百舌鳥・古市古墳群の被葬者を考える〈11〉百舌鳥と古市の真実の系譜が見えた!? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 百舌鳥・古市古墳群に被葬された天皇について考えてきたシリーズも今回で最後です。

 最後に、仁徳天皇陵(大仙陵古墳(だいせんりょうこふん))に関する一つの仮説を提示したいと思います。ただし、確固とした根拠を示せるわけではないので、私の思いつき程度ということでご覧ください。

 

 私は百舌鳥・古市古墳群に葬られた天皇を図表1のように考えました。

 宮内庁の治定とは様々に異なりますが、最も特徴的なのは履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳を応神天皇陵としたことでしょうか。

 

■図表1 歴代天皇陵(筆者の見解による)

 

 

 さて、そこに記された天皇を諱(いみな)(本当のお名前)だったのではないかと考えられている和風諡号(わふうしごう)で表示したのが図表2です。

 

■図表2 和風諡号による歴代天皇陵(筆者の見解による)

 

 

 図表2をみると、とても興味深いことが浮かび上がります。

 名前に「別(わけ)」の付く天皇の陵が、すべて百舌鳥古墳群の方に集まっています。応神天皇(誉田別(ほむたわけ))、隼別〈倭王「珍」〉(はやぶさわけ)、履中天皇(去来穂別(いざほわけ))、反正天皇(瑞歯別(みずはわけ))という4天皇の御陵です。

 この「別」ですが、応神天皇(ホムタワケ)から新王朝になったとするいわゆる「ワケ王朝説」の根拠とされています。私は、王朝交代説を認めない立場ではありますが、皇族内での権力の移行などは当然あったと思っています。

 ですから、この百舌鳥古墳群の被葬者をみると、ここが応神天皇からはじまる一つの「別(わけ)」勢力の墓域であるようにもみえます。

 

 しかし、すると非常に違和感のある天皇の陵が百舌鳥古墳群内に存在します。 

 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)です。

 仁徳天皇は応神天皇の兄弟(私見)ですから、ここに築かれてもよいように思えます。しかし、応神天皇が早くから後継者と決め、皇太子としていたのは菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)です。そうであれば、百舌鳥古墳群には菟道稚郎子皇子の寿陵(じゅりょう)(生前に築造する墓)が準備されていたはずです。一方、『日本書紀』によれば菟道稚郎子皇子の補佐役を任じられた大鷦鷯皇子(おおさざきのみこ)(仁徳天皇)は、寿陵の築造を許されたとしてもこの場所(大王の墓域)ではなかったと思うのです。

 

 菟道稚郎子皇子ですが、これは想像の域を出ませんが、もともとは菟道別皇子(うじわけのみこ)という名前だった可能性もあるのではないかと思います。「郎子(いらつこ)」という特殊な呼び名(尊称?)を付けられた時に「別(わけ)」が「稚(わき)」に転じたのかもしれません。

 そう考えれば、大仙陵古墳はもともと菟道稚郎子皇子(菟道別皇子)の寿陵として築かれ始めたという仮説が立てられないでしょうか。

 

 では、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)の寿陵はどこに築かれたのでしょう。

 実はそれこそが「百舌鳥・古市古墳群の被葬者を考える〈8〉倭の五王「讃」と「珍」の陵は?」で菟道稚郎子皇子の御陵と考えた誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)なのではないでしょうか。

 誉田別皇子(ほむたわけのみこ)(後の応神天皇)、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)、大山守皇子(おおやまもりのみこ)、大鷦鷯皇子の4人がすべて仲哀天皇の皇子であったとすると、応神天皇が立太子あるいは即位された時点で、他の3人はそれぞれ許可された規格で寿陵を造り始めたと考えられます。

 

 応神天皇は父仲哀天皇の陵(津堂城山古墳(つどうしろやまこふん))のある古市古墳群よりさらに海側に位置する天皇(大王)の新たな墓域、百舌鳥古墳群に上石津ミサンザイ古墳を、額田大中彦皇子、大山守皇子、大鷦鷯皇子の3人は古市古墳群にそれぞれ仲津山古墳、墓山古墳、誉田御廟山古墳をです。

 そして、応神天皇、額田大中彦皇子、大山守皇子は崩御・薨去されてそれぞれの陵に葬られましたが、大鷦鷯皇子だけはとても長く生きられました。応神天皇を継いだ菟道稚郎子皇子(宇治天皇)を補佐しながらも、つねに天皇位が視野に入っていたと思います。

 その間も、大鷦鷯皇子の誉田御廟山古墳の築造は進んでいたでしょう。

 

 そう思いながら誉田御廟山古墳の全体像をみると、明らかな違和感があります。二ツ塚古墳の存在です。

 二ツ塚古墳は誉田御廟山古墳の墓域に大きく食い込んで存在しています。もうこれ以上誉田御廟山古墳を大きくすると、墳丘自体に二ツ塚古墳がくっついてしまうという限界にまで達しているようにみえます。そして、結果として誉田御廟山古墳の内濠や中堤はいびつな形になってしまっているのです(図表3)。

 

■図表3 誉田御廟山古墳

※広瀬和雄『検証!河内政権論』「共同統治されたヤマト政権」(堺市文化観光局文化部文化財課2017)より転載

 

 

 事前に古墳の存在する地に新たに古墳を築造する場合、古い古墳を壊してしまうことはあったようですが、二ツ塚古墳は何らかの理由で壊されずに残っています。

 しかし、二ツ塚古墳を残すことが当初から決まっていたとすれば、このような古墳の築造企画はなされなかったのではないかと思うのです。

 つまり、誉田御廟山古墳が元々大鷦鷯皇子(仁徳天皇)の寿陵として規格を与えられ設計されたとしたら、本来はもっと小さな墓域が想定されていたのではないでしょうか。それが、大鷦鷯皇子の長命と野心により次第に拡大されていったのではないでしょうか。

 ですが、拡大された墓域にはどうしても破壊することのできない重要な人物の眠る二ツ塚古墳(それが誰かは謎です)があり、結果として現在のような形になってしまったようにみえるのです。

 当初の企画では図表4のようなサイズだったのではないでしょうか。

 

■図表4 誉田御廟山古墳の当初の企画(案)

※前述『検証!河内政権論』の図を改変

 

 

 図表4は後円部の中心を基点に縮小してみたものです。

 このサイズであれば、外濠(青のライン)を設けたとしても二ツ塚古墳の影響をほとんど受けません。

 誉田御廟山古墳が、当初大鷦鷯皇子の寿陵として、額田大中彦皇子や大山守皇子の寿陵と同時に築造され始めたときは、このような完成予想図だったのではないでしょうか。このサイズで墳丘長を測れば230〜240メートルぐらいになります。額田大中彦皇子の陵と比定した仲津山古墳の290メートル、大山守皇子の陵と比定した墓山古墳の225メートルと似通った大きさになるのです。

 

 しかし、伯父(あるいは叔父)の大鷦鷯皇子より先に倭王「讃」であった菟道稚郎子皇子が崩御されてしまいます。

 どのような経緯があったは闇の中ですが、その後、「珍」隼別皇子を攻め殺して天皇となる仁徳天皇は、自身で築造して極限まで大きくしながら墳形としては「失敗作」となってしまった誉田御廟山古墳を菟道稚郎子皇子の陵とし、本来「讃」菟道稚郎子皇子の陵として百舌鳥古墳群に築造されていた最大の前方後円墳である大仙陵古墳を自身の陵として簒奪してしまったのではないかと思います。

 

 それを考慮して、古墳群の本来の被葬者を推定すると図表5のようになります。

 

■図表5 和風諡号による本来の歴代天皇陵(筆者の見解による)

 

 

 すると、河内の巨大古墳群の創始者ともいえる仲哀天皇の御陵は古市古墳群に築かれますが、その皇子たちのうち応神天皇系の「別(わけ)」と名のつく天皇は百舌鳥古墳群に、それ以外の仁徳天皇系と呼べる天皇は古市古墳群に葬られたようにみえます。

 妄想を広げると、仁徳天皇の皇子とされる去来穂別皇子(履中天皇)・瑞歯別皇子(反正天皇)・雄朝津間稚子宿禰皇子(允恭天皇)の3名のうち、本当に仁徳天皇の子であったのは允恭天皇だけなのではないか、などという考えが浮かびます。では、履中天皇と反正天皇は誰の皇子?となりますが、これについてはまた色々と考えていきたいと思います。

 

 長期にわたりましたが、以上が私の考えた百舌鳥・古市古墳群の被葬者に関する結論です。(完)

 

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