仁徳天皇紀「民のかまど」に残る紀年延長の痕跡 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

本日6月14日に開催予定だった「第6回もずふる古墳マラソンin大仙公園」は、

新型コロナウイスルの影響で来年に順延となりました。

私としては久しぶりの「ほぼ」ハーフマラソン(20キロメートル)で、

かつ日本最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)の近くを走れるということで

楽しみにしていましたが残念です。

来年こそはみなさんの笑顔いっぱいに開催されることを願っています。

 

 

 そこで、今回は『日本書紀』の仁徳天皇紀に、編纂者たちが無事績年(むじせきねん)を加えて紀年延長していった痕跡が残っているという話をしたいと思います。

*「無事績年」というのは何も記事の書かれていない年のことです。例えば、仁徳天皇の場合、治世97年のうち29年分の記事しか書かれていませんから、68年分の無事績年があるということになります。私は、『日本書紀』完成の一段階前に『原日本紀(げんにほんぎ)』という無事績年のない文書が作成されていて、それに無事績年を挿入して紀年延長したものが『日本書紀』になったと考えています。

 

 その痕跡が残るのは、かの有名な「民のかまど」といわれる物語の中です。

 仁徳天皇は、高殿(たかどの)から国を見渡された時に民家から煙が立ちのぼっていないことに気がつき、「民は炊飯もできないほど困窮しているのか」と以後3年間の課役を免除されます。

 これは、仁徳天皇が聖帝であることを象徴する挿話として語られています。

 

 まず、仁徳天皇紀に書かれている内容を年表にしてみます(図表1)。

 

■図表1 「民のかまど」の記述

 

 仁徳天皇は治世4年の2月に百姓(おおみたから)(人民のこと)の窮状を知り、3月に以後3年にわたって課役(えつき)(物品を納める税と労力による奉仕)を免除することを決められます。

 その免除は治世10年まで続き、10年の10月にやっと課役を命じられ、宮室(おおみや)を造られます。

  途中、宣言から3年後の治世7年に、富んで豊かになった諸国から課役の申し出がありましたが、それでも天皇は課役の免除を続けられました。

 結局、課役の免除期間は6年半(実質7年)へと大きく延びたことになります。

 

 この課役の免除は、仁徳天皇が聖帝であることの根拠とされるものですが、文脈のはっきりしない奇妙な展開となっています。

 3年間の免除を宣言して、3年後にまだ百姓が困窮しているので免除期間を延長するというのなら理解できます。

 しかし、そうではありません。治世4年3月21日の記事の後日談では、その後五穀豊穣が続き3年間で百姓は豊かになり、かまどの煙も立ち上るようになったと記しています。7年4月1日の記事でも、「百姓が富んできて自分も富んできた。もう心配ない」とまでいわれています。それなのに、9月の諸国の申し出を断られるのです。

 こういう展開だと、この免除延長が美談をより一層美談に仕立て上げているとも思えません。「百姓が窮乏しているのをみて、3年間の課役免除を決断し、3年のうちに百姓が富んで豊かになったので、それを見極めて課役をかした」というので十分に美談が成立します。

 さらに不思議なことに、治世7年の4月の記事と9月の記事の間に、8月9日の記事があり、「大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ)(後の履中天皇)のために壬生部(みぶべ)を定め、皇后のために葛城部(かずらきべ)を定められた」とあります。この「部(べ)」は皇子や皇后に奉仕するために設けられた民の集団で、経済的な基盤となるものです。当然、物産品など貢物を献じます。

 それを、課役免除の延長をされる前月に設置されるというのは、いかにも不自然です。

 

 私は、これらは『日本書紀』の紀年延長操作を行う際に、無事績年を挿入することによって生じた矛盾なのではないかと思います。

 図表1で無事績年(5年、6年、8年、9年)を削除して、4年を便宜上「当年」とすると、7年は「翌年」、10年は「翌々年」となります。

 まず、当年の3月に3年間の課役免除を決められます。かまどの煙をみて決められたことですから、穀物の税が大前提になります。後日談で「3年の間」に百姓が豊かになったという記事には「三稔(みとせ)之間」という文字が用いられています。穀物が三回稔る間という意味です。

 すると、「当年」秋の納税免除が1回目、「翌年」秋の免除が2回目、「翌々年」秋の免除が3回目ということになります。

 つまり、翌々年=10年秋に宣言通り3回目の免除を行い、その約束を果たした冬10月に労役(使役)を命じて宮室を造営したということになるのです。

 ぴたりと辻つまが合ってきます。

 紀年延長が行われる前の『原日本紀』段階ではそういう流れになっていたのだと思います。

 すると、翌年=7年9月の記事ですが(この記事は後で追加された可能性も否定しませんが)、天皇の宣言から2年目に諸国が「もう豊かになってきたので税を納めましょうか」と申し出てきたのに対して、天皇が「約束通り3年間免除する」と答えたということになります。自身の宮殿はひどい有様なのに民を大事に思って約束を守る。これこそ美談であり、聖帝にふさわしいと思います。

 

 このように、「民のかまど」の物語には、紀年延長の痕跡が残されています。無事績年を削除すると話に辻つまが合ってくるのです。元々の仁徳天皇紀に無事績年がなかった証拠だといってよいと思います。

 

 ただし、付け加えておきますと、私はこの治世は仁徳天皇の治世ではなく、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)(『播磨風土記』にみえる宇治天皇)の治世だと思っています。菟道稚郎子皇子は応神天皇の皇子であり、早くから皇太子として将来の天皇を約束されていた人物です。応神天皇は当時の最も優れた学者であった王仁(わに)らを百済(くだら)から招へいし、菟道稚郎子皇子の師として様々な典籍を学ばせています。菟道稚郎子皇子こそ、聖帝となるにふさわしい素養を身につけていた人物だと思われます。『日本書紀』では仁徳天皇に天皇位を譲るために自殺されたことになっていますが、応神天皇崩御後すみやかに即位されたと考えています。

 

 

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