「魏志倭人伝」後世改ざん説を時系列で検証する!〈5〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

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 『三国志』「魏志倭人伝」の写本にあたって、『後漢書』倭伝との不一致に悩んでいた担当者のもとに、朗報がもたらされます。それが倭王讃の遣使に対する聞き取り調書だったのではないかと私は考えています。

 

(7)倭王讃の遣使の聴取記録が登場する

 

 421年、425年、430年に宋に渡った讃の遣使に対する聞き取りが行われたのは間違いないでしょう。さらに、438年には珍が、443年には済が遣使します。421年に再開された通交は、壹与の朝貢以来150年も経っているのです。倭の地がどのようになっているのかを詳細に聞き取ったと思います。

 しかし、隋書が記すように当時の倭人は「里数を知らず、日をもって計算している」のです。本当に倭人が距離を表す尺度を持っていなかったとは思いません。単に当時の宋と同じ尺度を持っていなかっただけかもしれませんが、共通の尺度を持たない両者は同じ距離感を共有できないのです。そこで、倭の使者は要した日数を伝えたのかもしれません。

 

 421年から430年頃の倭国の都は畿内です。私論の讃=菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)説では、宮は奈良盆地北端周辺です。そこから出発した遣使たちは、淀川、河内湖を経て瀬戸内海へ出て西へ船行し、関門海峡を抜けて博多湾に入り、対馬海峡を渡って朝鮮半島に至り、黄海を渡って宋に到着したと思われます。

 宋までの行程を聞かれた遣使たちは、その答えの中で「倭の都から九州北部にあった拠点(不彌国)まで約2か月かかった」と言ったかもしれません。これは単なる憶測ですが、邪馬台国畿内説の学者の方々が、不彌国から投馬国経由で邪馬台国までの2か月という日数をその根拠とされる場合があることを考えると、妥当な日数ともいえます。(図1)

 

◆図1 不彌国と倭国の都(宮)

 

(8)南への行程で「書き換え」が行われる

 

 ともあれ、この「2か月」という日数は、写本に関わった官僚たちにとって天の恵みのように思えたことでしょう。

 不彌国から投馬国経由で邪馬台国へ至る、水行・陸行合わせて1300里という南への行程を日数に書き換えるだけで、表面上は齟齬(そご)なく取り繕えるのです。あいまいな日数を用いることにより、帯方郡から邪馬台国への総距離12000余里と整合しない距離を記すことなく、邪馬台国の位置を会稽東治の東から会稽東冶の東へと南下させることができたのです。日数がどれくらいの距離になるかは読む人の主観に委ねられます。現在の邪馬台国論争で、長短さまざまな見解があるようにです。ただ、大変な違和感はありますが、これで文面上は取り繕えたわけです。(図2)

 

◆図2 日数により南下した邪馬台国

 

 『三国志』「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝における記述の不一致は、写本担当者にとって見過ごせないものだったのでしょう。しかし、正史を改ざんするなどというのは、当時は大罪に違いありません。だから、この「書き換え」はある程度上級責任者の承認のもとで行われたと思います。

 そして、彼らは奇策ともいえる次善の策で、その改変を最小限にとどめることができたのです。

 

 以上が、私の考える「魏志倭人伝」後世改ざん説のストーリーです。「改ざん」というと「悪」のイメージがありますが、私は写本に関わった人たちの「良心」や「責任感」から生じたものだったと思っています。

 

 改ざん(書き換え)が行われたのは、『後漢書』の完成からそれほど年が経っていない時期だったと思います。479年に宋が滅亡するまでには行われたのではないでしょうか。まだ、裴注版『三国志』が何度も書写されていない段階です。

 そして、その後は改ざんされた裴注版『三国志』「魏志倭人伝」がスタンダードになっていきます。対照的に、陳寿オリジナルの『三国志』や改ざん前の裴注版『三国志』は歴史の中に埋もれていくことになります。つまり、具体的な里数が書かれた記事は消えて行き、現在私たちが目にする日数表記の記事が後世に伝わっていくのです。(完)

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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総合オピニオンサイト「iRONNA」掲載の小論

「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠

 

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