神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

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(yottin blog)

荒波人生 昭和20年秋~21年

2019年12月08日 14時37分39秒 | 小説/詩

除隊の日が近づくにつれて兵舎の中の人数は次第に減っていった

しかし兵士が居るうちは炊事兵(今はもう兵隊では無いが)の仕事がある、

父を終始可愛がってくれた日野曹長は今も兵舎に居る

以前も紹介したが、世間をなめているとしか思えないふてぶてしい男である

彼の武勇伝は父も入隊してまもなく先輩の兵から聞かされた

自ら炊事班員を希望したそうだ、それは唯一大手を振って毎日、外へ買い出しに

行けるからだ、とにかく自由気ままにやりたい人だから狭い兵舎などでじっと

していられない性格なのだ

しかも調子がいいし、物怖じしないから初対面の女性にも調子よく声をかける

そうしてとうとう買い出しに行っていた八百屋の娘を口説いて結婚してしまった

そんな30男なのだ、除隊したらこの八百屋に住むらしい

 

父が除隊と聞いて、日野曹長がその当日、父を呼んだ

お祝いだ」と言って、リュックにたんまり砂糖と米を入れてくれた、そして

「俺はこの調布で事業を考えているから、仕事にあぶれたら訪ねて来いよ」

と男らしい口調で言ってくれた

とりあえず先に除隊している遠野兵長を頼ることにした、彼も除隊の時

「きっと訪ねて来いよ,力になるから」と言ってくれたのだ

父が入隊して半年過ぎた頃、下士官候補の試験を受けないかと隊から言われた

その時、相談したのが遠野兵長だった

「やめとけ、下士官は消耗品だ、先頭に立って突撃するから真っ先に死ぬ

軍は下士官不足で困っているんだ」とあっさり言ってくれた

なるほど話しがうますぎるとは思っていたが・・・何も知らない新兵であった

 

遠野さんは江戸っ子だ、上野に自宅があって空襲でも焼け残った運の良い人だ

そこを訪ねて、当座の住まいを紹介してもらうのだ

「明日探しに行こう」と言って、一晩自宅に泊めてくれた

下宿はすぐに決まった、上野駅に近い、上野車坂町の若狭屋旅館(仮名)

というこじんまりとした宿だった、年頃の娘が一人いた

主人は人のよさそうな人で、いかにも商人風で頭の低い人だった

父は、とりあえず1ヶ月分を前金で支払い、みやげに持っていた砂糖と米を

いくらか渡すと、すごく喜んでくれた、食糧難の今、米も砂糖も貴重品だ

ともあれ落ち着く先が決まったので一安心した

次ぎにやることは職探し、品川の工場は4月の空襲で焼かれて閉鎖となった

からだ、これは宿を世話してくれた遠野さんに相談したら調布の日野曹長の

ところに相談に行こうということになった

結局、日野さんの仕事を遠野さんも父も手伝うことが決まった

仕事内容は簡単に言えば、農機具の転売だ

在庫を抱えて資金繰りに困っている農機具屋から安く買いたたいて、それを

在方の農家に売るという商売だ

一見まともに見えるが、日野曹長はあくどい男だ、農機具屋を買いたたく

方法がまともではない,脅したり騙したりする

そして多少の不良品でも平気でとぼけて農家に売る

農家からは現金では無く、米で支払ってもらう、その米を一般市民に

闇米として販売して利益をあげた

苦情があっても絶対謝らない、口先で丸め込む

こんな商売であったが、父も遠野さんも批判などしない、日野さん

程でないが、それなりのあくどさで仕事をしている

戦後の闇市が至るところで起こり、東京は生き馬の目を抜くような

危険で粗野な町になっている、新興の闇市場に首を突っ込むからには

それ相応の覚悟と度胸が必要な時代だった

この仕事、儲かるときは儲かるが、歯車が狂うとまったく儲からなくなる

何しろ警察に見つかれば没収される闇米販売だからだ

そんな景気の悪いときだった、父は下宿屋の主人にお金のことで

ぼやいたことがある

すると、失礼だが終戦前にどこぞかの銀行に貯金していなかったかと聞く

それで義父がずっと自分の給料や父の給料の一部を安田銀行に貯金していた

ことを思い出して言った、だけど空襲で銀行は焼けたから何も無いというと

自分の身分を証明できれば貯金は戻って来ますよ」と教えてくれた

軍隊での兵隊手帳ならあるというと、「それで十分だと思いますよ」

それで安田銀行に行ってみると、なるほど五百円という大金を手にすることができた

義父名義で三百円、自分の名義で二百円あった、今なら小さな家が建つ金額らしい

すっかり有頂天になり大きな気になって、足立の慶次叔父さんを訪ねていって

得意になって貯金の話しをしてしまった

まさにネコの前に魚を見せたようなものだ(今のネコは生魚を食べないが)

慶次の目の色が変わった、そして兄貴の分は弟の俺に半分相続する権利がある

と言って取り上げられた

軽口は災いの元と知らされた瞬間だった、それでも三百円ほどある、慶次はそれにも

目をつけて

「どうだい、金もある事だし兄貴と義姉さんの葬式をやろうじゃないか」と持ちかけた

「段取りは俺に任しておきな」

そして浅草の日輪寺で義父と母の葬儀を慶次叔父さんと二人だけで執り行った

葬式といってもお骨があるわけでもなく戒名をつけてもらい位牌をいただいた

義父には院号、母には大姉号をいただいた

支払いまで全て慶次がやったがお金の出所は父の財布だった、ここでもいくらかの

金額をくすねたことは間違いない、だが親の葬儀でもあり大きな気持ちで従った

だが20年の後になって父は、この日のことを悔やむことになる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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