梯儁(ていしゅん)は邪馬台国への地図を作ったか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

 景初二年(238年)、公孫氏滅亡と同時に卑弥呼が魏に使いを送ります。難升米(漢字の読み不詳:仮に「なしめ」とします)を代表とする一行です。

 それに応える使節として、魏の皇帝から下賜される金印紫綬(きんいんしじゅ)や様々な物品を携えて、正始元年(240年)に建中校尉(けんちゅうこうい)という役職だった梯儁(ていしゅん)の一行が倭国にやってきます。

 そして、その時の来倭の報告書が、『三国志』「魏志倭人伝」の原史料になっていると考えられています。

 

 私はその報告書に倭国の地図、邪馬台国の都までの地図が添えられていたと考えています。

 これは、数年前に『季刊邪馬台国』の論文募集で賞をいただいたり、拙著『邪馬台国は熊本にあった!』の中でも論を展開しました。本ブログでも以前に「新説!卑弥呼の都への地図があった!?」などで公表しています。

 しかし、なかなかこの説は広まりそうにありません。

 私個人としては、地図の存在にかなり確信めいたものを持っていますので、何度でも訴えたいと思います。考えようによっては拙論の熊本説に悪影響があるかもしれないのですが、それでもあえて唱え続けたいと思っています。

 

 古代中国に「地図」があったのは明らかです。有名な馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)の3号漢墓から3幅の地図が出土していて、埋葬年は紀元前168年だと証明されています。中国では他にも地図は出土していますし、時代はくだって陳寿(ちんじゅ)が『三国志』を完成させる直前の270年頃には、裴秀(はいしゅう)が非常に精巧な地図「禹貢地域図(うこうちいきず)」を完成させています。この段階で「計里画方(いわゆる方眼を用いる図法)」の法が一応の完成をみたという見解もあります。こういうものは一朝一夕で成るものではありません。長い試行錯誤の期間があったはずです。つまり、梯儁が来倭した240年頃にはある程度の精度を保った地図を作成する技術が熟成されていたと思われるのです。

 

 古代において地図(および戸籍)は非常に大切なものです。

 降伏したり、柵封体制に入る場合には、地図(および戸籍)を提出していた記録もあります。その地域がどういう地形で、どこにどれほどの人が住んでいるかということは、統治する上で非常に重要な情報だからです。

 古くは、燕(えん)の荊軻(けいか)が秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとする際に、匕首(あいくち)を提出する地図の中に隠して近づいたと『史記』は記しています。紀元前227年のことです。

 『日本書紀』でも、神功皇后が新羅を攻めた時に、新羅王は地図と戸籍を差し出しています。こちらは300年代後半でしょう。

 

 卑弥呼を女王とする女王国は、238年に卑弥呼が親魏倭王の称号を拝した時点で魏の柵封体制に組み込まれたわけです。

 だから、最初に倭国に派遣される梯儁たちにはそのような情報収集が厳命されたはずです。当然、地図は最優先事項です。

 女王国に地図があれば、それを接収すればよいのですが、おそらく当時の倭国には地図を作る技術はなかったでしょう。

 すると、梯儁たち一行が踏査して地図を作るしかありません。九州島上陸後は、倭人からの情報と自らが高所に登り地形を確認する以外、正確な地図を作成することはできません。彼らはそうしたのだと思います。そうしながら、卑弥呼のいる邪馬台国まで行ったのだと思います。

 海上の距離はかなりいい加減だったでしょうが、陸上の距離はある程度正確に測れたと思います。

 記里鼓車(きりこしゃ)という車の回転数によって距離を測る車を引いて行かなくても、かなり原始的な方法でも距離は測れます。たとえば、現在のプロゴルファーのように正確に歩幅を刻める人がいれば平坦な道の距離は測れるでしょうし、1里(私見では70メートルとしています)の長さの紐を用意すれば、2人が両端を持って交互に歩みを進めれば1里ずつ測ることができます。これなら多少険しい山道でも計測できるでしょう。

 

 図表1は以前にも掲載した地図の例(一大国から末盧国経由で伊都国まで)です。私が何の根拠もなく作成したいい加減なものですが、この程度の地図はすぐに作成できたのではないでしょうか。海上からの目視と、末盧国上陸後にのろしを上げる施設のあった湊中野遺跡(みなとなかのいせき)(唐津湾入口の山上にあります)に登ったり、糸島平野へ向かって背振山地の峠越えを行って遠望すれば、だいたいの地理はわかると思います。

 

◆図表1 梯儁の地図の予想図(筆者の私見による)

※便宜上、上が南となっています。

 

 末盧国から伊都国への方角問題は従来からよく議論されています。末盧国を唐津市、伊都国を糸島市とすれば、現実の方角は東北東なのに、なぜ「魏志倭人伝」は東南へ陸行と書いているのかということです。

 

 しかし、梯儁の報告書に地図が添付されていたと考えると、この疑問は一気に氷解します。「末盧国から東南へ500里陸行すれば伊都国へ到着する」のは一目瞭然だからです。

 地図の余白に、「末盧国から東南へ100里ほど行くと川がある。それを渡って東へ山地に分け入ること250里。(例えばですが)巨岩の立つ分かれ道を左に折れて北へ峠越えをする。平地に降りて東へ向かうとすぐに伊都国に到着する」などと記されていれば、なお役立つ情報になります。次に同じ道をたどる郡使がいたとしても、迷うことなく伊都国へ到着できます。

 こういう内容こそが、皇帝に上奏する報告書に求められる「再現性」ではないでしょうか。

 

 私は最低限、梯儁の報告書にはこれぐらいの内容が求められていたと思うのです。

 そして、梯儁たちが作った地図は、女王国の都があり卑弥呼がいた邪馬台国まで描かれていたと考えます。

 だからこそ、「魏志倭人伝」本文の行程記述(それは梯儁の報告書を元に書かれたと思いますが)の方角は、途中での方向転換など一切記されない簡潔すぎるほど簡潔な記述となっているのです。

 

 また、そういう梯儁の詳細な報告書があったからこそ、陳寿は「魏志倭人伝」に帯方郡から邪馬台国への行程記述を入れたのだとも思います。

 そうでなければ、「韓伝」のように国名を列挙するにとどめる選択肢もあったと思うのです。韓伝は、「韓には馬韓、辰韓、弁韓の3つがあり、西部に位置する馬韓には爰襄国(えんじょうこく)・牟水国(ぼうすいこく)・(以下略)・・・50余国ある。弁韓・辰韓はそれぞれ12国からなり已柢国(いていこく)・不斯国(ふしこく)・(以下略)・・・24国である」と国名を列記するのみです。国々の詳細な位置関係については触れられていません。

 

 倭国についても不確定な情報しかなければ、「倭人の国である女王国は帯方郡の南東の大海の中にある。狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、斯馬国、已百支国・・・(中略)・・・烏奴国、奴国の30国がある」として、行程記述を省いても問題ないわけです。それをわざわざ記したということは、陳寿には明確な倭国の全体像がみえていた可能性が高いということです。梯儁の報告書および地図を目にしていなければ書けなかった記述だと思います。

 

 ただし、陳寿が報告書に添付されていた倭国の地図を傍らに置いて「魏志倭人伝」を撰述したかどうかには疑問が残ります。もしかすると、地図が収蔵された秘府で見たことがあるというだけで、持ち出しは禁止されていたのかもしれません。

 梯儁の報告書の本文だけで倭国の世界観を書き切ることはできません。地図で視覚的にしかわからない情報(途中で方向転換する、など)もありますから、文章だけで行程記述を完結させようとすれば補足の説明を追加する必要があります。それがなされていないということは、陳寿が地図を詳細にみることができなかったのか、それとも中国の中心から遠く離れた辺縁の地の倭国に対する興味が薄く、単純に本文のみを引用したのか、どちらかと判断できますが今となっては結論を出せません。

 

 梯儁が作成した倭国の地図自体はかなり大きなものだったと思います。馬王堆漢墓からの地図は約1メートル四方の大きさです。それが約24センチメートル×約12センチメートルに折り畳まれていました。32分の1のサイズに折られていました。

 だから、梯儁の地図も報告書の本文と一緒には綴られていなかったでしょう。地図の重要性を考えれば、裴秀の禹貢地域図がすぐに秘府に収められたように、梯儁の作成した倭国地図も報告書本文とは別に大切に保管された可能性があります。それが結果的に、陳寿の記述に大いなる影響を与えたとも考えられます。

 

 以上のように、240年に倭国に来た梯儁は倭国(女王国)の地図を作成し、復命報告書に添付した可能性が高いと考えます。

 そして、その地図を想定すれば、「魏志倭人伝」のいくつかの謎も解明できるのではないかと思っています。

 

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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