「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

 「魏志倭人伝」の行程記述の読み方にはいくつかの説があります。

 まず、一つが「連続説」と呼ばれるものです。これは、「魏志倭人伝」の記す行程を一本の道と考え、帯方郡(たいほうぐん)を出発してから登場する国々を順に辿って行くという読み方です。オーソドックスな考え方で、私もこの説を採用しています(図表1)。

 

◆図表1 連続説

 

 これに対して、「放射説」という読み方があります。

 「放射説」は、戦後まもなく榎一雄氏が発表された説で、伊都国(いとこく)から以降の方角・距離は、伊都国を起点として記述されていると考えるものです。私は元の論文を読んではいませんが、現在語られる「放射説」の主な根拠は次のようなものです。

 

・伊都国までの記述は「方角、距離、国名」の順だが、伊都国以降は「方角、国名、距離(または日数)」の順に変わっている。

・伊都国までの記述には地誌的なものが含まれるが、伊都国以降の記述にはそれがない。その理由は、郡使が伊都国までしか行っておらず、それ以降の国々の記述は伝聞に基づくものだからである。

 

 だから、伊都国以降の奴国(なこく)、不彌国(ふみこく)、投馬国(とうまこく)、邪馬台国については、伊都国を出発地点として放射的に読まなければならないと考えるのです(図表2)。

 

◆図表2 放射説

 

 では、「放射説」は成立するのか?

 まず、「魏志倭人伝」の記述を確認してみます(図表3)。

 

◆図表3 「魏志倭人伝」の行程記述

 

 確かに、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国への行程は「方角、国名、距離(または日数)」の順になっています。

 しかし、帯方郡から狗邪韓国(くやかんこく)までの行程も、同じように最後に距離が記されています。

 どちらかというと、対馬国(つしまこく)、一大国(いちだいこく)、末盧国(まつらこく)、伊都国への行程の、「方角、距離、国名」の方が例外的な感じがします。そう思って、その記述を見ると、そのように書く理由があったようにみえます。

 

 それは、対馬海峡を渡る行程については、「海を渡る」ことを示すのが重要だったので、それが先にきて、それに付随する距離も国名より先にきてしまったように思えるのです。

 つまり、対馬国から一大国の行程を例にとると、原文の順ではなく「又南至一大国渡一海千余里(名瀚海(かんかい))」とか「又南渡一海(名瀚海)至一大国千余里」では、何か違和感のある文章になるように思えるのですが、いかがでしょうか。他に書きようはあるという意見もあるでしょうが……。

 

 それと同様に、末盧国から伊都国への行程も、わざわざここからは「陸行」であるということを強調するためにこのような文章になっているような気がします。「東南陸行到伊都国五百里」より「東南陸行五百里到伊都国」の方が収まりがよいように思えます(論理的に上手く説明できませんが)。

 そうすると、「投馬国への水行も前に来るのでは」というような反論も聞こえそうですので、この話はここまでにしておきます。

 

 上記の私の個人的な感想より重要と思われるのが、伊都国を起点とする4か国の記載順です。邪馬台国は最終目的地なので、最後になるのはわかりますが、なぜ、東南、東、南の順なのでしょうか。伊都国を起点に記すのなら普通に考えて、東、東南、南の順になるのではないでしょうか。つまり、放射説で記されるとすると、不彌国が奴国の前に語られないとおかしいと思うのです。

 

 さらに、「魏志倭人伝」の行程記述は、帯方郡から女王が都する邪馬台国までの道のりを明らかにするのが目的だと考えられます。すると、放射説を採用した場合、その道のりに入らない奴国、不彌国、投馬国はなぜ書き記されているのでしょうか。この3国を省いて、伊都国から邪馬台国までの行程を記すだけで目的は達せられます。こんな紛らわしい書き方をする必要はないようにみえます。

 

 それに加えて、放射説の前提条件となっている「郡使一行は伊都国までしか来ていない」という説にも疑問があります。「魏志倭人伝」は後半の記事で、郡使の梯儁(ていしゅん)一行が届けた皇帝からの下賜品に対して、倭王が感謝の上表文を渡したという記述があります。放射説を信じれば、卑弥呼が邪馬台国から伊都国へ出向いて受け取ったと考えなければなりませんが、そんなことは一言も書かれていません。ということは、当然のことながら、梯儁一行は邪馬台国まで行き、そこで卑弥呼に下賜品を渡したと考えなければならないと思います。

 

 以上のことから、私はやはり行程記述は連続説で読まなければならないと思います。

 放射説をとると、連続説に比べて必然的に伊都国から邪馬台国への距離が近くなります。「水行十日陸行一月」を「水行10日した後に陸行1月」と読むのではなく、「水行10日もしくは陸行1月」と読む説(これも榎説?)を採用するとさらに距離は短くなります。

 確かに九州説にとって魅力的な説かもしれませんが、「放射説」は成立しないのではないかというのが今回の結論です。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

★令和元年5月1日発売の新著です!

 

お読みいただきありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   
にほんブログ村   古代史ランキング

 

*****

拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)