「魏志倭人伝」が記す習俗・産物は邪馬台国のものなのか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 「魏志倭人伝」は、帯方郡から邪馬台国までの行程記述やその他の旁国、そして女王卑弥呼を戴かない狗奴国について述べた後、習俗や産物についてかなり丁寧に書き記しています。それらについてみていきたいと思います。ただし、それらを個別具体的にみていくのではなく、その対象となった地域について考えます。

 

 「魏志倭人伝」文中では、明らかに「広義の女王国」と「狭義の女王国」の二種類が併用されています(詳細は、〈「邪馬台国」と「女王国」は同じ国?〉をご参照ください)。

 今回の考察ではこの用語が大事ですので、最初に次のように定義しておきます。

 

(1)卑弥呼を女王として共立した30カ国の連合体を「女王国」とする

(2)女王国の都が置かれた国(卑弥呼の出身国か?)を「邪馬台国」とする

 

 つまり、邪馬台国は女王国を構成する国の一つであると定義して話を進めます。

 

 繰り返しになりますが、「魏志倭人伝」は倭人・倭地の習俗や産物をこと細かに記述しています。主だったところを略記すると次のようなことが語られています。

 

・水人(漁民)は身体に入墨をして水に潜り魚介類を採っている

・風俗は淫らでない

・牛馬はいない

・養蚕をしていた(絹があった)

・鉄鏃(鉄のやじり)を用いている

・中国で粉(おしろい)を塗るように身体に朱丹を塗っている

・冢(墓)には棺はあるが槨(棺を置く空間・部屋)はない

・山には丹がある

・骨を焼いて吉凶を占っている

・大人と下戸がいる(尊卑の差がある)

・租賦を収していて邸閣がある

.国々に市がある

 

 では、これらの習俗や産物はどの国のことを書いているのでしょうか。

 私は、というか普通に考えると、これは女王国内のことだと考えてよいでしょう。「魏志倭人伝」はこれらが邪馬台国のものであるとは一言も書いていません。

 これらは、240年に来倭した魏(ぎ)の使いの梯儁(ていしゅん)やその後に来倭した張政(ちょうせい)らが女王国内を巡り歩いて、足で集めた情報を報告書にまとめたものだと考えるのが妥当だと思われます。

 

 そう考えると、これは非常に大事なことなのですが、「魏志倭人伝」に記された習俗や産物は、「必ずしも邪馬台国のものでなくてもよいということになるのです。

 水人が入墨をして魚介類を採取しているのは、例えば、末盧国(まつらこく)の唐津湾沿岸地域や投馬国(とうまこく)の有明海沿岸地域でもよいのです(比定地は私見による)

 絹製品を産していたのが奴国(なこく)でもよいですし、卜骨(ぼっこつ)を行っていたのが一大国(いちだいこく)(現在の壱岐島)でもよいのです。

 そして、女王国内の他の国々ではそういうことを行っていなくてもよいわけです.

 

絹が出土したからといって、そこが邪馬台国であるとは、

必ずしも「魏志倭人伝」は記していないのです。

 

 女王国は、郡使が来倭する数十年前に倭国の乱を収束させるために卑弥呼を共立して誕生した連合国家とみることができます。それ以前から、それぞれの国々は独自の習俗なり産物を有していたはずです。形式上、女王(国)の元に集結したからといって、いきなり女王国内全域に均一化された習俗や産物が浸透するはずはありません。現代のように交通網や情報網が発達していない2世紀末~3世紀ならなおさらです。女王国内に地域差があってもおかしくないですし、逆にあって当然だと思います。

 

 以上のように考えると、必ずしも邪馬台国から絹製品や焼かれた動物の骨が出土しなければならないという論理は成り立ちません。

 熊本平野を邪馬台国、福岡平野を奴国と仮定してみます。

 「魏志倭人伝」の記す絹製品が福岡平野からのみ大量に出土したからといって、福岡平野が必ずしも邪馬台国ではなく奴国であってもよいですし、その事実から熊本平野に邪馬台国がなかったともいえないのです。

 

 今回の話は、邪馬台国畿内説に利する部分もあります。

 (私はそんなことはなかったと思いますが)邪馬台国が奈良盆地にあり、そこから西方、九州までが女王国域となっていたとすれば、巷間いわれるように「奈良盆地から(「魏志倭人伝」が記す)鉄鏃が出土しない」からといって奈良盆地に邪馬台国がなかったとはいえなくなるわけです。

 

 最後に、上記の話とは矛盾するかもしれませんが、邪馬台国熊本説の立場から一言。

 出土する鉄鏃の数では、熊本県の方が福岡県より多いというデータもあります(現在の県域で比較するのもなんですが・・・)。また、阿蘇からはベンガラが非常に多く産出し、それは伊都国の方にまで流通していました(身体に塗るなどふんだんに用いていたと思われる朱丹は、貴重な水銀朱ではなくベンガラの可能性が高いのではないかと思っています)。絹などの一部産物が熊本から出土しない(この真偽は未確認です)からといって、邪馬台国熊本説の可能性が低くなることはまったくないのです。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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