2月初め、まだ新型コロナウイルスの影響がそれほど出ていなかった頃の行動記録です
かねてから行きたく思いながら、「それどこ?」みたいな感じでなかなか近づけなかったお寺がありました
京都府向日市にある法菩提院願徳寺です
そこには美しい菩薩半跏像(伝如意輪観音像)がいらっしゃいます
そこで、最近少し仏像に興味がわいてきたと思われる旦那と一緒に行くことにしました
宝菩提院願徳寺の場所↓
JR桂川駅→バス→洛西高校前バス停→徒歩→願徳寺
最後の徒歩は途中から竹林の山道となりました(なお、時間をキチンと調べれば、願徳寺により近い柳川というバス停(下に書きます)まで京都駅から直通で行けるようですが、私たちは、京都駅のバス停がわからずモタモタしてしまい、乗り遅れてしまいました)
洛西高校前バス停をおりて、高校の校舎を過ぎると静かな住宅地に入ります
お寺へ行くまでの、最後の竹林の道なんですが、ここはだらだらと上り坂で、しかも全くひとけがなくて一人ではちょっと歩けない
竹の道をかなり登り、ようやく目指すお寺が見えてきました
宝菩提院について
願徳寺は、西京区大原野春日町にありますが、
比較的最近までは「原っぱ」だったようです
隣接した場所に勝持寺(花の寺)がありますが、1973年にこちらに寺宝が移され、
1996年には、現在の地に願徳寺の一院である法菩提院が建立されました(とても最近のことですよね)
天台宗のお寺で、現在は「法菩提院願徳寺」と称しています
この宝菩提院の前身は、京都東山三条小川にあった大納言忠快(清盛の弟敦盛の子)の御所であったと伝えられているそうです
(私は、このように、とある先生から教わりましたが、お寺の掲げた掲示板には、白鳳時代に持統天皇の創建とあり、この食い違いはなんなのか、よくわかりません…個人的な好みでいえば、そりゃ、白鳳時代持統天皇創建のほうがいいけど、どうなんでしょう?)
その後、天台僧承澄(密教図像「阿裟縛抄」を描いた人)の弟子澄豪の時に、向日市寺戸に移され、願徳寺の一院となり、宝菩提院が再興されました
この向日市寺戸には、長岡京遷都以前からの大寺の伽藍跡が遺されているそうで、これが宝菩提院廃寺跡とみられています
宝菩提院願徳寺の本尊は、文明11年の再興時の勧進記録によって、二臂如意輪観音像であったとされており、現在宝菩提院にある像が本像であると考えられます
宝菩提院半跏像(伝如意輪観音像)について
このお寺にある半跏像は、寺伝によれば「如意輪観音」であり、国宝の指定名称も同じ「如意輪観音」です
しかし、通常の如意輪観音は六臂(手が六本)であるのに対し、こちらの像は二臂です
このことから、この像は「虚空蔵菩薩」であると考える説もあります
そのことについて、考える前にまずはこのお像の一般的な情報をまとめてみます
この像は木像ですが、用材についてはヒノキ材と考えられていました
しかし、実際はカヤ材のほぼ完全な一木造りの像です(ただし左手前膞部半ばから先、右足先後補)
内刳りはなし
蘇芳色を素地の上からかける「檀像系の彫刻」で、瞳には黒珠を嵌めこんでいます
髻(もとどり)可愛らしく結い上げて、天冠台の正面の輪から前髪がチョロンとでています
お顔の側面をみると、やはり天冠台の輪から後ろに流した前髪がチョロンと出てます(ちょっと真似できない斬新な髪型です)
毛筋は彫られず、生クリーム状というか…(もっと良い表現があるはずだ…)
全身像をみると、右足を踏み下げていて、右手を下し、左手を挙げている半跏像(この左手が後補)
天衣はぐにゃぐにゃぐるぐるとにぎやかです(どういう生地を使ってるんだか…)
面白いのは背面です↓
天冠台は可愛らしく頭の後ろで結ばれています(のし袋の結び方みたい←もっと良い表現があるはずだ)
背中で布がX状に交差しています
右肩から左腕に下がるのが天衣、左肩から右肩へひらひらしているのが条帛です
腰に回るベルトは紐二条、真ん中のボタンみたいな丸いところには連子紋があしらわれ、オシャレさん
この像は、檀像風彫刻の白眉といわれ、カヤ材を使った日本製の「唐風」の檀像であるということのようです
ということは、この仏像を制作させた人は、最高レベルの仏師を起用できる人物であったということが推定できます
それって誰?🤔(あとで考えます)
如意輪観音か、虚空蔵菩薩か
この硬質の美しい仏像は、上にも書いたとおり、寺伝、国宝指定名ともに「如意輪観音」であるとされています
これに対し、「いえいえこれは虚空蔵菩薩です」という考え方も存在します
さて、どっちでしょう?🤔
①如意輪観音であるという考え方
「如意輪観音像」は、密教では六臂(六本の手)の仏像です
これに対し、宝菩提院の像は二臂…4本も足りない!
この手の数の大きな食い違いは、古い時代の如意輪観音像の例(2例=石山寺と岡寺の如意輪観音)が二臂であることで解決できるようです
石山寺如意輪観音像(二臂)(もう直ぐご開帳)
岡寺如意輪観音像(二臂)
この二体と同様に、宝菩提院の半跏像も「二臂の如意輪観音」として信仰されたと考えるのです
②これに対し、「虚空蔵菩薩像」であるという考え方があります
本像の右手は当初からのものですが、左手に関しては後補のため当初とは違う形、すなわち「宝珠を載せた蓮華を執っていた」と考えられるそう
そうであれば、『虚空蔵求聞持法』の虚空蔵法本尊に則るすがたであるという考え方
でも、ここで虚空蔵菩薩が出てくるのはなんだかちょっと唐突な感じがしますよね?
これには、あの空海がからんでくるようなのです(こっちも唐突)
どういうこと?
乙訓寺と空海
昔々、長岡京市今里という場所に、乙訓寺というお寺がありました
このお寺、出土瓦からは7世紀半ばには存在したことがわかるそうで、長岡京(784年遷都)の代表的寺院だったそうです
もう一つ、長岡京で起きた藤原種継暗殺事件(785)の際には、あの早良親王がこの乙訓寺に幽閉されたこともあったそうです
①空海が最澄に示した虚空蔵菩薩
そんな乙訓寺ですが、811年10月には、空海が別当となって寺に入りました
1年しか経たない、翌812年10月には空海は高雄寺=神護寺に移ってしまいますが、その直前に、こんどは最澄が弟子の光定と一緒に乙訓寺を訪ねて一泊しました
「空海書状」(奈良博)によれば、その一泊した時に、最澄は空海から「二部尊像・曼荼羅」を示されたんだそうです
この「二部尊像」は、胎蔵(界)・金剛界に属する尊像の画とみられ、うち一尊は胎蔵界虚空蔵院の虚空蔵菩薩であった可能性があるそうなのです
②空海の虚空蔵求聞持法による修行
一方、空海が若い頃には、虚空蔵求聞持法をもとに修行をしていたことはよく知られています
空海の『三教指帰』(24歳)には、18歳の時に一人の沙門がいて、求聞持法を呈したとあります
空海は、この虚空蔵求聞持法の真言を一百万遍誦すれば一切の経法の文義暗記することを得るといわれ、室戸岬で修行しました
また、『真済僧都伝』には、室戸岬で修行の時の空海について、「閉目、観之。明星入口」と書かれており、
『御遺告』には、石淵(勤操)が空海を大虚空蔵の世界に導いたとあるそうです
①②からは、空海と虚空蔵菩薩との深い関係を知ることができます
他方、宝菩提院にある件の像を考えると、当時このようなハイレベルな造像を行わせることができた人物は、空海以外に考えることができません
空海は中国に滞在していた時に多くの仏像を現地で見る機会があり、多くの経典を日本にもたらしています
このように、中国での豊富な経験があり、虚空蔵菩薩との深い関係がある天才空海の采配により、宝菩提院半跏像のような素晴らしい仏像が造り出されたと考えられるのです
したがって、この像は虚空蔵菩薩であると考えられるのです(私が言っているわけではなく、そういう説のご紹介デス)
虚空蔵菩薩って何?
では、虚空蔵菩薩って一体何でしょうか?
虚空蔵菩薩(アーカーシャガルブハ)の「虚空」は無辺の大きさ、「蔵」は欲するものすべてを施す大宝蔵を現し、「虚空蔵菩薩」は虚空の如く無量の知恵や功徳を像する菩薩ということになります
①古密教系の虚空蔵菩薩
古密教系の経典のうちの一つには、「観虚空蔵菩薩経」(曇摩蜜多訳、442年)があり、これをもとに作成されたのが「信貴山縁起絵巻」に遺される東大寺大仏殿の中の脇侍像です(だがしかし、描かれていないのです!)
朝日出版社『国宝の美』31より、↓画像撮りましたので、白い矢印が何か所も見えますが、これは『信貴山縁起絵巻』中の東大寺大仏殿前で「尼公」が異時同図法により移動しているさまを説明したものです(本ブログテーマとは無関係)
この図を拡大してみると↓、大仏の左手奥には四天王のうちの多聞天がちょこっと見えます(黄緑の枠)
これは大仏殿の多聞天(毘沙門天)が、「毘沙門天のいる信貴山へ行け」と尼公に夢の中で告げている様子を描いています
よく見えないかもしれませんが、左足を踏み下げています
これが、当時の脇侍の一体である如意輪観音像で、これとは反対側の閉ざされた扉の向こうには虚空蔵菩薩がいるはずなのだそうです(絵では扉が閉まっていて見えないんだけど)
②奈良時代~平安前期の虚空蔵菩薩
この頃になると、虚空蔵菩薩の信仰が高まり、造像が盛んになりました
『虚空蔵求聞持法』(正式には「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」←長い)は、717年善無畏訳の経典で、そこには虚空蔵菩薩の「画像法」について次のように列挙しています
「身作金色」(体の色は金色に作る)
「宝蓮華上半跏而座」(宝蓮華の上に半跏で座る)
「以右圧(押)左」
「於宝冠上有化五仏像」(宝冠に化仏をのせる)
「菩薩左手執白蓮華」(左手は白蓮華を執る)
「於花台上有如意宝珠」(左手の白蓮華の上には宝珠をのせる)
「右手復作与諸願印」(右手は与願印)
…などと書かれていて、これをもとに宝菩提院像は作成されたと(虚空蔵菩薩だと考える説では)言っています(私が言ったわけではない)
左手が後補なので、もともとは掌が上向きで、そこに宝珠をのせた蓮華を執っていたという可能性はありそうですね
『虚空蔵求聞持法』を請来したのは誰?
長くなってきたので、サクッといきたいと思います
空海が修行した『虚空蔵求聞持法』ですが、これを日本に請来したのは誰でしょう?
どうやらいろいろな偉いお坊さんがいるようなのですが、
例えば、
道慈…この方は、奈良時代に唐に行った方で、善無畏にあったんだそうです
大安寺の造営にもかかわりましたが、求聞持法を持ってきたという伝承があるそうです
それから、何人かを一気に飛ばして、
結局、空海にたどり着くわけです
ごちゃごちゃしてきましたが、結局、初めの方で書いたように、
宝菩提院の半跏像は、寺伝の如意輪観音ではなく虚空蔵菩薩である可能性が高い(という説について比較的詳しく書きました)
その根拠をもう一度まとめると、
・空海が乙訓寺で最澄に示した図の中に胎蔵界虚空蔵院の虚空蔵菩薩があったこと
・空海が『虚空蔵求聞持法』で修行したこと
・『虚空蔵求聞持法』にある画像法では、左手は宝珠をのせた白蓮華を執るとあるが、宝菩提院像も制作当初はこのような像容であった可能性が考えられること
・この時代に空海の他に、宝菩提院像のような優れた仏像を指導できる人が他に見当たらないこと
です
それから、如意輪観音は基本的には六臂で(石山寺と岡寺は二臂)、宝菩提院像は二臂であることも、この像が「如意輪ではない」という根拠に数えらえると思います
なお、この像の造像については、他の見方として、
カヤの一木造で黒い珠を瞳に嵌入した像である大阪藤井寺市の道明寺の本尊十一面観音像(本堂安置)との共通性から、道明寺が帰化人系の土師氏の氏寺(土師寺)であることを根拠にして、桓武天皇の延暦年間(782~805)、嵯峨天皇の光仁朝(810~823)ごろの造仏とみる見方もあるそうです(もうよくわからん…)
ところで、宝菩提院像が虚空蔵菩薩であると称えられたのは、慶応大学名誉教授であった紺野敏文先生です
私は少なからず先生に御縁がありましたが(それは省略)、昨年お亡くなりになりました
謹んでご冥福をお祈りします
さて、宝菩提院をあとにして、こんな細い道を下りていくと
勝持寺(花の寺)が隣にあります
途中にこんな場所がありましたが、読みたい人どうぞ読んでください
だがしかーし、私たちがここに行ったのは2月
勝持寺は一年のうち、2月だけ、拝観停止なんですって!なんでだよー!
扉の穴から覗いてみたりしましたが、入れませんでしたー
しかたないので、下界におりることにしました
↓こんな場所です
この日はとても寒くて、部屋に戻ってから
大昼寝大会となったのでした(わりとよく開催されます)
おしまい