国との間の道里は、すべて同じ尺度によるものであると考えます。末盧国から伊都国までの道里はいわゆる「短里」で算出されているが、伊都国から奴国までの道里はいわゆる「長里」で算出されている、などということは当然のことながら想定しないということです。

 

 では、伊都国から奴国、不彌国へ歩みを進めましょう。もちろん、二つの前提条件を念頭においてです。

 伊都国から奴国へは、東南へ100里です。さて、この100里は現在のメートル法ではどれくらいの距離なのでしょうか。末盧国の拠点集落から伊都国への拠点集落への道のりは、だいたい35キロメートルです。それが500里ですから、100里は約7キロメートルということになります。

 ちなみに私は1里70メートル説を採用しています。それは「韓伝」の記述と、対馬海峡の距離から算出したものですが、ここで求めた数値もそれと一致しました。「魏志倭人伝」内で用いられている尺度は「1里約70メートル」と考えてよいと思います。

 

 伊都国で想定した拠点集落から東南方向というと、高祖山(たかすやま)と王丸山(おうまるやま)の間を通り、日向峠(ひなたとうげ)を越えていく道しかありません。山を越えれば早良平野(さわらへいや)が広がっています。さらにその先は広大な福岡平野です。二万余戸を擁する大国、奴国にふさわしい地域といえます。

 実は私は『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、奴国の国域は早良平野・福岡平野一帯だと想定しましたが、道里の基準点となった拠点集落は比定できませんでした。

 それは、ほぼこの付近ではないかと考えられる地域に、該当しそうな遺跡がみつからなかったからです。100里は約7キロメートルです。「魏志倭人伝」は100里単位で道里を記していますから、仮に150里までを許容範囲とすれば、最長距離は10・5キロメートルとなります。すると、その地域は現在の福岡市西区か早良区、せいぜい城南区辺りまでです。具体的には室見川流域から油山の北側ぐらいの地域となります(図1)。

 

■図1 奴国の拠点集落の想定地域

 

 しかし、この地域に弥生時代後期から終末期に営まれた拠点集落が見つからないのです。吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡という有名な遺跡はあるのですが、これは弥生時代前期末から中期後半のものであると推定されています。邪馬台国の時代よりもかなり古い遺跡なので該当しません。

 それで、奴国の拠点集落については、今後の考古学的成果に期待したいとして比定を保留にしているのです。

 

 ただ一つだけ、現在の考古学的成果の中にそれを求めるとすると、野方遺跡(のかたいせき)が最も可能性があると思います。

 野方遺跡は、室見川の左岸、叶岳(かのうだけ)の麓にあります。ここに到着するには、日向峠を越えてすぐに北上することになります。弥生後期から古墳前期にかけての大規模な集落遺跡で、大小二つの環濠を持つ環濠集落でした。大きい方の環濠は直径約100メートルもあり、小さい環濠の内側には高床式倉庫も建てられていたようです。

 もし、郡使一行が滞留した場所ではなかったとしても、邪馬台国時代に奴国内の拠点集落の一つであったことは間違いないでしょう。(続く)

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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邪馬台国畿内説批判と熊本説の妥当性についてまとめた小論です。

タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。

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