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「良心」の本来の意味を知っていますか?【公教要理】第七十六講

2019年12月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十六講 良心について


前回は、人間の行為の遠因の規範をご紹介しました。
すこし思い出しましょう。人間の行為の道徳性を決める基準は、道徳法に対する適合性あるいは不適合性にあります。取り上げた例として、鉛筆が定規に沿うように、道徳的な行為は道徳法に適っています。つまり人間の行為は鉛筆の書く線に例えられます。その線は定規に沿わなければなりません。
人間の行為の道徳性は、例えてみるなら「その線の評価」に当たるのですが、その根源は三つあります。行為の中身とその事情とその目的です。
人間のある行為を線にたとえるのを続けるなら、中身は「その線自体」に当たります。事情は「その線の太さや色やその他の様子」に当たります。目的は「何のためにその線をかくのか」に当たります。
つまり、人間の行為は、以上の道徳性の三つの根源により、その行為の道徳性を評価できます。しかし、さらに規範に適うかどうかを見なければなりません。

前回はその規範が二つあるとご説明しました。
第一に、外的な遠因の規範である「法」があります。
前回はこの法をご紹介しました。「天主の法」と「人間の法」、また、天主の法には、「永遠の法」と「自然法」と「実定法」の3つがあり、続いて、
人間の法には、「教会の法」と「市民法」とがあります。


次に、内面的な近因の法もあります。「良心」と呼ばれるものです。

これは現代よく使われている言葉です。問題は、現代では本来の意味から歪曲されて使われていることです。これに注意すべきでしょう。
特に17世紀の「主観主義」と言われている新しい哲学の出現のせいで、「良心」の本来の意味がどんどん見えなくなってきました。

では、道徳上、良心とは一体何でしょうか。
この道徳上の良心は、現代使われている意味での、近代哲学の「良心」と混同してはいけません。
道徳の良心とは「人間の理性による実践的な評価」です。
御覧の通り、現代では一般に「良心」とは、何か「知性の代わりに、あえていえば「理解力」の代わりに、作用している能力」というような意味になっています。

実際には、道徳上の「良心」はまず「評価」であって、「判断」です。ここでいう「判断」というのは「ある真理を表明する」という意味での評価・判断です。
つまり良心とは「実践的な評価」であって、行為の前後も行為の途中も我々に「その行為の善悪を判断して、断言してくれる」ものです。これが道徳上の良心です。「知性による判断」です。また、「実践的な判断」とは、「人間の行為を対象にしている判断」ということです。
道徳上の良心という判断の目的は、すでに行われた行為、あるいはこれからやろうとしている行為が善であるか悪であるかを判断することです。

このようにして、良心は我々の内面にあって、即時に何をやるべきか何をやってはいけないかを判断してくれます。あえて言えば、良心というのは、我々一人一人において「法が浸透した状態だ」と言うような感じです。つまり、良心とは我々の中に刻印されている「法」の「実践的な認識」ということです。行為をやる前の場合、良心は「これから何をやるべきか、何をやってはいけないか」ということを教えてくれます。行為をやった後の場合、良心の判断は、我々のやったことを肯定するか、断罪するかです。我々のやった行為の善悪次第で、我々を賞賛する良心になるか、我々を批判する良心になるか、です。ところで、以上が良心の二つの機能を現します。

「前件の良心」は、行為をやる前に「これはやってはいけない」「これはやってもよい」「これをやるのは良いことだ」というようなことを教えてくれます。そして、「後件の良心」は、行為が行われた後に作用される良心であって、「やったことは善かった」あるいは「やったことは悪かった」と裁いてくれます。内面的な叱責、内面的な後悔という気持ちで表わされる良心です。
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確かに、良心とは「善に対する愛」と「悪に対する憎しみ」という感情が伴います。または、「満足」と「後悔」が伴うものです。そういった感情が良心に伴うのです。
以上のように、同じ良心をすこし区別することがあります。

一方、良心は、近因の規範なので、次のように考えるしかありません。
つまり、「良心は規範なので、必ず良心の判断に従うべきだ」と。確かに、これはまさにそうです。良心は人間の行為の規範なので、鉛筆が定規に沿うように、我々の行為も良心に従うべきです。それは当然のことですし、確かにそうです。「我々の行為は良心に従うべきだ」ということは確かです。

しかしながら、注意しましょう。「我々の行為は良心に従うべきだ」からといって、まだすべてを言い尽したわけではありません。

というか、暗に先ほどの命題には、幾つかの前提が含まれています。思い出しましょう。人間の行為において、二つの規範がありますね。一つは人の外にある規範で、もう一つは内面的な規範です。この二つの規範は無関係ではありません。その逆です。深い関係にあります。というのは、内面的な「良心」という規範は、あえて言えば、外の規範の内面における「浸透」に過ぎないからです。
このようにして外的な規範は内面的な規範と深い関係を持ちます。つまり、外的規範は「良心を通じて私の内面において伝わる」のです。「実践的な判断」である良心とは、あえて言えば「私の内面にある思考の結論だ」といえます。ただ、その思考は「法を考慮した上、やろうとしている行為を考慮してから、良心が結論を出して判断する」と言うような思考です。

例えば、外的な規範には「盗むな」という掟があります。言い換えると、「私が所有していない「何か」をこっそり取っておくことはやってはいけない」という掟ですね。これが外的な法の掟ですね。そして、今、目の前に私のものではない「この物」がある場合、良心は「拾ったこの物は返すべきだ」と判断します。「取ってはいけない」と良心が判断します。このようにして、どうやって「良心」が、合理的な思考の結論であることが見えてきたでしょう。その思考の前半は「外的な法」です。このようにして、良心と外的な規範との間に必然的な関係があるということが見えてきます。

従って、「良心に従うべきだ」と言った時、暗に「外的な規範にも従うべきだ」ということが含まれます。つまり、「自然法の掟にも従うべきだ」も暗に含まれています。だから、「それぞれに良心があるから、道徳というのは完全に個人的なことであって、主観的なことだ」とは、到底言えないわけです。全く違います。「それぞれに良心がありながらも、ある行為の道徳性は客観的であって、どうなっても客観的なまま」です。

なぜでしょうか。良心は確かに「実践的な判断」として各自に特別に備わっているかもしれませんが、その良心は、必ず普遍的で不変な絶対の法に依存して判断するからです。だから、「良心に従うべきだ」と言った時、同時に自然法という「外的な規範にも従うべきだ」も必ず含まれています。また、暗に「外的な規範に従うように、良心を養うべきだ」ということも含まれます。

ところで、幼児を見てみるとこれがわかってきますね。「嘘をつく」という例をもう一度に取り上げましょう。子供の良心は、実践的なので、確かに「個人的な良心」であるかもしれませんが、個人的でありながらも、良心はまったく主観的ではなくて、客観的です。嘘をつく子供はどうしても「嘘をつくな」という外的な法が存在しているということを感じなくてはなりません。例えば、罰を避けるためにとか、つまり恐れをもって嘘をつきたい時でも、その幼児の内面的な声は「嘘をつくな」と必ず言うのです。これは外的な法に当たるところです。そして、頭の中で、言おうとしている言葉を検討します。言おうとしていることは「嘘」です。現実にあったことに反する「嘘」、真実に反する「嘘」です。例えば、「父がこの容器を壊したのは私なのかと聞いている」としましょう。私は壊したが、「嘘をつくな」という外的な掟を直感して、「私がやったことと違うことを言おう」と、嘘をつこうとして、良心によって悩まされますね。これこそが良心の声です。良心は、ある外的の掟とある特定の行為に対する特定の客観的な結論を指します。

要するに、道徳性の根源と外的な法と内面的な法との間に深い関係があることが見えてきたでしょう。これらはやはり全体を成します。言葉で区別したところに、実際において一体を成して、全体を成して分けることはできません。自然法という外的な規範と良心とを切り離すことはできません。前にも申し上げたことですが、良心を自然法から切り離すそうとすると、無秩序となるだけです。なぜかというと、結局、普遍的および客観的な法を否定することに帰するからです。

近代的な意味での「良心」に皆一人一人が従うべきだとしたら、つまり、実際にいうと「自分の気まぐれに従うべきだ」としたら、もう「法」はもはや存在しないことになります。各自が自分の「法」となってしまって道徳性はもはや存在しなくなります。道徳性が消えた世界では、目的も消えます。定規を外したら、定規の目指している目的地もなくなります。各自が気まぐれに一線を引いて、自分勝手に自分が自分の目的となってしまうのです。要するに、こうなった場合、「人間は自分自身を目的にする」ことになります。そうなった場合、暗に「自分を創造したのは自分だ」ということになります。というのも、「人間は自分自身を目的にする」とは、「自分で自分の法を決める」というに等しいと暗に断言されるからです。
しかしながら、人間は人間を創造したことはありません。従って、人間は人間において自分の法を決めたこともそもそもありません。従って、「人間は自分自身を目的にする」ことはありません。したがって、良心が「自律する」ことは不可能です。

こうして、個人的および主観的な良心を定義する近代期の多くの理論は、どうやって潰れるかが見えてきたと思います。
「自由だから自律した良心が気まぐれにしても良い」といった夢想は嘘です。

我々の良心は必ず客観的な法に依存しています。従って、少しずつ我々の良心が「永遠の法」に適うように、「自然法」・「天主の法」・「実定法」に従うように、そして「人間の法」(教会の法と市民法)にも従うように、これを養うべきです。

勿論、「人間の法」に従うのは、良い法の場合に限ります。つまり、人間によって制定された法が「永遠の法」と「天主の法」に依存する限り、人間の法に従えばよいのです。というのも、法を制定する権限を人間に与えたのは天主であるから、人間が法を制定する権能において必ず天主に依存するからです。
つまり、人間は、自分で制定する法を、天主に依存させるべきであって(教会の法も市民法も含めて)、そうでなくなれば「法」ではなくなります。

結局、すべては「自然法」と天主の「永遠の法」に依存しています。だから、良心でさえ、これらの法に適うように養成すべきです。
このようにして、良心が「近因の規範」とは、「自薦的な判断」としてそうです。
つまり、やろうとしているあるいはやった具体的な行為を対象にして、外的な規範を適応した判断です。

従って、良心とは絶対な法ではありません。

言い換えると、良心とは「普遍的および不変な法」でありません。
何故なら良心が「普遍的な判断」ではなく、「実践的な判断」だからです。確かに「良心に従うべき」です。が、暗に「良心を養成すべき」ことでもあって、養成した良心こそが我々の行為の規範となるのです。

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