百舌鳥・古市古墳群の被葬者を考える〈5〉雄略天皇も巨大前方後円墳に眠る? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 百舌鳥古墳群の大仙陵古墳を第16代天皇の仁徳天皇陵と比定したのに続いて、ニサンザイ古墳を第17代履中天皇陵、田出井山古墳を第18代反正天皇陵と比定しました。

 次に、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御陵についてみていきたいと思います。

 改めて古墳の築造年代と歴代天皇の崩御年を掲載します(図表1)。

 

■図表1 古墳築造年と歴代天皇の崩御年(筆者の見解による)

 

 允恭天皇は私が倭の五王の「興」だと考える天皇です。履中天皇(りちゅうてんのう)・反正天皇(はんぜいてんのう)の同母弟とされ、反正天皇の崩御を受けて即位されます。当初固辞されながら、妃の忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)や群臣の願いを受け入れての即位でした。原日本紀年表では459年に即位され14年の治世ののち472年に崩御されたことになります。

 

 允恭天皇は河内長野原陵(かわちのながののはらのみささぎ)に葬られたと『日本書紀』は記します。そして、古市古墳群の市野山古墳が允恭天皇陵に治定されています。

 市野山古墳は5世紀後半の築造とされ(近年、多少築造年代をさかのぼさせる見解もあるようですが)、允恭天皇の治世および崩御年と整合します。治定通り、市野山古墳を允恭天皇の御陵としてよいのではないかと思います。

 

●市野山古墳:允恭天皇陵(日本書紀で「河内長野原陵」)

墳丘長230メートル/後円部の径約140メートル・高さ約23メートル/前方部の幅約160メートル・高さ約22メートル/3段築成で2重濠を持ち、くびれ部両側に造り出しがある

 

 允恭天皇を継いだのは、第2子(一説では第3子)の安康天皇(あんこうてんのう)です。安康天皇は数奇な運命をたどられます。

 長子である木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)が同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)との近親相姦により失脚したことで皇位が回ってきます。しかし、詳細な経緯は省きますが、治世3年に皇后の連れ子であるわずか7歳の眉輪王(まよわのおおきみ)によって暗殺されてしまうのです。

 原日本紀年表では、473年に即位され475年に崩御されたことになります。

 『日本書紀』によれば、この第20代安康天皇は菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬られたとされています。

 宮内庁が治定する菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)は河内ではなく、現在の奈良市にあります。そこは、古墳ではなく城跡だと考えられていて、形状も前方後円形ではなく宮内庁によると「方丘」とされています。謎は残りますが、ここではいったん安康天皇は河内には葬られなかったと仮定して次に進みます。

 

【治定されている安康天皇陵】

安康天皇陵(と垂仁天皇陵)への道標を写した画像に美しい虹色の光線が。

 

安康天皇はここに眠られているのでしょうか

 

 暗殺された安康天皇を継いで即位するのが、倭王「武」に比定される雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)です。

 原日本紀年表では476年のことになります。その後、23年の治世ののち498年に崩御されます。

 『日本書紀』は、雄略天皇が葬られたのは丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)だと記します。現在、宮内庁によって治定されている雄略天皇陵は古市古墳群内にあります。

 

【治定されている雄略天皇陵古墳】

美しい濠のめぐる古墳です。

 

 しかし、雄略天皇陵古墳は直径75メートルの丸山古墳と方墳である平塚古墳を合わせて前方後円形に改造して治定されているのです。だから、本当は雄略天皇の御陵ではない可能性が高いと指摘されています。

 

 では、真実の雄略天皇陵はどこにあるのでしょうか。

 実は、真の雄略天皇陵ではないかといわれる古墳が古市古墳群内にあります。岡ミサンザイ古墳です。

 岡ミサンザイ古墳は仲哀天皇陵であると治定されています。しかし、古墳の築造年代は考古学的に5世紀末とされていて、4世紀末の人物とされる仲哀天皇とは約100年のずれがあります。現代の知見では仲哀天皇の陵とは考えられないのです。

 そこで浮上してくるのが雄略天皇陵説です。原日本紀年表上からも、5世紀の第4四半世紀に23年間の治世をもち、498年に崩御された雄略天皇こそ、古墳群内で3番目の大きさとはいえ5世紀末の古墳としては飛び抜けて大きな岡ミサンザイ古墳の被葬者にふさわしいと思います。

 

●岡ミサンザイ古墳:雄略天皇陵(日本書紀で「丹比高鷲原陵」)

墳丘長242メートル/後円部の径約148メートル・高さ約20メートル/前方部の幅約182メートル・高さ約16メートル/3段築成でくびれ部東側(後円部を上にして右側)に造り出しがある(西側の造り出しの有無は不明)

 

 ここまで、仁徳天皇以降の歴代天皇陵の比定を行ってきました。

 しかし、図表1をみるとこの期間内で気になる古墳が残っています。白鳥陵古墳です。この美しい名前が付けられているのは、崩御後に白鳥になったという日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵の一つと考えられているからです。しかし、日本武尊は4世紀の人であり、考古学からは5世紀後半から後葉の築造であるとされる古墳本体とは大きなずれがあります。

 

 では、ここに葬られているのは誰でしょうか。

 白鳥陵古墳には別名があります。軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)という名称です。所在地名も羽曳野市軽里です。

 そこから連想されるのは木梨軽皇子です。同母妹との近親相姦が原因で失脚して自殺される(一説では伊予国に流される)のは允恭天皇崩御年の472年となっています。時期的には一致します。また、木梨軽皇子は允恭天皇が存命中から後継者と決めていた御子ですから、大きな陵が準備されていたとしても不思議ではありません。

 しかし、もう少し想像の翼を広げれば、実は安康天皇がこの陵に眠っていると考えられないだろうかという思いが浮かびます。

 木梨軽皇子は元皇太子とはいえ、最終的には反逆者として兵を挙げて敗北されます。亡くなったとしてもちゃんと葬られなかったり、一説のいうように伊予に流されて、築造中だった寿陵(白鳥陵古墳=軽里大塚古墳)に埋葬されなかった可能性もあります。

 その被葬者のいなくなった墳丘墓を、急遽即位して治世期間3年という短期間で崩御された安康天皇の陵に仕上げたということも考えられるのではないでしょうか。

 

●白鳥陵古墳(軽里大塚古墳/前の山古墳):木梨軽皇子の陵もしくは安康天皇陵か?

墳丘長200メートル/後円部の径約106メートル・高さ約20メートル/前方部の幅約165メートル・高さ約23メートル/3段築成で2重濠を持ち、くびれ部北側(後円部を上にして左側)に造り出しがある

 

 ここまで、仁徳天皇陵以降(5世紀後半)の古墳についてみてきました。次回は4世紀末から5世紀前半の古墳の被葬者を考えてみたいと思います。(つづく)

 

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