少し前に、〔「魏志倭人伝」を全文現代語訳してみる〈1〉帯方郡から伊都国まで〕を書いた時に、帯方郡(たいほうぐん)から狗邪韓国(くやかんこく)への行程は観念的なものではないか、という考えを述べました。それについて、もう少し踏み込んだ考察をしてみたいと思います。
対象となる「魏志倭人伝」の記述は、図表1の黄色い網かけ部分です。
◆図表1 帯方郡から狗邪韓国への行程記事
一般的な訳では次のようになります。
(訳)郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。
(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝ほか三冊』岩波文庫より引用)
この記事の解釈をめぐっては、行程について従来から様々な論争が行われてきました。主なものは二つです。
一つは、海岸沿いに出発し、朝鮮半島の西岸を南下し、南岸を東行したとする「海岸水行説」。
もう一つは、最初は海岸沿いに出発するが、すぐに上陸して韓国内を陸行していったとする「韓国内陸行説」です。これと関連して、韓国内の河川を利用していったと考える「内陸水行説」もあります。
海岸を行ったのか、内陸部を行ったのか、このどちらが正解なのかということですが、この文章からでは判断しようがないというのが正直なところです。
それより、私はもっと根本的な部分で、この論争自体に意味があるのかと疑問に思うようになりました。
「魏志倭人伝」のこの文章ですが、原史料となったのは、帯方郡から来倭した郡使たちが、帯方郡に戻った後に提出した復命報告書だと考えられています。具体的には、240年にやってきた梯儁(ていしゅん)の一行が想起されます。
そうであれば、まず「韓国内陸行説」は消えると思います。梯儁一行は魏の皇帝から倭の女王卑弥呼へ贈られる金印や多くの下賜品を携えています。それを、のべ500キロメートルほどにもなる韓国内の険しく様々な危険の潜む道を、非常な長期間をかけて運んだとは思われません。
では、「海岸水行説」が正解でしょうか。私は基本的に船で海をいったと考えていますが、必ずしも海岸にそって進んだ訳でもないと思っています。朝鮮半島沿岸は航行が危険なところが多いといわれています。そういうところを避けて、一番安全な航路を選択したと思います。当時、どんな船が用いられていたのかとか、船上で夜を越すようなことがあったのかとか、知見がないので詳細な航路を判断できませんが、梯儁一行が船で海上を移動したのは間違いないと思われます。
そして、ここからが本論なのですが、梯儁一行は狗邪韓国に立ち寄らず直接対馬へ渡ったのではないかと思うのです。手前の停泊地からか、あるいは済州島経由でとかです。
対馬海流は西から東へ流れていますから、狗邪韓国から対馬国へ渡るより効率的で確実、かつ安全だからです。
しかしそうであったなら、郡使たちの報告書には狗邪韓国のことが書かれていなかったということになります。
一方で、当時の帯方郡では朝鮮半島の南岸に倭人の国である狗邪韓国があるというのは周知の事実になっていたと思われます。魏志倭人伝の前段には韓国のことについて書かれた「韓伝」というものがあります。そこに、次のような一文があります。
韓在帯方之南 東西以海為限 南与倭接 方可四千里
(訳)韓国は帯方郡の南にあり、東西は海に面していて、南は倭と接している。方は4000里ほどである。
海によって限られる(海によって領域が途切れる=海に面している)のは、「東と西」であって、「南」は倭の領域と境を接していると明言しています。つまり、朝鮮半島の南部(南岸)に倭人の領域があったのは間違いないのです。もし、南岸まですべて韓国の領域であったなら、東西と「南」は海によって限られていると書かれたはずです。
そして、もう一つ、「魏志倭人伝」の冒頭の一文があります(図表1参照)。
「倭人在帯方東南大海之中(倭人は帯方郡の東南の大海の中にいる)」と記しています。
これらをまとめると、次のようになります。
(1)倭人の国々は帯方郡からみて東南の大海の中にある
(2)帯方郡の南には、方4000里ほどの韓国があり、その南に接して、倭の最北の国である狗邪韓国がある
(3)梯儁一行は安全な海路で対馬国を目指した
(4)梯儁一行は狗邪韓国には寄港していない
それを図にしてみます(図表2)。
◆図表2 倭国への地理イメージ(※梯儁の航路は〈仮〉です)
さて、こういう情報を元に、陳寿が『三国志』「魏志倭人伝」をまとめるわけです。倭人の国々について記そうとすると、どの国から書き始めるでしょうか。答えは明白、帯方郡に一番近い国、狗邪韓国からであり、それは倭の領域の最も北にある国です。
「倭人伝」という以上、梯儁たちの報告書に書かれていなかったとしても、陳寿は狗邪韓国から書き始めないといけないわけです。
そして、その狗邪韓国がどの辺りにあるかを明記しなければなりません。帯方郡の郡治は現在のソウル市付近にあったとされています。そこを起点とするとどうでしょうか。図表2は陳寿の頭の中にあった概念図に近いと思いますが、出発地点から南に4000里、東に3000里ほどの位置に狗邪韓国があります。それがまさに「南しながら、東しながら、韓国を経ていくと7000余里で狗邪韓国に到着する」という説明文になったのではないでしょうか。
当然、梯儁たちは海岸から出発したでしょう。しかし、その後も海岸沿いをを水行したとか、朝鮮半島内を歩いたとかいう具体的な径路を示したものではなく、帯方郡からみた狗邪韓国の位置を表すための観念的な表現なのではないかと考えます。
あくまでも、ここでは倭人伝の最初の国である狗邪韓国がどこにあるのかを明示することができればよいわけです。
以上のように考えると、以前からちょっと疑問だったことが一つ解決します。
それは、狗邪韓国についての記述です。次の対馬国以下については、地勢や国内の様子、戸数、官名などが書かれていますが、狗邪韓国についてはまったく何も書かれていません。それが、狗邪韓国についての記録が梯儁の報告書になかったからだと考えると、合点がいくのです。
ということで、今回は狗邪韓国記事の謎についてひとつの試案を書いてみました。
結局、今回のタイトルの「狗邪韓国に行ったのは誰?」の答えとしては、誰と特定はできず、帯方郡では経験的に韓国の南に狗邪韓国があることは知れられており記録にも残されていた、ということになります。
ただし、最後に一言付記しておきます。梯儁一行は少なくとも往路では狗邪韓国を経由しませんでしたが、復路では寄港した可能性があると思っています。対馬海流の流れを考えると、です。しかし、おそらく報告書には復路の行程が記されなかったか、経由地名のみの非常に簡略なものだったのでしょう。もちろん、狗邪韓国内を踏査したりはしなかったのだと思います。
今回の記事に関しては、少し続きがあります。次回へ。(つづく)
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