「魏志倭人伝」解読の重要ワード3選! | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 『三国志』「魏志倭人伝」の描く倭地の世界観を読み解くには、3つの重要なワードがあります。ただし、これは私の主観的な判断ですので、当然異論もあると思います。

 本ブログをはじめて約3年、邪馬台国熊本説にたどり着いた考証経緯をいろいろと述べてきました。その内容ともダブりますが、今回はその3つのワードをまとめておきたいと思います。

 

重要ワード1【道里(どうり)

 

 『三国志』撰者の陳寿(ちんじゅ)は、帯方郡から狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国を経由して邪馬台国にたどり着く行程を記述した直後に、次のように述べます。

 

自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳

(訳)「女王国(=邪馬台国)より北(の国々)については、戸数・道里を略載できたが、その他の旁国(ぼうこく)は遠絶なので、詳細はわからない」

 

 この「道里」という言葉は一般的に用いられる言葉ではありませんが、『三国志』撰述(280年代)の直前に、裴秀(はいしゅう)という人が『禹貢地域図(うこうちいきず)』という精巧な地図の序文で明確に定義しています。この地図は、陳寿が『三国志』撰述に際して参考にしたのではないかと考えられるので、『三国志』内で「道里」という言葉を用いる際には同じ定義のもとで用いられたはずです。

 

 裴秀は、『禹貢地域図』の序文で正確な地図を作成するための6要素(制図六体(せいずろくたい))について述べています。そのひとつが「道里」です。そこでは、明確に「道里は、人の歩いた(進んだ)道のりの距離のことであり、里数で表されるものである」というように、他の5要素と関連づけて定義されているのです。

 正確な地図を作るためには、A地点からB地点まで何里という具体的・絶対的な里数が必須です。A地点からB地点まで何日などという日数では正確な地図は作成できません。だから、「日数」は決して「道里」ではあり得ないのです。

 

 そうすると、「魏志倭人伝」の記す不彌国から投馬国への「水行二十日」、投馬国から邪馬台国への「水行十日陸行一月」は一体何なのでしょうか。そして、この「道里」ではない日数を記した直後に、「道里を略載することができた」と明言している文脈的な矛盾はどうして生じたのでしょうか。

 「魏志倭人伝」の行程を解明するためには、この問題を解決しなければならないのです。

 

(【道里】に関する詳細はこちらの記事をご覧ください)

魏志倭人伝のいう「道里」とは何か?

日数は「道里」ではない!〈1〉陳寿『三国志』と裴秀『禹貢地域図』

日数は「道里」ではない!〈2〉裴秀による「道里」の定義

 

 

重要ワード2【会稽東治(かいけいとうち)

 

 「魏志倭人伝」は、邪馬台国が中国からみてどの辺りにあるのかを、次のように記しています。

 

計其道里当在会稽東治之東

(訳)「その(邪馬台国までの)道里を計ると、まさに会稽東治(かいけいとうち)の東にある」

 

 ここでいう会稽は、直前の文章に書かれている夏の皇帝少康(しょうこう)の子が封ぜられた会稽のことで間違いないと思われます。その会稽の東の治所が「会稽東治」で、その東に邪馬台国があるといっているのです。現在の江蘇省蘇州市辺りと思われる(*)ので、現代の地図を東にたどると鹿児島県鹿屋市付近の緯度になります。それが、陳寿『三国志』の認識でした。

(*)石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝 他三篇』(岩波文庫)の「会稽」の注釈より。ただし、氏は「東治」については「東冶」の誤りとされています

 

 しかし、『三国志』の約150年後に完成した范曄(はんよう)『後漢書(ごかんじょ)』になると、それが次のように変わります。

 

其地大較在会稽東之東

(訳)「その地(邪馬台国)はだいたい会稽東(かいけいとうや)の東にある」

 

 「会稽東冶」は会稽郡東冶県(かいけいぐんとうやけん)のことであり、現在の福建省福州市辺りになります。地図を東にたどると、沖縄県那覇市付近に着きます(図表1)。

 

◆図表1 「会稽東治」と「会稽東冶」

 

 

 サンズイとニスイ、字面では点1つの違いですが、「会稽東治」と「会稽東冶」では南北で約580キロメートルも離れています。「会稽東治」を紹興市辺りとみても500キロメートルほどあります。

 

 この差異については、誤記の可能性も考えましたが、それもありえないことがわかりました。

 両者に明らかな認識の違いがみられるからです。

 「魏志倭人伝」は続く文章の中で、倭の習俗や動植物の有無、産物などを紹介し、「それらの有無は儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同様である」と結びます。「儋耳・朱崖」は南シナ海の海南島付近と考えられますが、地域的に「邪馬台国がその地に近い」などとは一言もいっていません。あくまでも、同様なのは習俗や物産の有無だと述べているのです。万一、陳寿が邪馬台国と儋耳朱崖が近いと考えていたら「計其道里当在会稽東治之東」という一文は、現在の位置ではなく儋耳朱崖について述べた部分に入るべきものです

 

 しかし、『後漢書』は、先の「其地大較在会稽東冶之東」に続けて、次のように述べます。

 

与朱崖儋耳相近故其法俗多同

(訳)「(その地は)朱崖・儋耳に近く、そのため法や習俗の多くは同じである」

 

 『後漢書』は、邪馬台国の位置が「朱崖・儋耳に近い」と明言しています。だから、『後漢書』の認識は、明らかに会稽郡東冶県を意識しているとみて間違いないでしょう。倭人条の最後に「東鯷人(とうていじん)」の段を追加していることもそれを裏付けています。東鯷人は会稽郡の海の外にいたとされる人々で、その説話には会稽東冶県の人も登場しています。

 

 この両者の違いはなぜ発生したのでしょうか。

 『後漢書』に信ぴょう性を認める方も多いことは承知していますが、私はやはり『後漢書』が『三国志』を底本としながら、要約しなおす際に誤認したものと考えています。

 『三国志』には少なくとも5か所で「東冶」という言葉が使われています。それらはすべて南方での出来事に関するものであり、文脈上「会稽東冶」で間違いない箇所です。それらが、誤認を招いたのではないかと思います。

 つまり、陳寿が1か所だけ正確に記した「会稽東治」を、范曄(もしくは担当編纂者)が正しく理解できず、当時より一般的に認知されていた「東冶」「会稽東冶」と混同してしまったと考えるのです。

 狗奴国(『後漢書』では拘奴国)、侏儒国(『後漢書』では朱儒国)、裸国、黒歯国の存在場所についても、『後漢書』は『三国志』の記述を正しく読み取っておらず、ことごとく位置がずれているのもその根拠となるのではないでしょうか。

 

(【会稽東治】に関する詳細はこちらの記事をご覧ください)

邪馬台国があるのは「会稽東治」の東?「会稽東冶」の東?

「魏志倭人伝」後世改ざん説を時系列で検証する!〈3〉

 

 

重要ワード3【周旋(しゅうせん)

 

 「魏志倭人伝」は、倭の習俗、気候、産物、統治体制、卑弥呼を共立して女王国が誕生する経緯など倭の地誌全般について述べた最後に、次のようにまとめています。この一文の後には、倭と魏の交渉史が語られます。

 

倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里

(訳)「倭の地は遠く離れた海の中の洲島の上に(国々が)あり、あるいは海に隔てられ、あるいは陸続きで、周旋5000余里ばかりである」

 

 この「周旋」については、ほとんどの市販書籍で「一周すると5000余里ばかりである」と訳されてきました。つまり、倭の地をぐるっと囲むとその一周が5000余里ほどある、という読み方です。

 そうすると、倭地を任意の地域に設定することが可能になります。様々な解釈例では、(A)九州の一部任意の地域を設定する、(B)九州島全体を囲む、(C)1里435メートルのいわゆる長里で九州から近畿地方までを囲む、などがあります。

 しかし、「魏志倭人伝」を普通に読むと、最初の倭地である狗邪韓国(朝鮮半島南部)から海を渡って末盧国(唐津市)まで3000里です。往復するだけで6000里が必要です。倭地を5000里でぐるっと囲むことなど最初から無理なのです。

 

 この「周旋」は、『三国志』の中で上記以外に22か所で用いられています。しかし、「ぐるっと一周する」という意味で用いられている部分は一か所もありません。ほとんどは、「めぐり歩く」「転々とする」というような意味で用いられています。つまり、A地点からB地点までの曲がりくねった線のイメージです。

 そして、それは最初の倭地である狗邪韓国から、最終目的地である邪馬台国までの道のりを表しているのです。それが、5000余里の距離だったといっているのです。

 

 「魏志倭人伝」は、倭の国々に関する記事の最後で、帯方郡から邪馬台国までの総距離を12000余里だと明言しています。そして、行程記述では帯方郡から狗邪韓国まで7000余里だとも明記しています。この周旋5000余里を狗邪韓国から邪馬台国までの距離と考えれば、その記述ともぴったり整合します。

 「周旋」をこのように正しく読むと、邪馬台国の位置は「狗邪韓国を基点として、帯方郡から狗邪韓国までの距離の7分の5を進んだところにある」ことになります。図示すると、図表2のようになります。つまり、到底畿内には届かないという結論になるのです。

 

(詳細はこちらの記事をご覧ください)

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉〈2〉〈3〉

改めて「周旋可五千余里」の解釈について:邪馬台国畿内説批判

 

◆図表2 邪馬台国があった「周旋5000余里ばかり」の範囲

 

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