ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

パンデミック条約・国際保健規則改定反対集会とデモ行進

2024年02月26日 | プロライフ

パンデミック条約・国際保健規則改定反対集会とデモ行進のおしらせ 

2024.04.13 ( 土 )   09時30分
日時:令和6年4月13日(土)

Ⅰ.集会   9:30~11:30   
  会場:牛込箪笥区民ホール(大江戸線「牛込神楽坂」駅直結)
Ⅱ.デモ行進
  集合場所:13:45      新宿中央公園「水の広場」
  解散:新宿区役所横の遊歩道
----------

パンデミック条約・ワクチン接種反対~コロナの苦しみから抜け出そう~
9:30~11:30
牛込箪笥区民ホール
集会登壇者:井上正康、吉野敏明、林千勝、深田萌絵、須藤元気、神谷宗幣、松田学、山中泉、及川幸久、ポール・ド・ラクビビエ、岡真樹子

参加費:無料
予約不要(先着400名)
主催:パンデミック条約に反対する会
※ 集会、デモ行進(14:00~)どちらかだけの参加もOK


WHOが公衆衛生を口実に国家の主権を超える権限を持とうとしています。パンデミック条約反対デモ 1月14(日)14時 日比谷公園出発

2024年01月02日 | 迫り来る危機

迫るWHO独裁の世界 国際条約の罠

WHOが公衆衛生を口実に国家の主権を超える権限を持とうとしています。

いわゆる”パンデミック条約”について、この分野に詳しい James Roguski 氏に我那覇真子さんがインタビューしました。
https://twitter.com/ganaha_masako/status/1714822930570334338?s=20

https://twitter.com/ganaha_masako/status/1715190702038978844?s=20

https://twitter.com/ganaha_masako/status/1715925103597297954?s=20

https://twitter.com/ganaha_masako/status/1717019006626910231?s=20

パンデミック合意は国民に内緒で水面下で進められています。

【パンデミック条約反対デモ 1月14(日)14時 日比谷公園出発】
井上正康先生、佐藤和夫さんの依頼によるデモ参加の呼びかけです。ご参加ご検討ください。

 


ヴィガノ大司教:中絶はサタンの「秘跡」

2023年10月30日 | プロライフ

中絶はサタンの「秘跡」

2023年9月12日(火曜日)

ABORTION: “SACRAMENT” OF SATAN
中絶はサタンの「秘跡」

カルロ・マリア・ヴィガノ

中絶が理由で刑務所に入ることがありえます。ある国々では、子どもたちが殺されるクリニックの前で沈黙の祈りをやめない者に対して罰として科されるのが、刑務所です。しかし、罪のない人間を殺しても刑務所に入れられることはありません。

中絶が理由で差別されることがありえます。母親の胎内で殺された子どもの命を憂慮する人々につけられる社会的汚名という差別です。この子どもは、生まれる瞬間まで「細胞の塊」とみなされ、各政府の中のある殺人者たちにとっては、生まれた後でもそう【細胞の塊と】みなされます。

彼らはそれを中絶とは呼びません。「リプロダクティブ・ヘルス」(生殖医療)、「妊娠の終了」と呼ぶのです。それは、政治的正しさ(politically correctness)によって押し付けられた義務であり、オーウェル的なニュースピークです。そして、罪のない命に対するこの恐ろしい犯罪を、無菌的な害のない表現の後ろに隠す人々はまた、切断や破壊的な治療によって、人々を、それも思春期前の子どもたちを、ありのままではない姿にすることにも賛成しています。彼らは、それを「ジェンダー転換」と呼んでいます。中絶や子どもの身体切断に賛成する人々は、病人、高齢者、認知症患者、身体障害者、そして国家や個人が生きるに値しないと判断した人々を、何歳であっても殺すことにも賛成しています。それは、合法化された殺人というよりはむしろ「安楽死」と呼ばれ、「旅への同行」と呼ばれます。サイコパンデミックの茶番劇のとき、北欧のある国も、高齢者に対して、保健サービスに負担をかけないように呼びかけて、彼らの自宅に、誰にも迷惑をかけずに「道からどける」のを助けるキットを送り、葬儀費用は政府が負担することを保証しました。

死。死のみ。生まれる前の死。生きている間の死。自然死の前の死。重要なことは、罪のない人々、つまり子ども、病人、高齢者の死に賛成する人々が、死刑に反対していることです。彼らは、貧しいから、年老いているから、受胎させた人々に望まれていないから、という理由で生きるに値しないと判断される場合もありますが、人々が虐殺されたり、恐ろしい犯罪が行われたりした場合、そのような犯罪者たちに対する死刑の適用は野蛮だとみなされるのです。

奇妙なことに、この自殺や殺人への熱狂的な扇動、この生に対する死の押し付けの中で、グローバリストのエリートの高齢者カーストは例外なのです。これらの権力ある年老いた億万長者らは、武装した警備員に守られた要塞にバリケードを築き、死を諦めず、そして若く見えるために、肉体が腐らないように、トランスヒューマニズムの「雲」の中で「永遠の命」を保証するために、あらゆる手段――最も忌まわしい手段でさえも――に頼っています。エリートたちは、生、老い、病も支配したいのです。

何十年にもわたって続けられ、私たちを最悪の異教の蛮行へと逆戻りさせたこの大虐殺の理論家たちは、自分たちについては絶滅する者の一部だとは考えていないことを、私たちは理解し始めるべきです。彼らのうち誰一人として、中絶された者はいません。彼らのうち誰一人として、治療を受けずに放置された者はいません。彼らのうち誰一人として、裁判所の命令によって死を強制された者はいません。死ななければならないのは、私たちであり、皆さんであり、皆さんの子どもたちであり、皆さんの両親であり、皆さんの祖父母であり、また、生きているから、存在していて二酸化炭素を発生させているから、罪があると感じなければならないのは、皆さんなのです。

中世には、教会や修道院、公共施設のフレスコ画には、「四終(死・審判・天国・地獄)」を参考にした「死の勝利」というテーマが描かれていました。死は人間にとって確実なものであり、よく生き、よく死に、永遠の至福に値するよう、私たちを駆り立てます。死後には、上訴できない審判があり、それによって、私たちがどのように生きたかに応じて、天国か地獄のどちらかに永遠に行く運命にあることを知っているからです。エリートたちが「他人」の命を憎む理由は、功利主義的なメンタリティーの結果ではありません。「誰か」によって呼び起こされる「使い捨て文化」は、命の主に永遠に敗北した「死の勝利」によるものではありません。それはむしろ、天主を否定し裏切った後、天主の座に就きたいというサタンの錯乱によるものです。このことは、グローバリズム思想のイデオローグの一人であるユヴァル・ノア・ハラリが公然と告白しています。ユダヤ人であり、同性愛者であり、男性と「結婚」しており、菜食主義者であり、トランスヒューマニズム的かつルチフェル的な宗教の理論家です。この宗教は、人間の地平から天主を消し去り、新世界秩序の暴君たちを天主の座に就かせて、彼らが次のことを決定することができるようにするのです。つまり、何が正しくて何が正しくないか、誰が生きて誰が死ぬべきか、誰が旅行できて誰ができないか、私たち一人一人がお金をいくら使えるか、どれだけの二酸化炭素を排出できるか、子どもを生めるかどうか、何人生めるか、そして胎内から出る前に脳みそを吸い取ったりバラバラにしたりして自分の子どもを虐殺した後、誰から子どもを買わなければならないかを決定するのです。彼らはまた、出産直前まで子どもを中絶できると決めています。なぜなら、臓器や組織を研究所や製薬会社に売ることで金儲けする方法を見つけたためです。これは、彼らが赤ん坊を殺し続けることを可能にする公的・私的な補助金に加えて、中絶クリニックにとって最も繁栄している市場の一つなのです。

かつてはキリスト教的だった私たちの国々は、今や、父祖たちが異教と偶像崇拝の廃墟の上にキリスト教文明を築き上げた信仰から背教しています。各国民が、かつて悪魔をなだめるために祭壇の上で子どもをいけにえにしたような中絶によって子どもを殺すことをやめたのは、まさにキリストへの信仰のおかげなのです。母親たちが、天主の御母であり私たちの母である聖母をモデルとしてきたのは、まさに私たちの聖なる宗教のおかげなのです。「Mater misericordiæ, Mater divinæ gratiæ, Mater purissima, castissima, inviolata, intemerata, amabilis, admirabilis.」(あわれみ深き御母、天主の聖寵の御母、いと潔き御母、いと操正しき御母、終生童貞なる御母、きずなき御母、愛すべき御母、感ずべき御母)。今日、まさに「母」という名前こそが、私たちの子どもたちの口からその名前を消したいというところまで、蛇【悪魔】の憎悪を解き放つのです。なぜなら、この言葉の中には、無原罪童貞のご胎内での天主の御子のご托身を可能にした、あの言いようのない神聖な絆が、そして罪と死の支配の終わりを承認した、あの謙虚で、従順で、寛大な「なれかし」(Fiat)が含まれているからです。

しかし、この背教は、文明と民主主義の進歩のように見せかけられ、人間の尊厳と信教の自由の名の下にたたえられ、エリートに従属する腐敗した位階階級によって称揚されていますが、天主と道徳の前では中立ではありません。この背教は、実際には、天主に対するサタンの反逆であり、議会や法廷から、学問の場から、新聞の紙面から、そして手術室から聞こえる「Non serviam」(私は仕えない)の叫びなのです。

中絶は、サタンへの礼拝行為です。中絶は、悪魔に捧げられた人間のいけにえであり、このことは、「悪魔教会」(church of Satan)の信奉者たちによって誇らしげに肯定されています。この信奉者たちは、中絶が禁じられている米国の州で、中絶された胎児を地獄の儀式に使うことができるように要求しています。一方、世俗主義の名の下に、十字架、そして聖母や聖人の像は取り壊され、その代わりにぞっとするようなバフォメットの像が出現し始めています。

中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、子どもから地上での生命を奪うだけでなく、その子が洗礼の恩寵を奪われるため、その子から至福直観を奪い、リンボ(地獄の辺)に行く運命を与えるからです。
中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、存在するのを天主がお望みになり、天主が創造され、愛され、天主が十字架上でご自分の命を捧げられた霊魂を、天主から奪い取ろうとするからです。
中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、自分の命を犠牲にしてでも最も守るべき人間を殺すことが合法であると母親に信じさせるからであり、また、この犯罪によって、その母親は暗殺者となり、悔い改めなければ、自らに永遠の滅びを宣告し、日常生活においても非常に耐え難い後悔の念にさいなまれて生きることが非常に多いからです。
中絶は、恐ろしい犯罪です。なぜなら、罪のない者を、「まさにその罪のなさゆえに」攻撃し、昨日の、そして今日のセクトで行われた子どもたちの儀式殺人を思い起こさせるからです。私たちは、グローバリストの陰謀団が小児性愛やその他の恐ろしい犯罪の「邪悪な合意」(pactum sceleris)に縛られていること、また、権力、巨大金融、エンターテインメント、報道のメンバーがその邪悪な合意に縛られていることをよく知っています。

この世には、サタンに献身し、キリストの敵と宣言された破壊転覆者のエリートによって流された罪のない血が滴り落ちています。イタリアの法律194号のように、「一定の条件下で」妊娠中絶を許可する法律を正当化する一定の高位聖職者たちの話を聞くと、私は、彼らが自らをカトリック信者と考えることができるのか疑問に思います。いかなる人間の法も、「なんじ殺すなかれ」と命じている、天主の法と自然法を踏みにじることはできません。自らを「カトリック信者」と称しながら、不道徳な法律を承認することで福音に反する政治家たちの共犯的沈黙を伴う、この日常的な虐殺を許している限り、いかなる国も繁栄と調和を望むことはできません。中絶を禁止することは、サタンに従属する新世界秩序(New World Order)に反対したいと思う統治者が真っ先に取り組むことでなければなりません。このために闘うことは、洗礼を受けるにふさわしいすべてのカトリック信者の必須の責務でなければなりません。

私たちの主は、ご自身についてこう言われました。「私は道であり、真理であり、命である」。この世のかしら【悪魔】のモットーはこうでしょう。「私は深淵であり、嘘であり、死である」。中絶を拒否しましょう。そうすれば、敵対者(Adversary)【悪魔】から、彼の明白な、地獄の勝利の主要な道具を取り去ることができるでしょう。中絶を拒否しましょう。そうすれば、何百万もの霊魂が、愛し愛され、偉大なことを成し遂げ、聖なる者となり、私たちとともに戦い、天国に値することができるでしょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

イタリア語版


ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

2023年10月30日 | カトリック

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

2023年8月28日(月曜日)

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

***アルド・マリア・ヴァッリのまえがき***

苦しみに無関心で、過敏で無神経で、容赦なく辛辣で、無慈悲な神学者であり、あわれな母親を嘲り、軽蔑し、口調もスタイルも人間性も堕落した主人公であり、ナショナリズムと神学的厳格主義によって盲目になって、硬直し、混乱し、改宗を必要とし、当時の厳格さと支配的な神学的、政治的、文化的要素に病み、幽閉され、異教徒の信仰を賛美する。これは、「Il Fatto Quotidiano」のコラム「主日の福音」の中で、カナン人の女の娘の癒やし(マテオ15章21-28節)という福音書の一節について、「チヴィルタ・カットリカ」のディレクターであるイエズス会のアントニオ・スパダロ神父が語ったイエズスの肖像です。スパダロ神父の言葉について、カルロ・マリア・ヴィガノ司教の見解を紹介します。

***まえがきおわり***

カルロ・マリア・ヴィガノ

スパダロの言葉(彼の論文「革命の種:イエズスは異教徒の女性の素晴らしい信仰を賞賛した」より。以下参照)は、一世紀以上にわたって教会を苦しめてきた最悪の近代主義の屑を含んだ汚水だまりのようです。

近代主義は、神学校や自称カトリック大学から決定的には根絶されずに残り、神学校や大学に、異端者のセクトや誤った考えを持つ人々が、二千年にわたる聖伝の代わりに第二バチカン公会議のトーテムを建立したのです。少し前まで、この「あらゆる異端の統合」【近代主義のこと。教皇聖ピオ十世はこう呼んだ】は、反キリスト的な本質を顕在化させないようにして、自らの体裁を整えようとしていました。それにもかかわらず、異端の総合とともに反キリスト的な本質のものでした。まだ近代主義のために完全に身を捧げていない一部の漠然とした保守的な高位聖職者が、それのもつ内在的な危険性に気づく恐れがありました。

もちろん、【近代主義者によれば】キリストの神性は、「原始共同体」の聖なるものの必要性からくる希望的観測に過ぎないと考えられました。キリストの奇跡は誇張として、キリストの言葉は比喩として軽視されました。一方、サタン会(Society of Satan)の総長アルトゥーロ・ソーサが言ったように、「録音機はありませんでした」。今日、聖イグナチオの規則に違反してペトロの座を占めているイエズス会士に守られ、このセクトの最悪の信奉者たちは自由にわめき散らし、地獄のような錯乱の中で、イエズス・キリストを冒涜するまでに至っており、イエズスは、ベルゴリオから、すでに憂慮すべき言葉を浴びせられています。「イエズスは蛇になり、悪魔になった」と、このアルゼンチン人は少し前に言っていたのです。

スパダロも同じことを言い、自分が罰せられないと信じている者の傲慢さで、私たちの主のことを「病人であり、硬直性とその時代の支配的な神学的、政治的、文化的要素の虜」、「苦しみに無関心で、怒りっぽくて鈍感で、容赦なく強硬で、無慈悲な神学者であり、嘲笑的かつ無礼であり、ナショナリズムと神学的厳格主義によって盲目になっている」と定義しています。カナン人の女に関する福音の一節について、聖なる教父たちが何を教えてきたかを、このような混乱した心の持ち主らに説明するのは無駄です。彼らは第二バチカン公会議の偶像をその台座の上に高く保つことに関心があり、自分たちの誤謬を守るために、天主の御子を踏みにじり、過去の最悪の異端者たちでさえあえてしなかったように、天主の御子を傷つけ、冒涜しなければならないとしても、彼らにとってはほとんど問題ではないのです。
スパダロの論文は、単なる挑発――それ自体すでに前代未聞のこと――ではなく、サンタ・マルタ館のある「神学者」が言うような、偽りの教義、狡猾な戒律、欺瞞に満ちた説教、堕落させられ堕落させる役務者を擁する反教会の顕現、公現です。反キリストにひれ伏す反教会、人間に対する天主の主権を否定して挑戦するのを象徴するあらゆるものにひれ伏す反教会です。高慢。ルチフェルの高慢。限界もブレーキも知らない高慢。キリストの教会を日食で覆うこのセクトは、もはや隠れてはいません。自ら姿を現し、真の教会に決定的に取って代わることを主張します。偶像を示し、それを崇拝することを要求します。その代償として、救い主ご自身を否定し、救い主の神性を否定し、救い主の行動を裁き、救い主の言葉に異議を唱えるのです。

しかし、素朴な人々がすでに、この「ὕβρις」(ヒュブリスhybris、天主に対する侮辱)の代償が「νέμεσις」(ネメシスnemesis、天主の怒り)であることを理解しているとすれば、枢機卿、司教、司祭といったほとんどすべての司牧者たちは、後ろを向いて目をそらしています。彼らは、自分たちの臆病さ、順応主義、逆行したように見せたくないという願望によって、この地獄の革命の共同責任を負わされたことをよく知っています。彼らはその時点で、その革命を止めることもできました。しかし、60年にわたって、彼らも公会議のカルトに加わってきたのですから、立ち止まって道を逸れた地点に戻るよりも、教会と霊魂の破滅に向かう道を歩み続ける方を好むのです。こうして彼らは、自分が間違っていることを謙虚に認めることよりも、邪悪なものの凱旋、そしてそれに伴うイエズス・キリストへの冒涜的な中傷の方を好むのです。彼らは、自分たち自身が近代主義の誤謬や異端の虜になっていることを認めるよりも、「神学的な厳格さによって盲目となった」私たちの主が間違っていたと言われる方を好むのです。測りは満ちており、私たちがどちらの側につくかを選択する時が来ました。ベルゴリオとスパダロ、「シノダリティーに関するシノドス」、新世界秩序に隷属する人間的な偽物の教会か、あるいは天主と教会と聖徒たちか、を。また、よく考えてみると、カトリック信者が――私は司祭や高位聖職者のことを言っているのではありません――選択することが可能だと考えることができるという仮説を立てることが、すでに前代未聞のことなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年8月27日
聖霊降臨後第十三主日
Dominica XIII Post Pentecosten

英語版
イタリア語版


今秋から始まるコロナウイルスワクチンの危険性について

2023年10月12日 | 迫り来る危機
今秋から始まるコロナウイルスワクチンの危険性について
【聖伝ミサに与っている薬剤師KSさんの寄稿】

厚生労働省は2023年9月20日から、全世代を対象にした新型コロナウイルスワクチンの追加接種を始める方針を決めました。この接種では、現在新型コロナウィルスの流行の主流となっているオミクロン株の亜系統「XBB」だけに対応するワクチンを使用することになっています。

従来型のワクチン接種は9月19日で終了
9月20日からはすべて新型のワクチン接種に切り替わる

新型コロナのワクチン接種は現在、従来株に対応する成分と、オミクロン株の「BA.5」などに対応する成分を含んだ「2価ワクチン」で行われていますが、これは9月19日に終了します。

厚生労働省の専門家分科会は、9月20日から5歳以上のすべての人を対象にするワクチン接種から、現在流行の主流となっているオミクロン株の派生型のXBB.1系統だけに対応する「1価ワクチン」を使う方針を決めました。

このワクチンは、①日本が世界で初めての使用で、②製造元の米ファイザー社などからマウスによる実験データが各種公開されていますが、厚生労働省、ワクチン分科会等からは、人によるデータについての評価結果が提示されていません。

「1価ワクチン」について、医師が以下の危険性を指摘しています。

オミクロン株の派生型のXBB抗体を生成できない役立たずだし
免疫機能を破壊する危険なワクチンなのに、どうして接種するのか

①患者の免疫が機能しなくなり、データ上でもXBB抗体の増加もほとんど認められないため、ワクチンとしての機能を発揮していません。オミクロン株の派生型のXBB.1系統だけに対応すると言いながら、その役割を果たしていません。

②大量の分解されないゴミ抗体(スパイクタンパクの複合体)が、体内に蓄積し、全身への悪影響(血管に血栓が生じる等)が懸念されます。

③全身の細胞にウイルスが入りやすくなり、抗体をつくるタイミングがほとんどないため、様々な細菌やウィルスによる感染爆発が起こる危険があります。

つまり、XBBワクチンを接種することは、効果がまったくなくて、従来のものよりもさらに毒性の強い物質が体内に注入されるということです。

承認申請プロセスも問題あり

XBB対応ワクチンは、米ファイザー社と米モデルナ社が2023年7月に厚労省に製造販売の承認申請をしており、厚労省の専門家部会が承認の可否を議論して、9月に接種開始予定という、通常ではありえない短期間で承認され、9月20日からの使用が決まっています。

行政当局がオミクロン株には何の効果もなく、免疫系統を破壊するだけの、いわば毒薬をワクチンと偽って国民に接種しようとしていることは明らかですから、医療用医薬品の製造を行う際に考慮されるべき患者への安全性、安定性等のチェックは不要と考えているとしか思えません。

悪魔の謀計に勝利できるよう聖母マリア様にロザリオを祈る

私たちの命を奪おうとしている者たちの準備は着々と進められています。その一方で、善意の人たちによるワクチン問題研究会の立ち上げ、善意の医療関係者、科学者によるネット上での問題提起なども始まっています。

新型コロナワクチン接種という悪魔の謀計に勝利できるよう、私たちは日々のロザリオの祈りにおいて、特別にこの問題を聖母マリア様に委ねることが必要ですし、悪魔の謀計に加担している人々の回心のために祈ることが大切と思っています。

「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死んだ」教皇聖ピオ十世|聡明で剛毅の方。教皇の使命は信仰を強めること。

2023年09月28日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼



教皇、聖ピオ十世、聡明で(上智をもった)剛毅の方。
ビルコック神父様(G.Billecocq)
2023年09月4日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。
親愛なる兄弟の皆様、

聖ピオ十世の祝日にあたり、この偉大な教皇の聖性は、教皇ピオ十二世の下で行われたこの日のミサ典文に要約することができます。この祈祷の中で、まず第一に、教会は教皇の使命を思い起こさせます。集祷文にあるように、教皇の使命は信仰を強めることです。

教皇は、我らの主、イエズス・キリストの目に見える代表者である聖ペトロの後継者であり、イエズスは教会の創立者であるだけでなく、目に見えない頭でもあり、教皇は地上におけるイエズスの代理人にすぎません。つまり、教皇は、イエズス・キリストご自身が使徒たちに伝えたもの、すなわち、私たちの魂を養い、永遠に導くために必要な信仰の預かり物、啓示されたものを伝えているにすぎないのです。

そして、この同じ祈祷の中で、教会は教皇聖ピオ十世がこの信仰の預かり物を与え、それを完全に伝え、つまり真理を伝えるだけでなく、それを守ることにおいて輝いた美徳を強調します。聖トマスが言うように、これは継承における第二の側面であり、誤謬からこの信仰を守ること、すなわち、誤謬を糾弾することによって誤謬を非難することでもあります。

教皇、聖ピオ十世には二つの特質があります。第一は天の上智。二つ目は使徒的な剛毅です。

そして、興味深いのは、今日の祈祷の最後に、聖ピオ十世に倣うようにとありますが、たとえ私たちが教皇でなくても、私たちは皆、この信仰によって救われることができるように、信仰の完全性を守る使命をこの下に持っているのです。

まず第一に、天の上智(智慧)です。上智とは何でしょうか?上智とは、真理を知ることであり、真理を愛することです。
上智は一言で言えば語源的にいうと「味わうこと」です。上智とは、天主のものを味わうことです。賢者とは、聡明な方は教理である神聖な食物、すなわち信仰を味わう人のことです。

だからこそ、すべての天の上智には、この二つの要素が必要なのです。第一に、知識、啓示された教義に関する知識です。司祭は神学校で学ぶ間に啓示された教義について学びます。ルフェーブル大司教様が私たちに与えてくださった6年間、最初の1年間はフラヴィニーで、残りの5年間はエコンで学びました。健全な哲学は健全な神学の正しい土台です。そして、その下に台座のように、堅固で強固な哲学がなければ、長期的に持ちこたえることのできる真の神学は存在しません。

ですから、私たちにとって、この知識は神学です。しかし、親愛なる兄弟の皆様、皆様にとって、この知識とは、それぞれの能力に応じて、それぞれの時代に応じて、聖なる教義を学ぶことです。簡単に言えば、カテキズム(公教要理)を知ることです。すべてのカトリック信者はカテキズムをすでに知っているはずです。そして、同じカテキズムを、おそらく説教を通して、おそらく勉強を通して、おそらく講座を受けることによって深めることです。ここでは、この教会が多くの講座を提供しており、もちろん、信仰のために招待され、お勧めします。

残念なことに、第二バチカン公会議以来語られてきた教会の危機は、公会議ほど残酷にはいきなり到来しませんでしたが、多くの知識人、そして残念ながら聖職者の中の多くの知識人の無知の中に、こういった教会の危機が根を下ろし、無知は教会の危機を養い、準備しました。

無知のせいで盲目となるため、教義上、教会上の問題において、無知はおそらく最悪の事態の一つです。私たちの主はすでにファリサイ人の無知を糾弾し、盲人が盲人を導き、両者が落とし穴に落ちると述べておられます。

だからこそ、親愛なる兄弟の皆様、私たちはこれまで以上にこの無知を克服する必要があるのです。
現代での無知は最大であり、おそらく歴史上のどの時代よりも最大です。今日私が話しているのは、もちろん教義上の無知についてです。なぜなら、今日の正常の聖職者たちでさえ、教義、道徳、秘跡、そして人間に対する助言の問題において、この無知を見出すからです。

このような知識は、真の上智、天主の上智、この集祷文の中で語られている天の上智を確立するには十分ではありません。この知識は、既知の真理を愛することにほかならない志向を伴っています。つまり、カトリック信者は、神学的な推論をつなぎ合わせ、真理を結びつけることのできる純粋な頭脳の持ち主ではありません。

カトリック信者とは、単にカテキズムを知っている人ではなく、カテキズムの真理を味わう人なのです。もちろん、知っていることそれは良いことであり、美しいことですが、それだけでは十分ではありません。この教義に従って生きるには、この教義を愛し、この教義を味わわなければなりません。教義を愛するためには、時間をかける方法を知らなければなりません。ただ勉強するだけでなく、黙想する時間も必要です。


私たちに提供された真理を黙想し、天主の臨在の中に自分の身を置き、天主の内に生きるための時間を取るのです。親愛なる兄弟の皆様、私たちはまだ非常に活動的な時代にいます。というのも、活動主義は霊魂をこの世のものに、時には物質主義に、あるいはとにかく物質的な悩みに陥れるからです。

活動主義は司祭を脅かし、司祭職を脅かし、すべての霊魂を脅かす危険です。そして、このような心配事は、霊魂が持つべきすべてを支配してしまい、最後には、本質的なもの、すなわち、イエズス・キリストの愛に満ちた知識を窒息させてしまうのです。だからこそ、この天の上智において、聖ピオ十世がご聖体の前で過ごした時間、お祈りに費やした時間、天主の御前で過ごした時間の中で輝いていたことを理解しなければならないのです。天の上智とはこのことです。

聖ピオ十世はこの集祷文の中で、その使徒的な剛毅の模範として挙げられています。

実際、どのような指導者であれ、教会的な問題、特に教皇の問題については、決断を下すために強くなければなりません。聖ピオ十世がそうであったように、このような決断は、ときには他の地上の君主や国家元首と対立するものであり、周りの皆の意見と必ずしも一致しない決断であり、時には特定の国家から軽蔑されるような決断であるため、よく痛みを伴います。

聖ピオ十世はこの使徒的な剛毅で輝いていました。このことは、フランスの歴史を見ればよくわかります。しかし、その剛毅とはどのようなものだったのでしょうか?聖トマス・アクィナス曰く、剛毅の対象は恐れであり、危険に対する恐れです。

そして、位階制における地位が高ければ高いほど、権威があればあるほど、自分自身より人々を疎外することへの恐れ、誤解されることへの恐れが大きくなることは確かです。聖ピオ十世はこの恐れを克服しました。どのように克服したのでしょうか?

まず第一に、恐れは現世的な計算の上に成り立つものですが、聖ピオ十世はこのような単純な計算を求めることはありませんでした。聖ピオ十世は教会に権力を求めることもありませんでした。私たちは、彼が教会の位階制の中でどれほど高いところに登ったかを知っていますが、彼が決してそれを求めなかったことも知っています。教皇庁で働くためには、しばしばローマで学び、各省に入らなければなりません。聖ピオ十世の場合はそう単純ではなかったのです。最初はただの助任司祭でした。その後、小教区の主任司祭となり、教会の位階制を一歩一歩登り、司教、ヴェネツィア枢機卿、そして最終的には教皇となったのです。

聖ピオ十世は、この世のものを嗜むことはありませんでしたから、この世のものを失うことも恐れませんでした。彼の墓碑に刻まれた言葉は非常に明確です。「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死にました」と。この世のものは聖ピオ十世の霊魂にとって何の興味もないものであったからこそ、彼はこの世のものを計算の基準にしなかったのです。

この世のものに執着すればするほど、それが物質的な所有物であれ、自分の名声であれ、(私たちがそれらに執着していることは天主もご存じですし、それはごく普通のことですが)そして、私たちが天主の敵を恐れれば恐れるほど、私たちは彼らに服従する羽目となります。聖ピオ十世は決して彼らを恐れませんでした。

フランスに関して、豊富で奴隷的な教会よりも、貧しくとも自由な教会を選ぶという決断を下さなければならなかったとき、彼はテーブルの上に拳を叩きつけ、それによって彼の堅固さ、決断力、意志、そして実際、彼の剛毅を示したと言われています。そして、この使徒的な剛毅は、偉大な堅忍によって育まれるのです。この堅忍さは、一方では徳の実践を通して、他方では改悛と苦行を通して、善を行おうとする意志の中に見出されるのです。

聖ピオ十世は、その列聖の過程が示すように、すべての徳において知られています。聖ピオ十世の列福の文章を読み直すだけでも、彼が実践したすべての善徳を強調した素晴らしい文章を読むことができます。しかし、聖ピオ十世は、私たちが見て賞賛するような善良な教皇であっただけではありません。改悛と苦行の熱心で規則的な実践なしには、真の徳、すなわち、堅忍で、愛徳によって形成された徳さえも存在しないからです。

親愛なる兄弟の皆様、これが聖ピオ十世が私たちの模範であり、今日の集祷文が述べていることなのです。ルフェーブル大司教がこの偉大な教皇、そして歴史上、今日まで最後に列福された教皇を私たちの修道会の守護聖人に選びたかった理由もここにあります。

まず第一に、その天の上智、教義の知識、教義とイエズス・キリストへの愛のゆえでした。また、現世を軽蔑し、善徳と悔悛を実践することに根ざした意志の剛毅にもよることです。親愛なる兄弟の皆様、私たちも聖ピオ十世にこれらの同じ善徳を実践するようお祈りしましょう。この観点からすれば、聖ピオ十世が生きたのは20世紀の初め、今から1世紀以上も前のことですが、彼は今も私たちの美しい模範であり続けているのです。

聖ピオ十世は、その善徳のゆえに、私たちに模範としてふさわしいのです。聖母が、彼に倣い、信仰の完全性を保ち、善徳の堅忍な実践を通してそれを味わい、そうして永遠を得る熱意を与えてくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

March for Life 2023 : July 16th in Tokyo :March starts at 4:00 PM from Hibiya Library & Museum

2023年07月14日 | マーチフォーライフ


Come and join us in the March for Life !

In Tokyo, we will meet you in front of Hibiya Library & Museum, at 4 PM on Sunday, July 16th,2023
Thank you for your generous participation !

March for Life in Tokyo

March from Hibiya Park to Konyabashi Children's Park
Location: 1-4 Hibiyakoen, Chiyoda City, Tokyo 100-0012

Assembly : Hibiya Library & Museum
March starts at 4:00 PM from Hibiya Library & Museum
Place of dismissal: Konyabashi Children's Park

Save the human life before birth!
There is something you can do.
Walk with us and with Our Lady of Fatima!
Thank you!




Ave Maria!
My dearest Brethren,

I want to invite all of you to the March for Life on Saturday, July 1st in Osaka and on Sunday, July 16 in Tokyo.

Human life is a gift from God. Even parents do not have the right to dispose of the life of innocent baby in the mother's womb, because they just received the life from God, to take care of it. We have the duty to protect it. God's law is clear: Thou shalt not kill.

However, in Japan, 145,340 innocent human lives were taken away in their mothers' wombs in 2020 according to the Japanese government statistics. In other words, the number of abortions performed during the year 2020 was 145,340.
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_18838.html

Not only are there surgical interventions, but abortive pills which kill human lives. Life begins at the moment of conception. Not at the moment of implantation. The abortive pills have the effect of making mother's body so sick that fertilized egg cannot be implanted, or even if implanted, the egg would starve to death. Taking these pills is a criminal act against innocent life and against mother's wellbeing.

Official statistics show us that, in 2020, 11,058 abortions were done by mothers who were less than 20 years old. Abortion is not only against life, against the fifth Commandment of God : Thou shalt not kill. But it is also the ultimate sin against the 6th Commandment, which protects the transmission of life. Abortion is the ultimate refusal to transmit life.

This is the reason why it is so important now to remember the importance of Chastity. This angelic virtue of chastity protects the marriage, which is the proper place for transmission of life.

We want to march for life, in the name of these innocent lives and in their stead. They cannot ask for help. Our walk is their S.O.S. While marching, we will pray to God for the innocents whose lives are endangered. We ask Our Lady of Fatima to pray for the babies and for us, poor sinners.

We want to pray for the youth. Our young generations need to recognize the importance of purity and chastity. Hence the need for our prayers to Our Lady, Virgo fidelis, Virgo purissima, “Virgo paritura : the virgin that shall give birth” (by the operation of the Holy Ghost).

Let us beg the Mother of God and Our Mother, Blessed Virgin Mary, to have mercy on us.

Though our prayers during the march will be so little compared with our miseries, let us walk, trusting the powerful intercession of Our Lady.

マーチフォーライフ [2023] 7/16(日)東京:日比谷図書文化館から午後4時出発です

2023年07月14日 | マーチフォーライフ

アヴェ・マリア! 
愛する兄弟の皆様、来る7月16日(日)に東京で「マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)」が開催されます。この大切なイベントに皆さんをお招きします。


マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)に参加しませんか?
東京では、7月16日(日)午後4時、日比谷公園内図書文化館から出発
皆様のご参加をお待ちしております。


いのちのための行進:マーチフォーライフ
[マーチフォーライフ東京]・・・ 午後4時 
7月16日(日)午後4時に日比谷公園内図書文化館から出発 →数寄屋橋交差点を歩くデモ行進 →紺谷橋児童遊園で解散
(毎年、警察の皆様の誘導で安全に行進できます)
【所在地】〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1−4



あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!


Silent Scream~沈黙の叫び」という短編映画があります。
妊娠11週の胎児が中絶される様子を超音波映像で撮影したドキュメンタリーです。
お腹の赤ちゃんは明らかに逃げまどいます。まるで恐怖の叫び声をあげるかのように・・・。
世界に先駆けて中絶法を制定した日本は「堕胎天国」と揶揄されてきましたが、それは今も変わりません。
実際の中絶件数は、公的報告件数の5倍あると言われています。
天主の創られた生命を、誰も中絶することはできません。
何千万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺は天に向かって復讐を叫ぶ罪です。
私たちカトリック信者は、堕胎(人工妊娠中絶)に協力することはできません。
人工妊娠中絶を選択できることは、個人の基本的人権では絶対にありません。 堕胎(=中絶)によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っています。
統計によると、日本では67年間の間に3,846万人の赤ちゃんが堕胎(=中絶)されました。
『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社文庫)によると、日本の戦死者は軍人と民間人を合わせて、310万人でした。
日本では、「戦後」、第二次世界大戦の12倍の殺害を、自国民にする戦争を始めてしまいました!
ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するこの世界最大の戦争を終わらせて下さい!

マーチフォーライフとは?

1973年に、アメリカは全州にわたってABORTION=人工妊娠中絶が合法になりました。この判決に疑問を抱いた市民が立ち上がり、翌年から「March for Life=マーチフォーライフ」が始まりました。判決のあった日にワシントンDCに集まる参加者の数が年々増えつづけるとともに、すべてのいのちを守る「Pro-Life=プロライフ」の価値観が草の根でアメリカ全土に浸透していきました。ワシントンDCの50万人デモ行進の影響は世界に及び、いまや各国で、中絶法を変えよう、産まれる前のいのちとお母さんを守ろうと訴えるマーチがおこなわれています。今年 2023年にアメリカは50回目

▼マーチフォーライフ アメリカ2023▼
https://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo/preview20?eid=50193f6d1a5dcbe6104994b3748b1c26&t=1684636542814

1948年、アメリカの中絶合法の25年前に、日本は世界に先駆けて中絶を合法化しました。この優生保護法が施行されてわずか4年間で中絶件数は10倍になり、年間の出生数に迫る数の中絶がおこなわれるようになりました。 2014年7月13日。日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートを切りました。 わずか30名の有志による小さな小さな一歩ですが、とても勇気のある愛にあふれる一歩でした。それから毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフ〜いのちのためのデモ行進の日になりました。 2023年に日本では10回目となります。

女性も男性も、大人も子どももいます。“中絶やめよう” プラカード代わりのうちわを掲げますが、声はあげません。産まれる前の赤ちゃんが声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。声なき行進は、祈りの行進でもあります。
さあ、あなたもファチマの聖母と一緒に、歩いてください!

ファチマの聖母のご出現から、2017年は100年目でした。 ファチマの聖母は、私たちに本当の平和を与えようとしておられます。
まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
シスター・ルチアが1957年に言ったとされる、「ロザリオ」と「汚れ無き御心への信心」は、天主が人類に与え給うた、残された最後の2つの治療薬です。もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは「聖母の汚れなき御心」に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。
【再掲】もし、私が胎児だったら?
『胎児も立派な人間です』 1.生物学的証拠 2.医学的証拠
『胎児も立派な人間です』 3.心理学的証拠


March for Life 2023 : July 1st in Osaka , July 16th in Tokyo

2023年05月21日 | マーチフォーライフ


Come and join us in the March for Life !

In Osaka, we will meet you in front of Osaka City Hall, at 3 PM on Saturday, July 1st.
In Tokyo, on Sunday July 16, Details coming soon
Thank you for your generous participation !



▶▶▶March for Life in Osaka on Saturday July 1st, 2023,

The march is about 4 km from Osaka City Hall up to Namba along Midosuji Avenue

Location: Osaka City Hall, 1-3-20, Nakanoshima, Kita-ku, Osaka City
Assembly : Nakanoshima Park next to Osaka City Hall at 2:30 PM

[Access] Beside Yodoyabashi Station on the Osaka Metro Midosuji Line/Keihan Railway's Keihan Main Line (Exit No.1) or
Beside Oebashi Station on the Nakanoshima Line of the Keihan Railway (Exit 6)

March starts at 3:00 PM from Osaka City Hall
Distance of walk : approximately 4 km
Place of dismissal : Namba (after Takashimaya Department store)


▶▶▶March for Life in Tokyo : on Monday July 16th, 2023, Details coming soon


Save the human life before birth!
There is something you can do.
Walk with us and with Our Lady of Fatima!
Thank you!




Ave Maria!
My dearest Brethren,

I want to invite all of you to the March for Life on Saturday, July 1st in Osaka and on Sunday, July 16 in Tokyo.

Human life is a gift from God. Even parents do not have the right to dispose of the life of innocent baby in the mother's womb, because they just received the life from God, to take care of it. We have the duty to protect it. God's law is clear: Thou shalt not kill.

However, in Japan, 145,340 innocent human lives were taken away in their mothers' wombs in 2020 according to the Japanese government statistics. In other words, the number of abortions performed during the year 2020 was 145,340.
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_18838.html

Not only are there surgical interventions, but abortive pills which kill human lives. Life begins at the moment of conception. Not at the moment of implantation. The abortive pills have the effect of making mother's body so sick that fertilized egg cannot be implanted, or even if implanted, the egg would starve to death. Taking these pills is a criminal act against innocent life and against mother's wellbeing.

Official statistics show us that, in 2020, 11,058 abortions were done by mothers who were less than 20 years old. Abortion is not only against life, against the fifth Commandment of God : Thou shalt not kill. But it is also the ultimate sin against the 6th Commandment, which protects the transmission of life. Abortion is the ultimate refusal to transmit life.

This is the reason why it is so important now to remember the importance of Chastity. This angelic virtue of chastity protects the marriage, which is the proper place for transmission of life.

We want to march for life, in the name of these innocent lives and in their stead. They cannot ask for help. Our walk is their S.O.S. While marching, we will pray to God for the innocents whose lives are endangered. We ask Our Lady of Fatima to pray for the babies and for us, poor sinners.

We want to pray for the youth. Our young generations need to recognize the importance of purity and chastity. Hence the need for our prayers to Our Lady, Virgo fidelis, Virgo purissima, “Virgo paritura : the virgin that shall give birth” (by the operation of the Holy Ghost).

Let us beg the Mother of God and Our Mother, Blessed Virgin Mary, to have mercy on us.

Though our prayers during the march will be so little compared with our miseries, let us walk, trusting the powerful intercession of Our Lady.

命のための行進:マーチフォーライフ [2023] は、7/1(土)大阪と、7/16(日)東京で開催です!

2023年05月21日 | マーチフォーライフ

今年2023年も、東京と大阪でマーチフォーライフが開催されます。

アヴェ・マリア! 
愛する兄弟の皆様、
7月1日(土)には大阪で、7月16日(日)には東京で「マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)」が開催されます。この大切なイベントに皆さんをお招きします。

マーチ・フォー・ライフ(いのちのための行進)に参加しませんか?
大阪では、7月1日(土)午後3時、大阪市役所から出発
東京では、7月16日(日)詳細は近日掲載!
皆様のご参加をお待ちしております。


いのちのための行進:マーチフォーライフ
[マーチフォーライフ大阪]・・・7月1日(土) 午後2時半に大阪市役所のとなり、中の島公園女神像まえに集合です。
午後3時に大阪市役所まえを出発 → 難波までの約4㎞、御堂筋を行進します(毎年、警察の皆様の誘導で安全に行進できます)
【所在地】大阪市北区中之島1-3-20
【アクセス】●Osaka Metro 御堂筋線・京阪電車京阪本線「淀屋橋」駅下車すぐ(1番出口)
●京阪電車中之島線「大江橋」駅下車すぐ(6番出口)


[マーチフォーライフ東京]・・・7月16日(日) 詳細は近日掲載!

あなたに、できることがあります。
生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!


Silent Scream~沈黙の叫び」という短編映画があります。
妊娠11週の胎児が中絶される様子を超音波映像で撮影したドキュメンタリーです。
お腹の赤ちゃんは明らかに逃げまどいます。まるで恐怖の叫び声をあげるかのように・・・。
世界に先駆けて中絶法を制定した日本は「堕胎天国」と揶揄されてきましたが、それは今も変わりません。
実際の中絶件数は、公的報告件数の5倍あると言われています。
天主の創られた生命を、誰も中絶することはできません。
何千万という罪のない子どもたちの母の胎内での虐殺は天に向かって復讐を叫ぶ罪です。
私たちカトリック信者は、堕胎(人工妊娠中絶)に協力することはできません。
人工妊娠中絶を選択できることは、個人の基本的人権では絶対にありません。 堕胎(=中絶)によって、残念ながら、日本は日本のもっとも大切な自分の国民に対して戦争を行っています。
統計によると、日本では67年間の間に3,846万人の赤ちゃんが堕胎(=中絶)されました。
『一九九五年八月十五日に』(朝日新聞社文庫)によると、日本の戦死者は軍人と民間人を合わせて、310万人でした。
日本では、「戦後」、第二次世界大戦の12倍の殺害を、自国民にする戦争を始めてしまいました!
ファチマの聖母マリア様、赤ちゃんに対するこの世界最大の戦争を終わらせて下さい!

マーチフォーライフとは?

1973年に、アメリカは全州にわたってABORTION=人工妊娠中絶が合法になりました。この判決に疑問を抱いた市民が立ち上がり、翌年から「March for Life=マーチフォーライフ」が始まりました。判決のあった日にワシントンDCに集まる参加者の数が年々増えつづけるとともに、すべてのいのちを守る「Pro-Life=プロライフ」の価値観が草の根でアメリカ全土に浸透していきました。ワシントンDCの50万人デモ行進の影響は世界に及び、いまや各国で、中絶法を変えよう、産まれる前のいのちとお母さんを守ろうと訴えるマーチがおこなわれています。今年 2023年にアメリカは50回目
▼マーチフォーライフ アメリカ2023▼
https://blog.goo.ne.jp/fatimanoseibo/preview20?eid=50193f6d1a5dcbe6104994b3748b1c26&t=1684636542814

1948年、アメリカの中絶合法の25年前に、日本は世界に先駆けて中絶を合法化しました。この優生保護法が施行されてわずか4年間で中絶件数は10倍になり、年間の出生数に迫る数の中絶がおこなわれるようになりました。 2014年7月13日。日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートを切りました。 わずか30名の有志による小さな小さな一歩ですが、とても勇気のある愛にあふれる一歩でした。それから毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフ〜いのちのためのデモ行進の日になりました。 2023年に日本では10回目となります。

女性も男性も、大人も子どももいます。“中絶やめよう” プラカード代わりのうちわを掲げますが、声はあげません。産まれる前の赤ちゃんが声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。声なき行進は、祈りの行進でもあります。
さあ、あなたもファチマの聖母と一緒に、歩いてください!

ファチマの聖母のご出現から、2017年は100年目でした。 ファチマの聖母は、私たちに本当の平和を与えようとしておられます。
まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
シスター・ルチアが1957年に言ったとされる、「ロザリオ」と「汚れ無き御心への信心」は、天主が人類に与え給うた、残された最後の2つの治療薬です。もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは「聖母の汚れなき御心」に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。


『胎児も立派な人間です』 1.生物学的証拠 2.医学的証拠
『胎児も立派な人間です』 3.心理学的証拠


隠された十字架や御像

2023年03月30日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


隠された十字架や御像
プーガ神父様(D.Puga)
2023年3月26日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。親愛なる信徒の皆様、今日からご受難節に入ります。四旬節の一部ですが、四旬節中の頂点となります。今までの数週間はご受難節を準備するためにあります。公教会と一緒に、我らの主イエズス・キリストのご受難を再び追体験するのです。そして、その御死去を記念し、その三日後の日曜日の復活祭でご復活を祝うことになります。

公教会は喪を不思議な形で記念することになります。ご受難の節に入ると典礼上に変更が生じます。特に十字架や御像は紫色のヴェールで隠されます。昼間に、本教会を訪問しに来る人々はこの古い慣行の姿を見て驚くことが多いです。
この典礼上の慣行は非常に古くて、聖伝の典礼では厳格に守られています。新しい典礼では任意となってしまいましたが、とにかく古い慣行です。
初期キリスト教時代から引き継がれた改悛の精神を思い起こすための慣行です。



ヴェールの慣行についての質問を受けたら、以上のように答えましょう。

なぜなら、古代の教会では四旬節という期間は洗礼を受けようとする人々のための準備期間として重要な時期だったからです。これらの人々は典礼に与かってはいるもののまだ公教会の一員ではないのですね。
また、四旬節は公けに罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。つまり、重大な罪を犯して、しかも人々にとってあからさまな罪で、公けになる大罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。
四旬節の間、これらの深刻な罪を犯した罪人は改悛するように求められて、告解の秘蹟を通じて天主との仲直りを準備するための期間であり、その暁には復活祭のミサに再びご聖体拝領をできることになります。



四旬節の間にこれらのいわば「公けの罪人」は教会から排除されていたわけです。つまり、教会から追放されて、公教会の交わりから除かれて「破門」されていた状態でした。
時間が経つと、平信徒は自分も改悛して苦行することが相応しいと思いました。なぜなら多くの信徒は公けに罪を犯さなくても天主のみ前で重大な罪を犯すこともあるからですね。もちろん、これら罪人は見えていない罪人なので、罪であるかどうか判断しかねる場合が多いです。

このように、多くの信徒は罪人であることを意識して、公けに改悛する人々とともに、自分自身も改悛したいという気持ちがありました。そういったことから、四旬節の間に教会の内陣を隠す慣行が生まれました。教会の内陣には十字架や諸聖人の御絵、御像などがありました。古代なら、教会の中心にあった十字架の周りには諸聖人の御絵、御像は必ずといってもよいほどありました。

要するに、内陣の前に広い紫色の布を吊って、改悛という四旬節の期間に内陣が見えないようになっていました。つまり、四旬節の間は信徒たちは聖なる生贄、ミサ聖祭を見ることができませんでした。これはつまり、「私は罪人であり、ミサ聖祭にあずかる資格はない、天主の聖性に触れる資格はないことを認める」という想いを表すためでした。

このように、吊るされたヴェールは四旬節の最初から聖金曜日までありました。聖金曜日になったら、諸聖人の御像などは隠されたままでしたが、十字架のヴェールを外しました。つまり、聖金曜日になると、信徒の皆さんは十字架だけは見られるように助ける典礼上の工夫でした。
我らの主イエズス・キリストの十字架によってこそ、我々は改悛できるということを表すためでした。

聖金曜日、聖土曜日の間、教会にあるすべての十字架は見られるようになります。それは、天主の素晴らしい御愛を印す十字架であり、我らの主イエズス・キリストの御死去を思い起こさせる十字架です。イエズスは我々のために犠牲になり給うたほどに我々を愛し給うたことを思い起こさせる十字架です。また、今日もイエズス・キリストはもう一度十字架を担ってまで我々一人ひとりの霊魂を救う覚悟があるほどの御愛だということを思い起こさせる十字架です。

そして復活祭の徹夜祭の最後、我らの主の復活を祝うときに合わせて、残りのヴェールを外します。諸聖人も見られるようになります。
それは、キリスト教徒たちの罪人はイエズス・キリストに従いながら行った改悛の末に、いよいよ天にいる諸聖人の通功に復帰したということを表します。

時代を追うごとに、内陣を隠す広いヴェールは覆われなくなりましたが、四旬節の最初からではなく復活祭になる前の二週間となるご受難節から十字架や諸聖人をヴェールで隠す慣行は現代まで残りました。

聖木曜日、聖金曜日と聖土曜日の典礼にあずかれるのなら、是非与かってくださいね、以上の話が目で見えることになりますので。
聖金曜日の典礼では、十字架を荘厳に礼拝する儀式があります。十字架を礼拝する儀式の前に、助祭と副助祭の補佐をうける司祭が十字架のヴェールを外す儀式があります。そのあと、信徒は十字架を礼拝します。

それから、聖土曜日の徹夜祭にあずかるのなら、その途中ですべての御像のヴェールは外されます。それは、よい改悛の末に、再び諸聖人の通功へ復帰できるということを象徴します。天にある我々の故郷へ再び帰れるということを表すのです。

これらの典礼上のことは細かなことでしょうが、公教会はこのように多くの典礼上に工夫を尽くすことで、我々が典礼をよく体験できるように、またご受難節の間に教えられる真理をよりよく理解させるのです。

こうしてご受難節の間、四旬節の間、特に改悛のために尽くした苦行や、遷善の決心などをさらに頑張って努力して尽くしましょうということを助けるのです。

またそれよりも重要で、この世から一歩距離をおいて、現世から、またこの世の精神から離れるように、ご受難の二週間、現世にある多くの遊楽、忙しさから離れるようにと励ますのです。ご受難の節はちょうど14日間ですが、十字架の道行の14つの留に相当します。

親愛なる信徒の皆様、我々も自分の生活の中に、紫色のヴェールですべて空しい物事を隠しましょう。二週間ぐらい、我らの主、イエズス・キリストのご受難を黙想して、一致するように努力しましょう。
ぜひとも、それを努力するようにお勧めします。

そうするために、聖母マリアとともに、聖母マリアと一致して、祈りましょう。先ほど、お知らせにあったように来週の金曜日は哀れみの聖母マリアの祝日です。また聖マリアの七つの御苦しみとも言います。



十字架のもとに立っておられる聖母の祝日です。復活祭までの残りの時間を聖母マリアと一緒に過ごしましょう。
14日間あるので、例えばですが、十字架の道行の一留を毎日黙想することができます。

御哀れみの聖母と一緒に黙想しましょう。福音書の中に、イエズスの公生活になってから、聖母マリアに関する記述はほぼなくなります。公生活の最初、イエズスが起こす最初の奇跡の時、聖母マリアがいます。召使いに「何でもあの人の言う通りにしなさい」(ヨハネ、2,5)といいます。そして、それ以降、聖母マリアはあらわれなくなります。そして、聖母マリアはふたたび登場します。イエズスがすべての人々から見捨てられたときに、聖母マリアがいます。十字架の下に聖母マリアがいました。



想像してみください。童貞聖マリアの苦しみがどれほど大きかったか。自分の子が苦しめられて軽蔑されて誹謗されて拷問されることを見て、そして十字架上のイエズスの最期の叫び声が聞こえたとき、聖母マリアはどれほど苦しんだでしょうか。聖母マリアはご降誕の日、幼いイエズスを抱いて、赤ちゃんの最初の泣き声が聞こえたときと十字架の時との声、最初と最後にいたのが聖母マリアです。

親愛なる信徒の皆様、ご受難節を聖母マリアとともに過ごしたら、天主のみから来る安泰、平和のうちに我らの主イエズス・キリストのご受難節を過ごすことができることでしょう。

また、我らの霊魂が天主から見てどれほど貴重なものであるかをも理解するでしょう。
天主は、ご自身の御子なる我らの主イエズス・キリストを我らの霊魂の救いのために、我々の罪を償って天国の門を開けるために、送られるほどに我々の霊魂を大切なものとしてくれたのです。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


カトリックにおいて、子供の教育とは?

2023年03月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ド・ジョルナ神父様(B. de Jorna)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼
</iframe>


子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事
ド・ジョルナ神父様 
2023年3月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、福音書の中でも一番感動するだろうと思われる場面があります。イエズスが歩きながら使徒たちに何について話し合ったのかと聞きます。使徒たちはちょっと恥じらって答えません。なぜなら、使徒たちは誰が一番偉いのかについて議論していたからです。

聖マルコによると、イエズスはカファルナウムのある家に座って、使徒たちに仰せになりました。「「第一の者になろうと思うのなら、みなのあとになり、みなの召使いにならなければならぬ」といわれ、一人の子どもを彼らの真ん中に立たせ、その子の肩を抱き、「私の名のために、こういう子どもを受け入れる者は私を受け入れる。私を受け入れる者は私を受け入れるのではなく、私を遣わされたお方を受け入れる」といわれた」(マルコ、9,35-37)



教皇ピオ十一世は教育に関する回勅において、以上の福音書の場面はどの言葉よりもこの上なくよく、キリスト教的に子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事であることを表現しているといっています。イエズスご自身がご自分を子どもであるかのようにおっしゃった場面です。

ですから、福音書から明白に読み取れるように、我らの主は子どもの霊魂を非常に大切にしていらっしゃり、また教育はとても重要なことであると思っておられます。ピオ十一世がいうように、キリスト教的な教育は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事です。両親をはじめ、子どもを育てる責任のある者にとって子どもを育てるために全力をつくし、時間を与えて、すべての手段を尽くすことは最も偉大な仕事です。

良く成功する教育を与えるためには多くの状況があります。その内で一番重要なことがあります。学校の問題です。両親と学校との関係の問題です。

現代ならなおさら重要な問題です。なぜなら、学校はだんだん大きな一角を占めるようになっているからです。ご存じだと思いますが、最近、政府が決定した法律で、就学義務は六歳から三歳へ繰り下げられました。そして、ホームスクーリングは実質上禁止されました。

ピオ十一世は同じ回勅において、最も穏当なことを述べます。自然法上にも、カトリック的にも学校をどう見るべきか述べられています。引用します。
「学校は本質的に二次的制度に過ぎなくて家族と教会を補助するために存在する。それがゆえに、学校は家族と教会と反対してはいけないどころか、積極的に家庭と教会に和合する必要がある。このように、家庭と教会とともに、学校はキリスト教的な教育のために一つの聖域をなすべきことである。そうならなければ学校はその存在理由を全うしないで、その目的から外れて、かえって、破壊的な組織になっていく。」

カトリックの教えの中に、ご覧のように学校の存在が認められているものの、学校の立場は二次的にすぎない、次席にすぎない。主役ではなく脇役にすぎません。なぜなら、学校はあくまでも親の仕事を補助するためにあるだけだからです。ですから、道徳的にも理論的にもキリスト教徒の両親には、教育の責任があるので、学校を通わせるなら、カトリック学校に通わせる義務があるというふうに教皇は結論づけます。それは家庭、教会、学校の教育の一貫性を実現するために必要です。

しかしながら、どこにでも本当に徹底的なカトリック学校があるわけではありません。現実は厳しいです。なぜなら、19世紀末からカトリック学校は激しく攻撃され続けてきたからです。

非常に手短に要点だけを思い出しましょう。1880年、修道士の国外への追放令がありました。多くの修道士は教員で、学校施設を運営していました。例えばイエズス会、サレジオ会、ラ・サール会などはそうでした。
またそのちょっと後、フェリーとGoblet諸法は教育内容と教員たちの世俗化(無宗教化)を強いました。そして、1904年7月、Combes法があります。これをもって、フランス国内で、カトリック修道会が学校施設、教えることは厳禁されました。フランス滞在が合法化されている修道士も含めてです。またこれら修道会のすべての財産を没収することを命じる法律です。

これではカトリック系の教育は生き残るために、方便を見つけざるを得ませんでした。世俗者の信徒の助けを求めて、もともと教区から独立した修道会らは教区の加護のもとに自分を置かざるを得なかったのです。
幸いなことに、第一次世界大戦を経てから、これらの法律は適用されなくなり、カトリック学校は黙認されるようになって、第四共和政になったとき、一時的に公認されるときもありました。第五共和制の間、カトリック学校は一応その存在が許されていましたが、国家からは、何の保護も補助もなしでした。
一世紀半から、フランスにおけるカトリック学校の歴史を要約してみましょう。戦闘の歴史です。その存在を認めてもらうための政治上の戦闘の歴史です。国家など、公の助成金に頼らない、金銭上の戦闘の歴史でもあります。

この戦闘の歴史を代表的に象徴しているのは、聖ビンセンシオ・ア・パウロとルイーズ・ド・マリヤックとが創立した聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会があります。角頭巾のシスターたちとかつて親しく呼ばれていましたね。聖ビンセンシオ・ア・パウロによると、シスターたちは修道院は病者の家であり、禁域が町の通りだといいましたが、この修道会は多くの試練を通して現代まで生き残りました。

例えばですが、フランス革命の直後、多くの修道会の内に、愛徳姉妹会が最初に正式の存在を取り戻しました。また19世紀中に、愛徳姉妹会のシスターたちは子どもを治して、教えて、世話しつづけました。特に女性を。現代の誠意のある歴史家は19世紀における女性の識字化教育の発展の歴史は、愛徳姉妹会が重要かつ中心的な役割を担ったと認めています。

同じように、ジャン=バティスト・ド・ラ・サールが創立したラ・サール会またはキリスト教学校修士会があります。どれほど革命の混乱があっても、政治反乱があっても、迫害を押し付ける法律が出ても、戦い続けた修道会です。
二つの修道会とも、時には解体されたり、追放されたりしました。しかし、必ず戻ってきて、改めて組織化して、キリスト教的な教育を与え続けるために戦いました。

愛徳姉妹会の有名なシスターの事例を取り上げましょう。Jeanne Marie Renduですが、修道名はシスター・ロザリーです。19世紀の前半、54年間以上に、パリのムフタール通りの女性に教え、貧乏人の世話をし続けました。



現在はどうなっているでしょうか。
以上のような迫害の歴史があって、現代、本当に徹底的にカトリック的な教育を貫くカトリック学校すなわち国家契約を結ばない学校は少ないのです。このような学校を開校するのもほとんどの場合、利潤目的です。生き残って長生きするのは至難の業です。このように成功する学校を可能にさせるのは、毎年絶えない教員、両親、寄付者の寛大な気前の良さによるものです。

ここの小教区付属の学校、聖ルイ学校(昔は聖ベルナール学校)も一緒です。40年前に開校されましたが、最初は利潤目的でした。生徒の数は少なくて、教員と院長は若かったです。歴代校長ら、教員ら、両親と寄付者のすこぶる貢献によって、徐々に大きくなっていきました。1990年、中学校は郊外のクールブヴォアへ引っ越ししました。そして、小学校は当時と同じ場所にあります。聖ルイ学校は我々のための模範でしょう。よき天主さまは現代、我々に何を求めておられるかを教えてくださる事例でしょう。

我々はみな、よく、大きな「すべき論」を簡単にやるでしょう。キリスト教圏を再建築するためになにをすべきかなど、大きな夢を見ることが多いでしょうが、そのあまり、ときどき、善業は既に存在することが忘れられます。そしてこれらの善業を支えるべきことを忘れることもあるでしょう。この世に広まる悪はよき天主によって許可されているものの、よき天主は我々に戦うように求めておられます。既存の善を守り、増やすように戦闘することを求めておられます。

カトリック学校、とくに聖伝系のカトリック学校は既存の善業の中心なる部分を占めるに違いありません。なぜなら、将来があるからです。子どもの将来につなげるために、我々はこれらの施設を守り、増やしなければなりません。

ですから、毎年の通例のように、我々は皆さまの助けを求めに来ました。もちろん、物質的、金銭的な助けは必要です。我々の学校は両親が払う学費と寄付だけで成り立つわけです。そして、最近、建物などの改善事業を行っているので、必要です。

また、霊的な助けを求めます。なぜなら、我々がやっている教育の仕事は我々の力を超えているからです。キリスト教的にこどもを育てることにしていますが、そのために、超自然なる恩寵が前提です。このようなところは人間の力をはるかに超えています。一人前のカトリック信徒、大人を養成するためには、天主からの恩寵が必要です。それは皆さまの祈りにかかります。皆さまの助けのもとに、我々の学校は使命を尽くし続けます。

この使命は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事である子を育てることという大目的のために、家庭の補助のためにあります。皆さまにお頼りして、天主に信頼して、毎年のように皆さまの助けで足りることを祈っています。
よき天主は皆さまを祝福されますように。
そして施しの代わりに、よき天主からあふれるほどの恩寵を受けらえますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

四旬節には、まず愛徳を

2023年03月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、フラメント神父様(Frament)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


四旬節には、まず愛徳を
フラメント神父様 
2023年3月8日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生の皆さん、親愛なる信徒の皆様、本日、天主の聖ヨハネという聖人を祝います。ポルトガルに1495年ごろ生まれました。ちょうど、クリストファー・コロンブスがアメリカを発見した同じ時期です。天主の聖ヨハネは熱心なキリスト教の家族に生まれましたがとても貧しい家庭でした。

そして、不思議なことに、彼がまだ若かったとき、ある旅人が家を訪れました。そして、愛想のよいこの旅人はヨハネに一緒に行くように誘います。ヨハネの親はその提案を承認して、ヨハネを旅立つことをゆるします。この旅人を信頼したわけです。

そして数か月後、未成年のヨハネはスペインにいますが、独りぼっちとなってしまいます。自分の家を捜そうとしましたが、全然だめで、死ぬまでもう二度と親と会ったことがありません。これは彼にとっての最初の大試練でした。



そして、カール五世の軍隊に志願兵として入りました。そして、多くの兵士もそうであるように、その時、ヨハネは多くの罪を犯しました。兵士という身分なら、多くの誘惑があります。殺人でも略奪でも強姦でも売春の女性との不潔な関係でも多くの誘惑がある中に、きっとヨハネも悪い模範に引っ張られて罪を犯したでしょう。

そしてある日、ヨハネは非常にピンチとなりました。何かの重い違法行為、盗みだったと思いますが、嘘でしたが、だれかに訴えられました。彼の士官が彼を吊って殺すことを決定したとき、ぎりぎり彼を救った証人が出ました。その時、ヨハネは分かりました。どれほど人生は儚いことであるのかを知りました。かれはその時、地獄に落ちる直前までいたっていました。罪を犯しているままに死にそうになったからです。告解も改悛もよくできないままに急に死にそうになったわけです。

しかしながら、幸いなことにそうならないで、救われました。そして、そのあと、ヨハネはスペイン南部のアンダルシアにあるグラナダに行きました。そして、ある日、当時、襲名な説教者として知られているアビラの聖ヨハネ神父のお説教をたまたま聞くことになりました。改悛と天主への愛についてのお説教でした。

この説教を聞いて天主の聖ヨハネは教会を出たら大声で自分の罪を悔い改めて涙を流すほどに感動しました。かれは「私は大罪人です」と叫んでばかりいたので、周りの人々から彼は狂人ではないかという扱いを受けました。
その結果、彼は逮捕されて、精神病棟に押しこまれました。縁のない狂気の沙汰として扱われたので、彼を癒そうとして、相当大変な「治療」をうけました。当時、水を顔に投げたり、殴ったら発作は鎮まるだろうと信じられていた時代でした。

そして少し時間が経ったら、かれは正気であることに気づかれて、保護所から解放されました。
しかし、この経験はヨハネに強い印象を残しました。つまり狂人といわれる人々はこれほどひどい目に合わせられて苦しみを受けるということを知ったからです。

そして、その時から、貧しい人々へ眼を傾けるようになりました。まず、冬に備えて、また一年中パンが焼けるように、貧しい人々のための薪を拾って配ってあるいていました。最初、皆、彼をにらむような視線でみていましたが、少しずつそれも変わって、良い模範がひろまるかのように、他の人々も彼に倣って一緒に貧しい人々を助けることになりました。



そして、グラナダの人々から多くの施しをいただいたおかげで、貧しい人々のために家を購入しました。最も死にかけている貧しい人々のための避難所でした。ヨハネは母親のように貧しい人々の世話をしていました。身体だけではなく、霊魂の世話もしていました。いつもいつも良き天主の話をしていました。そして彼の愛徳と柔和に多くの貧しい人々が感動して回心しました。

本日の集祷分では、天主の聖ヨハネの人生の中の有名な場面を思い起こします。
グラナダである日、ある家が火災となります。火災の家に閉じこめられた数人の霊魂がいます。聖霊につき動かされて、ヨハネは火の家へ入ってゆき、皆を救いました。そして、何の傷もなく、ヨハネは家から出てきました。多くの人々は教会もこれを見て、奇跡的に天主の御助けがあったと見ました。普通ならば、このような大変な火災の家に入り込むと死ぬしかなったからです。
彼の愛徳の報いとして、その時、無傷で家から出られました。やけども一つもなかったのです。まさに奇跡でした。
天主の聖ヨハネは後に、「病院の兄弟たち」という修道会を創立しました。

親愛なる信徒の皆さま、この聖人はとても立派な愛徳の模範をわれらのために遺しました。とくに四旬節の間なら、なお大切な模範です。
四旬節の愛、多くの遷善の決心をして、犠牲など、自分の霊魂の救いを中心に考えることが多いでしょう。しかしながら、隣人をも考えるべきです。もちろん、自分の罪を償い、自分の事情で妥当な犠牲、それから多くの祈りをお捧げするのは最低限です。

しかしながら、使徒的活動をも視野に入れるべきです。ご存じのように、この世で我々は独りぼっちではありません。多くの社会、グループに属します。

隣人とは、まず家族と親戚です。また小教区の教会です。また大学のサークルや職場なのです。隣人への愛徳は近い順で行うことです。四旬節になって、自分を考えてから、隣人をも考えるべきです。愛徳と聖徳における完成、上達は矛盾しないどころか、一緒に発展していくのです。隣人への愛徳を施すことによって、自分の聖化を助けるわけです。

これから四旬節は一か月ぐらいで終わるのであっという間になりますので、全力で頑張りましょう。
すでに犯した罪への償いと祈りの上で、隣人のために何かの遷善の決心をとることを提案します。例えば、毎日、隣人への愛徳の行為を一つ行うとかいろいろあります。隣人への愛徳は具体的にいろいろできます。乞食に施しをあげるか、ちょっと悲しげな人へほほえみを送るか笑顔で接触するか、ちょっと疲れていてつまらない話がされても、相手をよく聞くとか、近所の人の何かの手伝いするとか、小教区の手伝いとか、多くあります。
やりやすいこともいっぱいあります。そうすると、教会全体のためにも自分のためにも多くの恩寵をいただけます。

ですから、天主の聖ヨハネに祈りましょう。思いにおいても言葉においても行動においても愛徳を施せるように。
隣人愛を実践するために、遠く海を渡って旅立つ必要はありません。我々のすぐ近くに惨め、悲しみ、貧しさはいっぱいあります。パリなら大変です。自分の家族でもときにあるでしょう。我々のできる範囲で、愛徳を施しましょう。霊的な手伝い、物質的な手伝い、つまらない人々へ忍耐、天主の聖ヨハネに倣って愛徳をほどこしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


聖パトリックと大鍋

2023年03月21日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


青銅のへび
D.Puga神父  
2023年3月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、いま、四旬節の最中であり、ご覧のように聖人の祝いは次席にとどまっているところがあります。聖人の祝日は四旬節の期間中は、典礼上にその記憶にとどめて、個別のミサを捧げないことになります。

本日、あさっての3月17日に祝われる聖人について話したいと思います。聖パトリックです。アイルランドの守護聖人です。アイルランドはかつてまでとてもカトリック的な国でした。聖パトリックはケルト族のアイルランドという島へ福音を運んだ宣教師です。

なぜ聖パトリックについて特に今日、話すことにしているかというと、3月17日になると、パリをはじめ世界の多くの場所で、聖パトリックの祝日ということで、ビストロでもバーでもパブでも結構、賑やかにすることが多いです。しかしほとんどの人々は聖パトリックが誰なのかなどよくわかりません。なぜ、聖パトリックになってこのような祝いをするのかもほぼ誰も知らなくなりました。

ですから、聖パトリックはアイリッシュ・コーヒーと緑色の帽子だけではないことを知っていただくために聖パトリックについて話しましょう。

聖パトリック現在のグレート・ブリテンのどこかで生まれました。おそらく現在のスコットランドの境界に近い辺りだったと思われますが、定かではありません。四世紀中葉に生まれました。372年でした。372年だと、ローマ帝国がカトリックを国教化して間もないころです。そして、そのころ、ローマ人は少しずつグレート・ブリテンから撤収しはじめます。大陸における防衛を強化するためでした。大きく言うと、ローマ帝国のいわゆる衰退の最初の最初ですが、このような衰退は先ず遠隔地、周辺地あたりから最初の兆候が確認できます。



聖パトリックはキリスト教の家庭に生まれましたが、彼自身が後世になって、不当に中傷されたため、それに応えるために、回顧録を書きましたが、その中で聖パトリックは明かします。少年時代は、キリスト教の信仰にあまり熱心に生きていなくて、忍耐強く実践しなくて、覚悟を持った信仰生活ではありませんでした。彼の家庭は敬虔なカトリックのようではありましたが、聖パトリックをはじめ、多くの少年は親に倣わなくてあまり熱心ではありませんでした。天主のお言葉をあまり実践していなかったのです。

司祭などはいつも少年たちにハッキリと真理を述べて警告していたのにもかかわらずです。つまり、天主の掟を無視して生きていったらいずれ罰せられるだろうと司祭たちははっきりと教えていたのに、聖パトリックはそれを無視しました。

しかしながら、16歳になると、ローマ人が時々、何かあって大きな島から撤収したり戻ったりしていた時期ですが、アイルランドから来る海賊が結構、はびこるようになっていました。これらの海賊は海岸をよくせめて、人々を拉致してそして奴隷として売買していました。囚われていた人々は特に若い人々でした。

そして、ある日、パトリックはその目に合わせられました。アイルランド人の海賊の一味に拉致されました。アイルランドで売られて主人から任せられた仕事は家畜の群れの番でした。そして夜になると、パトリックは牢屋に入れられて、鎖にも縛られて逃げられないようにされていました。聖パトリックは後で明かしましたが、奴隷になったおかげで、いろいろ考えることが多くなりました。この奴隷生活は六年間ほど続いたのですが、その間に、いろいろ自分の人生の意味について考えました。また、若い時に司祭たちが説教していたことを思い出しました。

「我々は夢の中に生きているかのように自分をごまかす。今日も明日もいつまでも楽しい日々が続くだろうと思い込んでいたが、一瞬で拉致されて、奴隷におちいって、非常に厳しい拘束される生活が強いられた」というようなことを思いおこしました。
ケルト族の性格は火のように燃えて、きつくて、強くて、そこでの主人らは非常に厳格だったとされています。また、アイルランドで一番広まっていた宗教はケルトの民族宗教でしたが、多神教で、非常に残酷な宗教でした。人の生贄などを常にしていて、我々が想像しづらいところがあります。

22歳まで、奴隷生活を送っていた聖パトリックはいろいろ考えました。自分の不幸ではなく、主人をはじめとする周りにいる多くの異教徒の不幸を知り、憐れみました。異教徒はキリストの掟と全く反対の掟の中に生きている結果、格好良くしようとしても、皆、悲しいということを目撃しました。自分よりも、奴隷よりもはるかに不幸なことだとおもい知りました。愛徳も信徳も望徳もない人生は不幸です。

アイルランド人たちは多神教に非常に慣れ親しんでいて徹底的に実行していたので聖パトリックはその現実と遭いました。
そしてある日、聖パトリックは逃亡しました。海岸まで行って、異教徒の船で雇われて、この船はガリアへ犬を運んでいました。アイルランドの訓練された犬は帝国中で攻撃力のある番犬としてとして高く評価されていました。

このようにして聖パトリックは何とかフランスへ着きましたが、船で主人らにかなりいじめられました。そしてまた逃亡して、本当に自由になれました。22歳でしたが、どこへ避難したかというとフランス南部へ行きます。なぜなら、犬の搬送はイタリア半島を目的地にしていましたので、カンヌあたりで、聖パトリックは逃亡したのです。レランス諸島へ避難します。そこには有名な修道院がありました。

そこで、信徳、望徳と愛徳の実践だけではなく、自己犠牲を捧げることを習い、また福音的勧告の実践に従いました。二、三年ぐらい、そこの修道院で修練しました。そして、理由はいまだに不明ですが、ローヌ川の谷を北方へ旅して、オセールまで行きます。そこに有名なる聖ジェルマンという司教がいました。聖パトリックは聖ジェルマンに奉仕することになって、司教から司祭職になるための養成を受けました。司祭となって10年か15年間ほど努めました。そして、聖ジェルマンは聖パトリックに司教聖別式を授けて、聖パトリックは司教となりました。

聖ジェルマンはよくローマにいる教皇と連絡していたものですから、聖パトリックを中心にした数人の聖職者のために、アイルランドへ宣教せよという召命を教皇から得ました。聖パトリックはずっと前からどうしてもアイルランドの異教徒たちのために尽くしたくて宣教しに行きたかったのです。それがいよいよ実現することとなり、司教としてアイルランドへ戻りました。

それからの一生を尽くして、粗暴な人だったと言わざるを得ないアイルランド人のための布教に尽くしました。ドルイド僧とよく論争して戦いました。人々はクランという部族単位で生きていました。

布教様式として、人々の回心を実現させるために、必ず部族長の回心を得なければなりませんでした。そして、部族長が回心したら、大体部族の構成員は回心していきます。近世になって、イエズス会が東洋への布教をしましたときに、同じような様式で宣教していきました。中国でも日本でもそうでした。

聖パトリックは多くの苦行と自己犠牲を果たし続けた暁に、すこしずつ部族長が回心していきました。聖パトリックは80-90歳まで長く生き、長年の使徒的な活動となりました。数人の司教を聖別して、また司祭などからしっかりとした位階制を建てて、また人々がドルイド僧の宗教を捨てる成果をもあげました。もちろん、そのせいで、ドルイド僧から強く嫌悪されました。聖パトリックは特に、ドルイド僧の悪魔的な儀式や魔法などと毅然とした態度で戦い続けました。その結果、いろいろ苦労しましたが、勝利しました。

そして、強固な異教の国からカトリックへの国となっても、アイルランドでの布教の特徴はほとんど流血を伴った迫害が異教から発生しつづけました。もちろん、虐殺とか、あったりしましたが、アイルランドの場合、キリスト教徒を破滅するためというより、いわゆるいつからもあったような単なる暴力沙汰であったという特徴があります。あともちろん、迫害もありましたが、ローマ帝国のような大掛かりな迫害とか、日本での徹底的な迫害とかのような、大体の場合、大掛かりな迫害は、アイルランドの場合はほぼありませんでした。

聖パトリックは非常に柔和でした。しかしながら同時に厳しかったです。どうしても真理を人々に伝えたくて、人々を真理へ導くように全力を尽くしました。
ご存じのようにアイルランドの徽章はクローバーです。なぜでしょうか。
聖パトリックに由来しますが、聖パトリックが公教要理を教えていた時のことから来ます。聖パトリックが信徳がまだない、多神教なる異教徒に向けて三位一体という最も説明しづらい玄義を教えていた時に、クローバーという例えを使っていました。



聖パトリックの御像には必ずクローバーがあります。三つ葉のクローバーですね。三位一体を説明するためにこういっていました。クローバーは一つしかないが、葉っぱ三つあります。三つの葉っぱは完全同じです。聖なる三位一体の三つの位格も完全におなじです。しかしながら、三つの葉っぱともちゃんと区別できます。しかし、花としてのクローバーは一つしかありません。三つの葉っぱからなる唯一なクローバーというたとえで、三位一体を説明していました。また、一つの葉っぱを除いたら、もはやクローバーといいません。
もちろん、このたとえはたとえに過ぎなくて三位一体の現実からは遠いですが、一応すっきりとした説明で、現代まで教会の中で、三位一体を教えるために有名な説明として残っています。

親愛なる信徒の皆さま、我々にとっても非常に重要なことです。三位一体という玄義は我々の信仰の礎です。ところが玄義の中でも一番不思議で、我々の理性を超えている玄義でもあります。

三位一体は間違って理解しやすいです。過剰にとらえてしまうと、神が三つあると思い違ってしまい、多神教となってしまいます。そして、もともと多神教だったケルト人たちには、そうならないように特に注意する必要がありました。

また、三つの位格の絶対的な同一性を強調するあまりに出てくる誤謬もあります。三つの位格の絶対的な同一性は福音書において主が仰せられています。「私と父とは一つである」(ヨハネ、10,30)。それを強調するあまりに、三つの位格の区別を否定してしまい、その挙句に、三つの位格といっても、同一の位格をちょっと違う視点で見たに過ぎないという誤謬になって、三位一体ではない一神教という誤謬になります。自然宗教系の誤った一神教となります。つまり、ユダヤ人とイスラム教徒のように、天主からの天啓を否定するか、無視するかという羽目におちいります。

ですから、求道者や信徒に三位一体という最も重要な玄義を説明するためには、誤解を与えないように、どちらの誤謬にもおちいらないように、工夫して旨く説明する必要がありますね。その中で、聖パトリックは有名な説明を残して、彼の宣教の結果、人々は全員が回心しました。重要なのは三位一体という玄義は、理性で、頭ではいつまでも理解尽くせないものになるということです。我々をはるかに乗り越える天主の現実を示すからです。三位一体はいつまでも玄義です。

また聖パトリックはどういう人であるのかを感じさせるために、彼の人生の中の一つの面白い話を取り上げましょう。
ある日、ある丘で、聖パトリックは聖堂を建てることにしました。そのために、そこの部族長の許可を仰ごうとしたら、部族長から拒まれました。絶対に建てるなと。時間がしばらくたって、この部族長が病気になったと聖パトリックは聞きました。この部族長のために特別に祝別した聖水を彼のもとに届けさせました。部族長は聖水を貰って、掛けたら、大変よく回復しました。

感謝の意を込めて、部族長は礼として大鍋を贈りました。まあ、我々現代人から見たら、大鍋といってもあまり貴重品ではないと思われるかもしれないが、当時は大鍋ということは貴重品でした。また日常生活上も必需品でした。ケルト製の大変華麗な大鍋はこのように聖パトリックへ贈られました。部族長が召使いを送って、大鍋を届けさせますが、召使いは部族長のもとに戻って、部族長はどうだったのかなど報告を求めますね。なにか、私が贈った大鍋にお気入りだったのかなというような質問でした。

召使いは「聖パトリックが「Deo Gratias(天主に感謝!)」と言いました」と報告しました。
それを聞いて部族長は自尊心を傷つけられたというか、なんか「これだけの感謝言葉か、私が苦労してよいプレゼントを用意したのに返礼もないし」と怒って、召使いを再び、聖パトリックのもとに派遣して、大鍋を返してもらえと命じました。ちょっと困った召使いが聖パトリックのもとに行って、返してもらって部族長のところに大鍋をもって帰りました。また報告でしたが、部族長から「さあ、聖パトリックはなんといったのか」と聞いて、召使いは「Deo Gratias(天主に感謝!)と言いました」と報告しました。

以上の聖パトリックのちょっとした話ですが、そこには彼の現世利益に対する無関心が現れています。ヨブの模範したかったことですね。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1,21)
ヨブがこれを行ったときは、生命についてのことでした。大鍋のような品物ではなく、生命のことでした。これはキリスト教徒がとるべき基本的な態度です。キリスト教徒なら、すべては天主から与えられていることを知っているからです。ですから、天主から与えられたものを取り戻されたら、理由があって、より大きな善のためであるとキリスト教徒が知っているからです。

数年前の思い出をはなしましょう。若い夫婦でしたが、すでに二人の子がいましたが、三人目の娘がうまれたばかりでした。彼らはとても喜んでいました。しかし、娘は敗血症という深刻な病気でした。赤ちゃんで、治療しづらいところまで行っていました。そして心臓発作が併発して、蘇生のための救急医療で医者たちは頑張りました。数日だけの生まれたばかりの赤ちゃんでした。
その中で、敬虔だったこの夫婦は一緒にいた司祭に言いました。「我々はうれしいです。天主から授かれてうれしかったです。天主が娘を呼び戻すというみ旨なら、天主のみ名が祝されるようにといいました。」
そして、天主のみ旨はこの時、娘を呼びもどすことではなく、遺し給いました。娘は救われました。いまは、この娘は大人となり、多くの子どもを産みました。

ご覧のように、我々は常に天主のみ摂理への従順を増やす必要があります。でもこの天主のみ旨への従順はいわゆる愛をこめての従順でなければ意味がありません。天主は独裁者ではありません。独裁者だから、従わざるを得ないような暴君ではありません。我々は天主の奴隷ではありません。
我々は天主の子たちです。ですから父を愛して、頼まれることに愛している故に従って、送られる試練などを受け入れます。我々を憐れみ給う天主が用意し給た試練であることをよく思い出しましょう。ですからその試練は我々の善のためにあります。

聖パトリックはこのように愛徳と柔和と福音的な善行を施したおかげで、アイルランドをカトリックへと導きました。そしてアイルランドは大変に長い間にカトリック国のままでした。

そして聖パトリックは隣人に対していつも柔和でしたが、自分自身に対して非常に厳しかったです。例えば、凍ったような水風呂に入るような非常に厳格な苦行をしていました。それは厳しすぎる苦行といえるかもしれません。これに由来して、アイルランド系の修道会の伝統は特に厳しいということで知られています。それはともかく、同じ苦行をしなくてもいいですが、このような精神が重要です。自分自身に対して厳しくて、隣人に対して柔和でなければなりません。

考えてみると、人々は普通、よく、逆のことをします。自分自身に対して言い訳を見つけたり、甘くなりがちですが、隣人の軽い過失でもすぐ厳しくて許せないような態度をとりがちですね。
死の時が近づいたと感じた聖パトリックは自らの修道院へ引退しました。司教の座を譲って数年の間に、死を準備するために、天主との出会いを準備するために、修道院での生活を送りました。

ご覧のように、奴隷になったという大きな試練は、数十万人以上の霊魂の救霊につながりました。現代まで入れたら、数億人ものの救霊といえましょう。後世になっても、さらに、アイルランドから多くの宣教師も輩出しました。このすべては16歳の少年が受けた試練のおかげです。6年間、酷い奴隷の生活を送ってきたことが出発点でした。聖パトリックがこの試練は天主から用意されているということを肯定して受け入れたおかげで、多くの実りがうまれました。

ですから、聖パトリックを祝うことをとおして、何よりも信仰を大切にして、今、復活しつつある新しい異教の闇が天主の光によって照らされますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

誘惑されていない人はだれもいない。なぜ誘惑があるのか?

2023年02月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

誘惑されていない人はだれもいないだろう
ランパン神父様(Rampon)のお説教  
2023年2月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生さん、聖パウロは書簡において「あなたには私の恩寵で足りる」(コリント人への第二の手紙、12,9)とイエズスが聖パウロに仰せになられたと記されました。本日の書簡において天主のみ言葉を宣言するために、聖パウロが経験した多くの試練が記されています。また聖パウロが天国で受けた示現のことについても触れています。

聖アウグスティヌスをはじめ、聖トマス・アクイナスによれば、一時的に至福の天主への直観という最高の特権が与えられたと推定しています。いいかえると、この時の示現は一瞬、天主を直接に見られたという前代未聞の特権だっただろうということです。これは、国々を教える博士という召命を聖パウロが完璧に達成させるためでした。

本日の書簡にあるのは、「肉体に一つの刺」即ち一種の謎めいた誘惑を指すのですが、現代の近代主義者の間の通説はこの誘惑が聖徳に対する誘惑だとしますが、この説は最近のことで、近代になってからの意見で、古典的ではありません。
一方、教父たちは殆どそろって、肉体的な苦しみだっただろうと推定します。持病か何か、とにかくコリント人なら皆知っていたほどのことでした。なぜなら、これに関する短い暗示だけでコリント人がなんであるかわかったからです。

これはキリスト教徒の生活における重要な事実を思い起こしてくれます。この世で生きるすべての人々は誘惑を受けます。誘惑は不可避であることを見ていきますが、それよりも誘惑は有益であることを忘れてはいけません。また誘惑と戦う方法と手段は多く存在することを忘れてはいけません。

確かに、誘惑は必ずかかってきて、不可避です。これから数週間後の福音において、我らの主ご自身が誘惑を受けることになります。天主のいと深きご謙遜かな!神殿のてっぺんで、悪魔からの誘惑を受けることをお許しになったわけです。
聖パウロも多くの誘惑を受けたことがよく知られています。


またより最近では、19世紀のアルスの聖神父は一生、絶望に落ちるように誘導する大きいな誘惑を受けたことも知られています。これに勝利して、アルスの神父は最期を確たる安泰の心境で迎えられたことも知られています。


他に、幼きイエズスの聖テレジアなら、信徳に対する大きな誘惑を受け、聖アルフォンソ・デ・リゴリなら、年配になって明かされたように貞潔の徳に対して大きな誘惑をうけました。


はい、これはまぎれのない事実です。皆、聖人をはじめ、かならず誘惑を受けることになります。誘惑は不可避であることがトビア書の次の一句に要約されています。「あなたが天主に愛されているので、あなたの信仰を試すに誘惑が送られてきた」。

しかしながら、誘惑は不可避であるといっても、それぞれの人々はそれぞれに事情とその性格と聖徳によって違う誘惑を受けることを忘れてはいけません。
聖人も多くの誘惑を受けていたのですが、怠惰な生ぬるい信徒に比べたら聖人が誘惑により簡単に勝てたのです。実に、洗礼を受けても、原罪が清められても、貪欲の源は傷であるかのように残っています。これは乱れた感情のことであり、よく秩序づけられていない感情であって、悪い行いや悪い欲望へ狂う馬のように暴れだして走るようなものです。

この激情の源に抵抗しなければ、誘惑を一番生みやすい弱点となります。ですから、聖人なら悪魔から直接に誘惑されることが多いでしょう。つまり、比較的に感情・激情などが良く制御されているので、そこから生まれる誘惑はより少ないでしょう。ですから聖人なら内面から生じる誘惑よりも外から攻めてくる誘惑になりますので、外からくるときのほうが、勝ちやすいのです。
のんびりした緩んだ態度で生活した結果、欲望に通じる誘惑が多くなりますが、内面的なのでより抵抗しづらいのです。

このように、日常の作業についてさぼっている人、あるいは怠惰な人なら、誘惑に対して怠惰となります。好奇心の強過ぎる者、自分の意志の野望を犠牲と日常の節制の行いによってブレーキをかけなければ、誘惑に対しても好奇心によって引っ張られて誘惑へいきやすくなります。
また、いつも他人について小言をいい、あるいはいつも大きな声でお喋りする人なら、誘惑に対しても大きなお喋りするようなものです。このせいで最初の女性が人類史上にはじめて悪魔からの誘いに負けて罪を犯しました。

要するに誘惑は不可避ではありますが、乗り越えられないことは絶対にありません。乗り越えないときとは、我々が生ぬるいときです。

またこれらの誘惑は我々にとって非常に有益なのです。まず、霊的生活のための励みとなります。前進するための助けとなります。
誘惑がなければ、かならず、霊的な無気力に陥っていくでしょう。なんでもかんでもやりやすいと勘違いして、努力なしに天国に行けると勘違いするようになるでしょう。これは間違いです。

我らの主が仰せになるように、「天の国は暴力で競われ暴力の者がそれを奪う」(マテオ、11,12)ですから、聖徳を実践するために努力して、自分に対して暴力を発揮すべきです。誘惑はそのためにあります。
救済への道は既得権ではない、すでに持っていることではない、最期まで罪を犯すことはあり得るのでいつでも警戒すべきであるという事実を誘惑が我々に思い起こさせてくれます。

誘惑はまた、謙遜を身に着けるための道です。安全だと信じ込んでいた者が誘惑によってそうでもないことに気づくのです。心境が安泰で、ロザリオを理想的に祈っていたところ、いきなり誘惑がやってきて、ひどい思いばかりが頭に上がってくるような誘惑があります。この誘惑によって謙遜の徳を養うのです。

良き天主がこの世に我々を置いたのは富や現世的な宝物を得るためではなく、出世するためではなく、有名になるためではなく、天主は我々が永遠の命のための準備をし、功徳を得、聖徳の内に成長していくようにお望みです。
すべての聖徳の礎は謙遜です。そして誘惑のおかげで、我々が何でもない存在であることが思い起こされて、いつでも簡単におちいる惨めな存在であって、天主からの御助けを必要としていることが思い起こされます。これは謙遜徳を養うための助けとなります。

天主のみ前に我々がへりくだり、慎んで、謙遜するときに、天主のみ旨に従っています。そして正直な心で、「天主よ、あなたは居なければ私はろくでもない存在になる」と、よく天主へ祈りを捧げましょう。
また、誘惑のおかげで聖人になるための練習となります。聖人になる助けとなります。
なぜなら、誘惑がやってきたとき、天主の御力に頼るしかないからです。罪を犯しそうになる時、天主の御助けなしに誘惑を乗り越えられないのです。
ですから、誘惑に遭うとき、我々は幼い子のように父なる天主に寄りすがる姿は天主のみ旨に従っています。天主を素直に信じて御助けに素直に頼ったら、多くの恩寵をいただきます。

要するに、誘惑は、多くの聖徳が鍛えられて実践していく機会となります。これは重要な事実です。なぜなら天主のみ摂理の計画において、我々が誘惑に負けるはずがない、誘惑に負けることは計画において予定されていないのです。
誘惑に負けるとき、我々自身のせいだけです。天主から誘惑を乗り越えるためにすべて用意してくださっていたのに、我々はその恩寵を捨てて、誘惑にこたえることにしたせいで誘惑にまけるのです。われわれのせいだけです。

はい、誘惑と戦うために多くの方法と手段があります。大きく言うと二つのやり方があります。「予防」すること、そして「抵抗」することにあります。

第一に、誘惑の機会を事前に防ぎましょう。ヨブ書には次の一句があります。「この世にいる人にとって兵役である」(7,1)
はい、この世での人生は霊的な戦闘です。我々は霊的に武装化すべきです。我々は前線に送られる兵士のようなものです。前線に行く兵士は必ず武器を持って戦いにいくわけです。

霊的に鍛えないのは、たとえてみたら、今のウクライナ紛争の前線に甚平姿で観光客として歩いていくようなものです。非常に無謀なことです。霊的生活においても一緒です。霊的に鍛えなくて、準備しなくても、訓練しないのは無謀すぎます。最終的に誘惑に必ず負けるという状況を作ってしまうことです。

ですから、その訓練、予防のためにいくつかの手段があります。第一に、過信を絶対にさけましょう。何日ぶりも何か月ぶりも誘惑に負けていないからといって、これから負けないことは保証されていないのです。我々は自分自身に対して警戒しましょう。我々の傲慢に警戒しましょう。
聖フィリップ・ネリはよく天主に祈っていたのです。「天主よ、私フィリップについて警戒するようにしてください」


我らも、いつも警戒しつつ、無謀にならず、危険すぎる状況を避けましょう。
そのために罪を犯しやすい場所と機会を極力に避けましょう。

罪を犯す機会というのは、罪を犯す可能の高い事情をさします。そのような事情、機会を避けて、必要がないかぎり、わざわざ自分をそのような機会にさらすわけにはいかないのです。

もちろん、より大きな善のために一定のリスクを置かざるを得ない時はありますが、そのような急な理由がなければ、罪の機会にさらしてはいけないのです。そうすると天主の恩寵をそらす危険があります。

例えば、夕方になってからインターネットを見るようなことは危険です。そうすると、天主の恩寵を招かないようなことになります。また婚約者が二人きりで会うのも不要な危険にさらすことであり、良き天主の恩寵を招かないのです。このようなときは、自分のせいでこのような機会を作ってしまったので、誘惑に抵抗するための恩寵をあまり頂かないので、さらに危険です。ですから、罪を犯す機会を極力に避けましょう。

同時に、無駄な恐怖心を極力にも避けましょう。時には、罪を犯す過剰な恐怖があります。たとえば「いつも罪を犯していて、罪を犯す機会が多すぎて耐えられなくて、だから必ず誘惑に負けるに決まっている」というような思い込みです。それは大間違いです。誘惑を過剰に恐れてはいけません。それは天主の御助けへの信頼が薄すぎることをものがたります。恐怖の問題は無気力さを招き、やる気を麻痺させます。

誘惑に遭って、良き天主は我々にご自分の恩寵を与えることを予定しておられたのに、我々の過剰な恐怖のせいで、我らの意志などの能力を麻痺させて、何もできなくなり、誘惑を余計に増やすことになります。ですから、常に天主からの御助けと御力に大きく信頼しましょう。

また、極力に無為な時を避けましょう。ことわざが言うように「無為は悪のもと」だということです。その通りであり、さらにいうと、「無為は誘惑のもと」でもあります。考えてみると、誘惑を退けるために、単純な素直な作業、仕事を行うのがよいです。この意味でいつも忙しくやっているのはよいことです。誘惑の機会を減らします。

そして、誘惑が現れたときに、誘惑に全力で抵抗すべきです。速やかに抵抗し、剛毅に力強く抵抗し、謙遜のままに抵抗すべきです。シラ書にあるように、「蛇を避けるように罪を避けよ、それに近寄るとあなたはかまれる」(21,1-2)

誘惑がやってきたら、誘惑と一切遊んではいけません。悪魔と話してはいけません。すぐにそれをそらして、速やかに祈りを捧げて、新しい作業、別の仕事を行いましょう。しかしながら、そうしないで誘惑をじっくりと眺めて、こんど遊んだら、必ず誘惑に負けるはめになります。

要約すると、良き天主によって誘惑が許可されるのは、我々の善のためです。我々の霊的成長のためです。また良き天主は永遠で我々が誘惑を乗り越えるための恩寵を用意してくださることを知りましょう。

そして誘惑に対して予防も抵抗も相応しい対策をとっていったら、誘惑は天国のために多くの功徳を得る機会でしかならなくなります。
また天主のみ旨にいつも従っておられた聖母マリアに祈りましょう。

また聖パウロの助けを希いましょう。過信しないように守られるように。そうして、本日の祈祷を我々も祈っていきましょう。
「天主よ、自分の行うどんな行いにも頼りえないわれらのことを、御身は知り給う」。意味は、我々は自分自身について常に警戒しながら、すべてにおいて、天主にしか頼らないという意味です。つづいて、「願わくは、異邦人の博士(聖パウロ)の御保護により、我らの艱難より守り給わんことを」
このように、誘惑がやってくるたびに、天主への愛徳が増し、聖徳に成長し、聖人になる道を進める機会になるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン