百舌鳥・古市古墳群の被葬者を考える〈10〉同時代の大型前方後円墳に眠るのは誰? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 4世紀末から5世紀末(安閑天皇陵まで含めると6世紀前半)まで、巨大な歴代天皇陵の並ぶ百舌鳥・古市古墳群は、昨年7月の世界遺産登録で一気に注目を集めました。

 しかし、その時期、他の地域にも200メートルを超える大型の前方後円墳が築かれています。今回は、摂津・大和に築造された古墳の被葬者について考えていきたいと思います。

 

 まず、淀川流域、現在の茨木市にある太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)です。

 この古墳は6世紀の大王、継体天皇陵(けいたいてんのうりょう)に治定されています。しかし、築造年代が5世紀前半であることが判明しています。そして、現在では「真の継体天皇陵はほど近い高槻市にある今城塚古墳(いましろづかこふん)である」というのが定説になっています。

 ちなみに、今城塚古墳は昨年NIKKEIプラス1が行った「ロマンに興奮!!古墳巡り」ランキングで、百舌鳥・古市古墳群やさきたま古墳群をおさえてダントツで第1位に輝いた古墳です。

 

【今城塚古墳】

6世紀前半に築造された、真の継体天皇陵であることがほぼ確実な古墳です。

多彩な埴輪の並ぶ埴輪祭祀場(はにわさいしば)が再現されており、

美しくて楽しい古墳です。墳丘へも立ち入り可です。

 

 では、肝心の太田茶臼山古墳の被葬者は誰でしょうか。

 私は、稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)ではないかと思います。

 稚野毛二派皇子は応神天皇の皇子であり、その女(むすめ)の忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)は允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后となり、安康天皇(あんこうてんのう)や雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)を生まれます。

 

 ちなみに、継体天皇は応神天皇の五世孫とされますので、稚野毛二派皇子にとっては玄孫(げんそん)(やしゃご)になります。継体天皇を皇統から遠い人物とみて王朝交代説なども語られますが、忍坂大中姫命の存在や、現在社会でやしゃごがいる人もいることを考えると天皇位(大王位)を継いでもおかしくないように思います。

 

 太田茶臼山古墳は、市野山古墳(允恭天皇陵)と形状もサイズも類似しているといわれています。そのことからも、被葬者は允恭天皇の岳父でもある稚野毛二派皇子の可能性が高いのではないかと思います。

 

●太田茶臼山古墳:稚野毛二派皇子陵

現在、継体天皇の御陵に治定されています。

 

墳丘長226メートル/後円部の径約138メートル・高さ約19メートル/前方部の幅約147メートル・高さ約20メートル/3段築成で2重濠を持ち、くびれ部両側に造り出しがある

 

 

 次に、大和(奈良盆地内)の古墳についてみていきます。

 図表1の古墳で宮内庁から治定されている古墳もあります。

 

■図表1 古墳築造年と歴代天皇の崩御年(筆者の見解による)

 

 五社神古墳(ごさしこふん)は神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)、ヒシアゲ古墳は磐之媛命陵(いわのひめのみことりょう)、市庭古墳(いちにわこふん)は平城天皇陵(へいぜいてんのうりょう)に治定されています。

 コナベ古墳は陵墓参考地(被葬候補者:磐之媛命)、ウワナベ古墳も陵墓参考地(被葬候補者:八田皇女(やたのひめみこ))、新木山古墳(にきやまこふん)も陵墓参考地(被葬者候補:押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ))です。

 

 ここからは大した根拠もなく、古墳の年代観と「原日本紀年表」のすり合わせによる私の想像になります。そもそも倭の五王の比定で、菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)や隼別皇子(はやぶさわけのみこ)が出てきた時点で、疑問をもたれる方がいらっしゃるのは覚悟しています。

 

 まず、神功皇后陵に治定されている五社神古墳ですが、私は神功皇后が創作された人物だと考えています。ですから、仲哀天皇の皇后で神功皇后のモチーフとなった方がおられた可能性は認めつつ、倭王「讃」が菟道稚郎子皇子であったとすると、応神天皇の皇后(『日本書紀』では妃)で菟道稚郎子の母である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)だった可能性が高いと思います。

 宮主宅媛の父は和珥臣(わにのおみ)の祖である日触使主(ひふれのおみ)です。まさに、五社神古墳のある佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)は和珥氏の本拠地です。

 近江を本拠地とする息長氏(おきながうじ)の系列をひく気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)を父とし、葛城高額媛(かずらきたかぬかひめ)を母とする神功皇后(気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと))が佐紀盾列古墳群に葬られる可能性は低いと思います。

 古墳内部の調査ができないので不明ですが、もし被葬者が男性だとするならば、日触使主だった可能性もあると思います。その場合、宮主宅媛の陵は市庭古墳かコナベ古墳ということになります。

 

●五社神古墳:宮主宅媛(日本書紀で応神天皇の妃であり菟道稚郎子皇子の母)の陵もしくは日触使主の墓

神功皇后陵に治定され、「狭城盾列池上陵」となっています。

 

墳丘長275メートル/後円部の径約195メートル・高さ約23メートル/前方部の幅約155メートル・高さ約27メートル/後円部4段築成、前方部3段築成で、くびれ部西側(後円部を上にして左側)に造り出しがある。周濠については不明

 

 さて、次の謎は磐之媛命です。

 磐之媛命は葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女(むすめ)です。『日本書紀』では仁徳天皇の皇后とされ、山城の筒城宮(つつきのみや)で崩御されます。しかし、葛城や山城で葬られるわけではなく、和珥氏の本拠地である乃羅山(奈良山)に葬られるのです。そして、宮内庁による治定でも佐紀盾列古墳群のヒシアゲ古墳やコナベ古墳に想定されているわけです。本当に不思議です。

 

 これはまだ私自身も結論とは言い切れませんが、応神天皇と宮主宅媛の子である菟道稚郎子皇子が倭王「讃」として即位し、磐之媛を皇后としていたとしたら、すべてがすっきりと解決するのです。

 磐之媛が菟道稚郎子皇子の生誕地である奈良盆地北部(和珥氏の本拠地)に葬られても違和感はなくなります。菟道稚郎子皇子の宮があったとされるのが「宇治」というのも、磐之媛が宮を造ったとされるのが「山城」というのも、和珥氏の本拠地あるいは勢力圏内と考えれば納得できます。

 そして、宮主宅媛の妹で応神天皇の妃となり菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつめのひめみこ)を生んだ小ナベ媛(おなべひめ)、宮主宅媛と応神天皇の子で仁徳天皇の皇后となった八田皇女、その妹の雌鳥皇女(めとりのひめみこ)(隼別皇子〈倭王「珍」〉の妃〈皇后〉)の大きな墓もこの地に造られます。

 

 この時代の佐紀盾列古墳群の古墳を和珥氏出身の皇后たちの陵とみて、確かな根拠はありませんが、一応以下のように比定しておきます。市庭古墳は平城天皇陵に治定されていますが、その治世は9世紀初頭であり、築造推定時期は5世紀前半ですからまったく無関係なことがわかっています。

 

●コナベ古墳:小ナベ媛(日本書紀で宮主宅媛の妹)の陵

墳丘長204メートル/後円部の径約125メートル・高さ約20メートル/前方部の幅約129メートル・高さ約18メートル/3段築成で2重濠、くびれ部両側に造り出しがある

 

●市庭古墳:磐之媛陵(日本書紀で乃羅山(ならやま)に葬ったとされる)

※画像はありません。

墳丘長253メートル/後円部の径約147メートル/前方部の幅約164メートル/削平により詳細は不明

 

●ウワナベ古墳:雌鳥皇女陵(隼別皇子の妃。日本書紀では廬杵河のほとりに葬られたと記される)

墳丘長255メートル/後円部の径約130メートル・高さ約20メートル/前方部の幅約130メートル・高さ約20メートル/3段築成で2重濠、くびれ部西側(後円部を上にして左側)に造り出しがある

 

●ヒシアゲ古墳:八田皇女陵(日本書紀では仁徳天皇皇后)

現在、仁徳天皇の皇后の磐之媛の陵と治定されています。

しかし、同じ「仁徳天皇皇后」でも、八田皇女の陵だったのではないでしょうか。

 

墳丘長219メートル/後円部の径約124メートル・高さ約16メートル/前方部の幅約145メートル・高さ約14メートル/3段築成で2重濠、くびれ部東側(後円部を上にして右側)に造り出しがある

 

 佐紀盾列古墳群の古墳については比定してみましたが、奈良盆地の西側、馬見古墳群(うまみこふんぐん)の古墳についてはよくわかりませんでした。今後の課題としておきます。(つづく)

 

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