百舌鳥・古市古墳群の被葬者を考える〈7〉応神天皇陵は応神天皇の御陵ではない!? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 私は、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が395年に崩御された後、スムーズに第15代応神天皇(おうじんてんのう)への皇位継承がなされたのではないかと考えています(『日本書紀』では崩御後に69年間の神功皇后(じんぐうこうごう)の摂政期間が設けられていますが)。

 原日本紀年表では、応神天皇の治世は396年から418年となります。23年の治世ののちに崩御されます。

 すると、420年頃に完成した古墳が応神天皇の陵ということになります。

 

 不思議なことに『日本書紀』は応神天皇がどこに葬られたのかについては言及していません。他の天皇はすべて記されているのに、応神天皇だけが記されていないのです。

 意図的なのか、単に書き漏れ、あるいは後世に欠落したのかは不明です。ただし、後の雄略天皇紀9年条に、場所は不明ながらイチビコの丘に誉田陵(ほむたのみささぎ)(応神天皇陵だと思われる)があったという記述がみられます。

 しかし、『古事記』には応神天皇の陵は河内の恵賀の裳伏岡(もふしのおか)にあると記されていて、古市古墳群の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)が応神天皇陵に治定されています。

 

 誉田御廟山古墳は墳丘長425メートルという巨大前方後円墳で、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次いで全国2位の大きさを誇ります。墳丘体積では大仙陵古墳をしのいで全国最大とされています。

 築造時期は5世紀前半と大まかに見積られていますが、応神天皇の御陵だという前提の説明時には、5世紀初頭などとより古い年代を当てられているようにみえます。おそらく応神天皇の崩御年を400年頃とみる年代観にそってのことではないかと勘ぐってしまいます。

 

 では、応神天皇の御陵は宮内庁の治定通り誉田御廟山古墳で決まりとみてよいでしょうか。

 私には少し異議があります。誉田御廟山古墳はもう少し新しいのではないかと思うのです。

 津堂城山古墳から誉田御廟山古墳までの間には、古室山古墳、大塚山古墳、仲津山古墳、墓山古墳、上石津ミサンザイ古墳といった大型の前方後円墳が築かれたと考えられています。その築造順が正しいのであれば、誉田御廟山古墳を5世紀初頭に位置づけると、間がつまりすぎて、これらの古墳の相対的な築造順が組み立てられなくなるのではないかと思うのです。

 

 またもう一点、二ツ塚古墳との関連性です。

 二ツ塚古墳は誉田御廟山古墳の内堤に食い込む形で築かれた墳丘長110メートルの古墳です。といっても、二ツ塚古墳が後から築かれたわけではなく、誉田御廟山古墳が二ツ塚古墳を避けて築かれているのです。そのため、誉田御廟山古墳の被葬者(通説では応神天皇)に近い重要な人物の墓ではないかと推測されています。

 

 その二ツ塚古墳は誉田御廟山古墳より30年から50年も前に出来たとされています(その根拠については熟知しておりません)。4世紀後半という築造年代が与えられています。

 この時期の前方後円墳については、概して時代が下るほど前方部が発達して、後円部の高さに対する前方部の高さが相対的に高くなるとされています。つまり、古い古墳ほど後円部に対して前方部が相対的に低いのです。

 二ツ塚古墳(後円部の高さ10・1メートル:前方部の高さ8・6メートル)の比率は後円部の高さを1とすると、前方部高は0・85です。

 津堂城山古墳(後円部の高さ約17メートル:前方部の高さ約13メートル)は1:0・76、古室山古墳(後円部の高さ15メートル:前方部の高さ9メートル)は1:0・6です。つまり、二ツ塚古墳は津堂城山古墳や古室山古墳よりも前方部が発達しているのです(ただし、後円部径に対する前方部幅では津堂城山古墳や古室山古墳の方が発達しているとみることができます)。

 すると、二ツ塚古墳は4世紀後半とはいいつつも、それほど古くないのではないかと思われます。

 以上のことから、誉田御廟山古墳の築造は5世紀初頭より後ろ、5世紀中頃に近い前半になるのではないでしょうか。何度も掲載しますが図表1のようにです。

 

■図表1 古墳築造年と歴代天皇の崩御年(筆者の見解による)

 

 すると、420年頃に完成したと思われる応神天皇陵の候補となりうる古墳はどれでしょうか。

 私は上石津ミサンザイ古墳を応神天皇陵と考えるのが適当ではないかと思います。

 上石津ミサンザイ古墳は墳丘長365メートルで、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)に次いで全国3番目の大きさです。宮内庁からは履中天皇の陵に治定されています。しかし、履中天皇は仁徳天皇の次の天皇です。5世紀半ば以降の天皇であり、この治定が間違っていることは考古学的に明らかです。ちなみに、履中天皇の御陵は以前の記事でニサンザイ古墳であろうと推定しました。

 

 墳丘長155メートルの乳岡古墳(ちのおかこふん)、同168メートルの大塚山古墳という先行する2つの古墳はありますが、上石津ミサンザイ古墳は百舌鳥古墳群で最初の巨大前方後円墳あるいは大王陵といってよいと思います。そして、政治拠点のあったと思われるヤマトからみると、位置的には古市古墳群よりもさらに海側に進出した形になります。

 『日本書紀』の応神天皇紀は、百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・高麗(こま)といった朝鮮半島の国々との濃密な交渉や、筑紫(つくし)・日向(ひむか)・吉備(きび)に関わる挿話で満ち満ちています。

 その応神天皇が、父である仲哀天皇よりもなお海沿いの地を選んで陵を築き、来朝者にその威容を誇ろうと考えられたとしても不思議ではないと思います。

 

●上石津ミサンザイ古墳:応神天皇陵(日本書紀の雄略天皇紀で「イチビコの丘」)

 

墳丘長365メートル/後円部の径約205メートル・高さ約28メートル/前方部の幅約235メートル・高さ約25メートル/3段築成で2重濠を持ち、くびれ部西側(後円部を上にして左側)に造り出しがある

(つづく)

 

 

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