「世有王皆統属女王国」とは? 伊都国の「王」と女王国の「女王」 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 今回は、『三国志』「魏志倭人伝」の伊都国に関する記事にあらわれる「世有王皆統属女王国」の読み方について、自説をまとめてみたいと思います(なお、これについては拙著『邪馬台国は熊本にあった!』の中でも触れています)。

 

 まず、上記文を含む伊都国記事の全文は以下のようになっています。

 

東南陸行五百里 到伊都国 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王皆統属女王国 郡使往来常所駐

(訳:今回の考察対象文を除く)

(末盧国(まつらこく)から)東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく)へ到着する。官は爾支(にき)副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へここ)である。1000余戸ある。【世有王皆統属女王国】 帯方郡の使節が行き来する時にはいつも留まるところである。

 

 【世有王皆統属女王国】は従来から以下のように訳されることが多いです。

 

(1)代々王がいるが、皆、女王国に統属している

(2)代々王がいたが、皆、女王国に統属されていた

 また、少し変わった読み方としては次のようなものもあります。

(3)代々王がいるが、皆、女王国を統属している

 

(3)については、ありえない読み方だと思いますが、(1)(2)についても、「魏志倭人伝」を読み始めた当初から何か違和感を覚えていました。今思えば、違和感の根源は王と女王の関係性だったような気がします。

 

 この一文を正しく読むためにはまず、この「王」のあり方について考える必要があると思います。

 「王」については、「魏志倭人伝」後半に「卑弥呼共立」に関して次のような記述があります。

 

其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王名曰卑弥呼

(訳)

その国はもとまた男子を王として7、80年治まっていた。(その後)倭国が乱れ、互いに攻撃しあうことが何年も続いた。そこで、一女子を共立して王とした。名前を卑弥呼という。

 

 「その国」というのは、版図に違いはあるかもしれませんが、女王国のもととなった国(女王国の前身)と考えてよいでしょう。

 その国は男王のもとで治まっていましたが、倭国の乱を経て卑弥呼を共立します。この時点で卑弥呼は30国の「女王」になるわけです(30国とするのは、狗邪韓国から邪馬台国までの行程記述に登場する9国と21の旁国の合計を女王国の領域と考える場合の数です)。つまり、卑弥呼は国という単位の、その上に君臨する存在だといえます。そして、邪馬台国にいたと考えられています(図表1)。

 

◆図表1 女王・卑弥呼のイメージ

 

 では、倭国乱の前にいた男王はどうでしょうか。

 「魏志倭人伝」では、「本亦(もともと今と同じように)」男王のもとで治まっていたと記しています。つまり、男王も卑弥呼同様、複数国の上に君臨する存在だったのです。

 この男王は、先の「世有王皆統属女王国」を見る限り伊都国にいて傘下の国を治めていたと考えられます。少なくとも、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国は含まれていたのではないでしょうか。あるいは奴国、不彌国も傘下だったかもしれません(図表2)。

 

◆図表2 伊都国にいた男王のイメージ

 

 このように「王」が複数の国の上に君臨する存在だとすると、(1)(2)(3)の読み方には矛盾がでてきます。

 伊都国で複数の国の上に存在していた「王」は、卑弥呼を「王(女王)」とする女王国の体制の中で「王」としてあり続けることはできないのではないでしょうか。「王」は、「魏志倭人伝」に記される「官」のような存在に変移するのではないでしょうか。

 ここで念のために付記しておきますが、この「王」「官」については、あくまでも来倭した郡使の目を通して表現されたものですから、当時の倭地で用いられていたものではないと思います。だからこそ、「魏志倭人伝」中に記される「王」は同じ定義のもとに用いられている可能性が高いともいえるのです。

 

 もうひとつ、これは考古学的成果とも関連するのですが、伊都国にいた「王」の生存期間と女王国の誕生時期の問題です。

 卑弥呼が共立されて、女王国が「女王」国として成立したのはいつでしょうか。卑弥呼が西暦247年ないし248年に没したとすると、古く見積っても西暦180年をさかのぼらないのではないかと思われます。

 一方、伊都国に比定されている現在の糸島市には、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、平原遺跡という王墓級の墓が見つかっている遺跡があります。出土品から1号墓に埋葬されているのは女性だと推測されている平原遺跡は西暦200年をくだる可能性も指摘されていますが、これらの遺跡はおおむね200年以前であろうと考えられています。

 すると、少なくとも三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡の王墓は、倭国乱以前に伊都国にいた男王の墓である可能性が高まります。そして、卑弥呼が亡くなった3世紀中頃の王墓は見つかっていません。

 つまり、「魏志倭人伝」の二つの記述から読みとれる通り、

まず、伊都国に男王がいた(2世紀前半〜後半)

次に、倭国が乱れる(2世紀後半)

そして、卑弥呼が共立される(2世紀後葉〜3世紀前葉?)

というストーリーが真実味を帯びてきます。

 

 以上から、次のことがいえます。

(a)「王」は複数の国の上に君臨する(共立されている)存在である

(b)倭国乱以前の「王」は代々、伊都国にいた(さらに以前は奴国=須玖岡本遺跡?)

(c)女王国は倭国乱後に卑弥呼を共立して誕生した

 

 すると、(1)(2)(3)の読み方が成立しないことがわかります。

 伊都国の「王」と女王国の「女王(=卑弥呼)」は、「王」という立場で併存しないからです。

 では、どのような読み方ができるでしょう。

 私は、次のように読むのが正しいのではないかと思います。そして、これが今回の結論です。

 

伊都国には代々(対馬国、一大国などの国々をまとめる)王がいたが、(倭国乱を経て、過去にいた王の勢力下の国々は)今は皆、女王国に統属されている

 

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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