「令和」のはじめに、日本のはじまりを考えてみませんか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 本日5月1日、ついに令和の時代がスタートしました。

 今回は天皇陛下が「退位」されたということもあり、昭和天皇が「崩御」されての平成への代替わりの時にあった沈痛な雰囲気はなく、新天皇を迎えるお祝いの気配さえ漂っています。

 それが良いのかどうかはわかりませんが、すべての物事にはじまりがあるように、今日が令和のはじめの一日ということになりました。物理的には昨日から今日へいつもと変わらぬ時間が流れただけなのですが、実に新鮮な気持ちになるのは本当に不思議なものです。令和が平穏な時代であり、世界で最古の皇統が今後も久しく続くことを願います。

 

 さて、そんな令和の初日に、拙著【『日本書紀』だけが教えるヤマト王権のはじまり】が発売されました。

 そもそも本書の当初の目的は、初代天皇がいつ即位されたのかを知ることでした。私は前著『邪馬台国は熊本にあった!』で、邪馬台国熊本説を提示しました。しかし、その邪馬台国が現在の日本とどのようにつながっているのかまでは考えられませんでした。

 現在の日本の源流を探し求めると、奈良盆地の南東部に生まれたヤマト王権にさかのぼるのは明らかな事実です。

 では、邪馬台国とヤマト王権の関連性は? となると、諸説ありますが結論は出そうにありません。その原因の一つが、ヤマト王権がいつ誕生したのかがわからないことです。それがある程度確定されると、卑弥呼が247年もしくは248年に亡くなり、266年に壹与が中国に使者を送った邪馬台国との具体的な比較検討が可能になります。だからこそ、ヤマト王権のはじまりが知りたかったのです。

 

 本書では従来の干支に固執しない新たなアプローチ法で、その解明に挑みました。各天皇紀における事績(出来事)の記されない年を削除・短縮していく方法です。一つ具体例をあげると、崇神天皇の治世は68年だったとされていますが、事績が記されるのは元年・3年・4年・5年・6年・7年・8年・9年・10年・11年・12年・17年・48年・60年・62年・65年・68年の17年だけなのです。だから、『日本書紀』の前段階の編年体の文献『原日本紀(げんにほんぎ)』では、17年間の治世としていったんまとめられていたのではないかと考えるのです。

 それを、推古天皇からさかのぼって検証していくと、崇神天皇の即位が西暦301年という結論が得られました。私は、崇神天皇=神武天皇=山幸彦の同一人物説を採っていますので、初代天皇の即位が301年ということになります。それはイコール、ヤマト王権誕生の年といってよいでしょう。

 

 この方法論や結論には当然異論もあると思います。しかし、私はまずはこの結論をもとにして、邪馬台国とヤマト王権の関係を考えていきたいと思っています。ヤマト王権が301年とし、邪馬台国と何らかの関係があったとすると、邪馬台国は『日本書紀』における神武東征の前の神代(かみよ)の記述の中にあるはずなのです。

 新年号「令和」のはじめに、気持ちも新たにそれに取り組んでいきたいと思っています。

 古代史にご興味のあるみなさまにとっても、令和のはじめというこの時は、日本のはじまりについて思いを巡らせるよい時機だと思います。そして、ヤマト王権のはじまりに関する議論の高まりに期待したいと思っています。

 

 以下、再掲になりますが、拙著の主な内容について記します。

 

『日本書紀』だけが教える ヤマト王権のはじまり

伊藤雅文(著)/333ページ/扶桑社新書301/定価980円+税

 

 

『日本書紀』には『原日本紀(げんにほんぎ)』が存在した。

『原日本紀』は各天皇の治世に「無事績年(事績の記されない年)」のない編年体で記された。それに紀年延長操作を加えて、720年、『日本書紀』は完成した。だから、『原日本紀』を復元することこそが、古代史の真実に近づく最善の方策である。

 

倭の五王「讃」「珍」「済」「興」「武」を比定する。

『日本書紀』は中国史書に名を残す倭の五王が誰であったかを記していない。『宋書』をはじめとする中国史書と『原日本紀』の編年を対比させることにより、当時の状況を見つめなおし、倭の五王が誰だったのかを考察する。

 

神功皇后は卑弥呼をもとに創造された女帝である。

神功皇后は、唐に対して日本の皇統の正当性や歴史の長さを宣言するために、暗示的に創造された女帝である。その証拠に、「魏志倭人伝」の卑弥呼および壹与をトレースした人物像を与えられている。また、神功皇后紀を挿入した弊害として、その前後の『日本書紀』の紀年は大きく歪められている。

 

武内宿禰像を再構築する。

300年を超える寿命で伝説上の人物とされている武内宿禰の人生を、『原日本紀』の年表にしたがって再検討する。その結果、長寿ではあるが確かな実在の人物として、武内宿禰が古代史上に像を結んでくる。

 

「白鳥」がつなぐ日本武尊と誉津別命(ほむつわけのみこと)

武内宿禰とは対照的に30歳で早世した英雄である日本武尊を軸に、垂仁天皇から仲哀天皇にいたる天皇紀を検証する。『日本書紀』の延長された紀年を正すと、「白鳥」で結ばれた二人の関係が浮かび上がる。

 

「東征」はいつ、誰がしたのか。

神武天皇は実在したのか? 欠史八代をどう考えるのか? 初期天皇の考察を通して『原日本紀』の編年表が完成する。東征開始は294年、初代天皇即位は301年の「辛酉年」という結論にいたる。

 

継体天皇の二王朝並立説を考える。

『原日本紀』復元のその先に見えてくるものについて考える。継体朝と仁賢・武烈朝の二王朝並立について、『原日本紀』段階で直列化された痕跡を、二つの王朝紀に書かれた記事の奇妙な一致から探る。

 

古墳時代の三大金石文を解釈し直す。

『原日本紀』を復元した年表から考えれば、古代の貴重な金石文は何を語ってくれるのか? 著名な三大金石文「七支刀」「隅田八幡神社人物画像鏡」「稲荷山古墳金錯銘鉄剣」の銘文を新たな始点から読み解く。そこから、各文にまつわる新たな物語がみえてくる。

 

★令和元年5月1日発売!

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)