『原日本紀』仮説〈3〉『日本書紀』はどのように編纂されたのか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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 『日本書紀』には完成一段階前の中間文書的な『原日本紀(げんにほんぎ)』が作成されたのではないかという仮説について、今回は視点を変えて『日本書紀』編纂過程から考えてみます。

 

 『日本書紀』の編纂は、天武天皇(てんむてんのう)の治世10年(681年)に始まったとされます。天皇はその年の3月、川島皇子(かわしまのみこ)ら12人に詔(みことのり)して、帝紀(ていき)および上古の諸事を記し定めるように命じられたのです。

 その後、持統天皇(じとうてんのう)5年(691年)8月に、「18の氏族に詔して、その祖先らの墓記を上進させた」という記事がみられます。「墓記」は、どのような先祖がいて、どんなことを行ったか、いつ亡くなったかなどをまとめたものだと推測されていて、『日本書紀』編纂の資料にしたのだと考えられています。

 

 ただ、編纂過程に関する詳細な記事などはなく、編纂開始から時代がくだっていきなり完成した記事があらわれます。

 『日本書紀』の次の正史である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の養老4年(720年)5月条の「以前から舎人親王(とねりしんのう)が天皇の命をうけて『日本紀(にほんぎ)』を編纂していたが、この度完成して紀30巻と系図1巻を撰上した」というものです。

 実に40年近い月日が経っています。図表1のように4代後の天皇の治世に完成したということになります。

 

■図表1 『日本書紀』の勅命から完成まで

 

 

 その間には、701年に大宝律令が完成したり、712年に『古事記』が完成したりします。713年には『風土記』編纂の詔勅が出され、715年頃には「播磨国風土記も完成したのではないかと考えられています。

 

 ここで再確認しておきたいのですが、『日本書紀』は日本最初の正史です。これにより、中国、当時の唐に対して日本国の悠久の歴史や皇統の正統性を宣言することはもちろん、国内の氏族たちに対しても「これまでの日本の歴史を確定させる」目的があったと思います。

 

 当然、編纂者たちに対しては当時の権力者や有力氏族からさまざまな圧力がかかったと思われます。

 特にこの時期は持統天皇、元明天皇(げんめいてんのう)、元正天皇(げんしょうてんのう)という女性天皇が立て続けに即位されます。直接的な原因としては、例えば持統天皇に関しては草壁皇子(くさかべのみこ)の早世などもあったと思われます。しかし、壬申(じんしん)の乱(672年)を経た後の入り乱れた系図をみれば、さまざまな思惑が渦巻いていただろうことは容易に想像できます(図表2)。

 

■図表2 『日本書紀』編纂時期の系図(数字は天皇の代数)

 

 最初に編纂に携わった川島皇子は10年後の691年に薨去されています。持統天皇による墓記上進と時期を同じくしているのは単なる偶然でしょうか。

 その後、具体的に誰がどのように編纂に携わったかは不明ですが、おそらく天皇の代が替わる毎に政権内部の権力構造も変わり、内容が見直され改訂を重ねたのではないでしょうか。

 

 図表2の系図には、『日本書紀』の黒幕としてよく名のあがる藤原不比等(ふじわらのふひと)も文武天皇(もんむてんのう)や聖武天皇(しょうむてんのう)の岳父として名を連ねています。確かに自身の意向を反映させた可能性はあると思います。また奇妙なことに、藤原不比等は『日本書紀』撰上直後の8月に死去しています。撰上時期に影響を及ぼした可能性なども想起させます。

 このように、『日本書紀』は40年もの期間、おそらく複雑な編纂および改訂を経て成立したものだと思われます。

 

 では、具体的な編纂作業はどのように行われたのでしょうか。

 編纂の詔を受けて、まず全国から資料を集めることからはじまったと考えられます。

 その中心となるのは帝紀(ていき)(天皇の系譜や事績をまとめたものといわれている)や旧辞(きゅうじ)(伝説や神話などをまとめたものといわれている)です。帝紀や旧辞は多くの氏族ごとに伝わっていましたが、各氏族の都合の良いように改変されていたのではないかとも考えられています。

 他に、各氏族固有の記録や伝承、寺社の縁起、上述の墓記などが集められたと思われます。またそれにプラスして、中国や朝鮮半島から入っていた史書類なども資料になっているのがわかっています。

 

 おそらく非常に多くの文献や記録が集まったと思われます。しかし、それらの記述に一貫性があったとは思われません。

 内容はもちろん年代観もバラバラだったのではないでしょうか。『古事記』の序文を信じれば、帝紀や旧辞、本辞(旧辞と同様の氏族に伝わる書?)は、『日本書紀』編纂時には各氏族間で内容が異なり、明らかな虚偽記載もあったようです。

 

 また、古い時代の記録には干支のように決まった年代の目印はなかったと思われます(私見では干支による記録が定着するのは5世紀の半ば以降ぐらいではないかと思っています)。だから、同じ事柄についても、文献や記録ごとにかなりのズレがみられたのではないかと思います。

 

 そう考えると、それら大量で多様な資料からいきなり現在私たちが目にする『日本書紀』を編纂することなどできたでしょうか。私はできなかったと考えます。

 『日本書紀』は紀元前660年の神武天皇即位から、粛々と時代をくだって人物や出来事が流れていく編年体の書物です。前記事でみた神武天皇即位から允恭天皇崩御まででも1,113年あります。なおかつ、紀元前660年というのはまったくの創作です。

 その1,113年分の年表に、19代分の天皇の治世や多くの登場人物、大量の出来事を配置していかなければならないのです。それも整合性を考慮して組み上げなくてはなりません。いきなり完成形を作るのはまず不可能だっただろうと思います。

 

 では、どのように編纂していったのか?

 そこで考えられるのが、中間的文書の存在です。大量で雑多な資料から、いったん編纂者および当時の権力者が描き上げたい歴史観にそった一本のストーリーを作り上げます。

 そして、次の段階として紀年延長操作を行い、紀元前660年にまでさかのぼる『日本書紀』を完成させていったのだと考えます。

 私はこの中間的な文書を『原日本紀』と名付けましたが、この『原日本紀』は必ず作成されていたと信じています。(つづく) 

 

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