新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 前記事で、帯方郡(たいほうぐん)から狗邪韓国(くやかんこく)への行程記事について考えました。結論は、帯方郡から狗邪韓国への具体的な道のりを示したものではなく、狗邪韓国が帯方郡からみてどこにあるかを示す観念的な記述だったというものでした。

 そして、「魏志倭人伝」の原史料とされる報告書を書いた梯儁(ていしゅん)たちは、240年の来倭の際、(往路では)狗邪韓国に立ち寄らずに対馬国へ渡ったのだろうと考えました。

 

 それに関連して、今回は対馬海峡を渡って九州島に上陸するまでの行程記事をみてみます。

 図表1の赤い網かけ部分が狗邪韓国から対馬国(つしまこく)へ渡る記述、黄色い網かけ部分が対馬国から一大国(いちだいこく)へ渡る記述、青い網かけ部分が一大国から末盧国(まつらこく)へ渡る記述です(それぞれ、続いて国内の様子も記されています)。

 

◆図表1 対馬海峡を渡る行程記事

 

 各記述のはじまりは、次のようになっています。

 

《狗邪韓国から対馬国》

度一海千余里至対馬国

(狗邪韓国から)はじめて海を1000余里渡ると対馬国に着く。

 

《対馬国から一大国》

又南渡一海千余里名曰瀚海至一大国

(対馬国から)また南へ海を1000余里渡ると一大国に着く。この海は瀚海(かんかい)(広大な海の意)と名付けられている。

 

《一大国から末盧国》

渡一海千余里至末盧国

(一大国から)さらに海を1000余里渡ると末盧国に着く。

 

 さて、ここからが前回書いた「梯儁たち郡使一行は狗邪韓国に立ち寄らなかった」説を補強する新説です。

 これは漢字の解釈によるものです。

 文献解釈から「魏志倭人伝」の謎に挑む人は、漢字の意味を突き詰めて考える人が多いです。「水行」とは? 「北岸」とは? 「到」と「至」の違いは? 「戸」と「家」の違いは? 「臺」と「壹」はどちらが正しい? 「治」と「冶」はどちらが正しい? など、対象となる文字はいくらでもあります。

 

 対馬海峡を渡る3つの行程記事ですが、すべて「渡一海千余里(一海を渡ること千余里)」で統一されています。実際には、一大国(壱岐島)から末盧国(唐津市)への航路は、その前の2つの航路に比べれば半分ほどの距離しかありません。しかし、記述は統一されています。「千余里」は定型句のような感じで用いられているのかもしれません。

 

 ところが、この3つの文のうち、最初の狗邪韓国から対馬国へ渡る一文だけ、「度一海千余里」という風に「」ではなく「」という漢字が当てられています。

 この「度」という漢字に違和感を持たれていた方も多いのではないでしょうか。私も最初に読んだときに「あれっ?」と思った記憶があります。ただ、その後一般的な訳文を読んで、そんなものかと妙に納得してしまっていました。

 

 このサンズイは意図的に省略されたのでしょうか? あるいは写本の際に欠落したのでしょうか?

 原因は不明ですが、厳密にこの2つの漢字の意味を調べると、おもしろいことがわかります。

 「渡」は現在でもごく一般的に「渡る」「渡航」などと用いるように、文字通り、実際に「海や川を渡る」「水上を行く」ことを意味しています。

 一方、「度」はどうでしょうか。もちろん、「魏志倭人伝」のこの部分はごく普通に「渡る」と訳されているように、「度」には「渡」と同様の意味もあります。

 しかし、「度」には別の意味があります。名詞では「度量衡(どりょうこう)」などという言葉があるように「ものさし」という意味もありますし、動詞の場合でも、「(長さを)はかる」とか「推しはかる」という意味を併せ持ちます。

 

 そこで、撰者の陳寿(ちんじゅ)が「渡」と「度」を厳密に使い分けていたと仮定してみます。すると、「梯儁たち郡使一行は狗邪韓国に立ち寄らなかった」説を裏付けるストーリーが見えてきます。

 すなわち、このようにです。

 

(1)「魏志倭人伝」の原史料となった梯儁の報告書には、狗邪韓国から対馬国への航路は書かれていなかった。なぜなら、梯儁一行は少なくとも往路では狗邪韓国へ立ち寄らなかったからである。

(2)一方、帯方郡では、韓国の南に接して倭の国である狗邪韓国があることは周知の事実であり、その記録も残されていた。

(3)陳寿は『三国志』「魏志倭人伝」を撰するにあたり、まず倭の最北の国である狗邪韓国から記述をはじめなければならなかった。

(4)狗邪韓国の位置を示す必要のあった陳寿は、「倭人は帯方郡からみて東南の海の中にいる」という記録と、「韓は4000里四方の大きさである」という記録から、「帯方郡から南東の方角へ7000余里ほど韓国を越えたところに倭の狗邪韓国がある」という風に記述する。

(5)次に、陳寿は狗邪韓国と対馬国の位置関係を示す必要に迫られる。そこで、陳寿の頭の中か、もしくは手元にある地図に描かれた「朝鮮半島の南の海の中に対馬国がある」という概念と、梯儁の報告書に書かれた「南渡一海千余里名曰瀚海至一大国(〈対馬国から〉南へ広い海を1000余里渡ると一大国に至る)」という記録から、「始度一海千余里至対馬国(〈狗邪韓国から〉初めて海を1000余里わたると対馬国に至る」と記述した。

 

 つまり、陳寿は、実際に海を「渡」った記録のなかった狗邪韓国から対馬国への航路については、「度(おしはか)」って記したわけです。

 そして、陳寿は、用いる漢字によってそれを厳密に書き分けたとみることができるのです。

 

 こう考えると、また一つ記述のもやもやがすっきりするところがあります。

 なぜ、(A)狗邪韓国から対馬国までの海峡と(B)対馬国から一大国までの海峡は同じほど広いのに、(B)にだけ「瀚海(かんかい)(広大な海)と名付けられている」という一文がついているのか、ということです。

 これは、梯儁たちが実際に海峡を渡り、(同行した道案内の)倭人たちがそう呼んでいるという具体的な経験から記されたものであったと考えれば腑に落ちます。当時、対馬海峡一帯が「瀚海」と呼ばれていて、本来なら狗邪韓国から対馬国への行程記事に書かれるべき内容だったけれども、その行程は陳寿が「魏志倭人伝」撰述時に机上で作成した一文だったため付記できなかったと考えると、すっきりするです。(完)

 

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