【からはだふくらか】と関係のあった方がすべて
死ぬその時まで快いカラダになって
愉しく悦びにあふれた毎日を過ごしていただき
わたしは豊かな暮らしをすることができます
ありがとうございます
私は地球に人間という存在は本当に必要なのか?
ということを小学生くらいの頃からずっと考え続けていました。
森林を開拓という名で砂漠化して、放射能をばらまいて、他の生命を絶滅させて、水や空気を汚染して。
人口の拡大と他の生命の減少は相関関係にあって、今、人間は全く地球にとって害でしかない。
夏が近づくと平和教育とかが行われて、みんな「戦争はいけないと思います」的な感想を言って満足して終わる、みたいなことが繰り返されていたんですが、私は、そう?人間いらないじゃん。戦争でも何でもやって勝手に滅びて良いんじゃない。という考えが一方にずっとありました。
人間だけ滅びる爆弾とか作っていなくなっちゃえ、とかね。
だから自分自身についても、生きていて御免なさい、いつ死んでも構いません、という心持ちでずっと生きています。
それが高校の頃に生きていたくない、ということにもつながって、毎日が辛かったんですが、とりあえず自分で死ぬ勇気もないし怖いから生きとこう。それでももし誰かの生命を奪わなければならないような状況になったときには自らの命を絶とう、とふんわりと決心したんですが、一応それで少しは吹っ切れました。
しばらくして沖縄で古本屋で働いていた時に
この本と出会って、初めて人間という存在にも役割があったんだ、と教えてもらったんです。
人間に授けられた知恵は、宇宙も含めた自然が、生命に対して甚大な被害を及ぼすようなことになりそうなとき、最小限に食い止めるために使うためのもの。その為に私たちは生きているんだ、と。
ここで初めて私は自己肯定感を持てるようになりました。
今はだから全く逆に知恵を使っている、頭を働かせている。
この為に必要なのは西洋的な、自然や他の生命を人間に従わせる、という思想ではなく、まさしく日本的な、一方で畏怖し、一方でその恩恵をありがたく頂戴する、という向き合い方で、どこまでいっても人間が主役ではあり得ないということです。
今流行のメイドとか、執事とかのポジションですね。
ウィルスが宿主に寄生しないと生きていけない存在であるのと同じように人間は他の生命がなければ生きていくことは出来ない、というごくごく当たり前のことです。
身体はすでに完璧なものなのに、ほとんどの人が何かしら不調を抱えている、2人に1人はガンになる、なんていう状態なのも、この当たり前を当たり前と考えていないからです。
人間を主役として勘違いするから食料とか燃料とかの取り合いになって、地球ではもう住めないから他の惑星へ移住、とかいう夢と希望をより所にしたファンタジーになっちゃうんですが、自分達の役割をしっかり見極めて、そこで最大限の叡智を発揮すれば自然破壊なんて起こりっこありません。
スーパーシティとか、SDGsとか、ムーンショットが間違っていると私が言うのは、この大前提がそもそも間違っているからです。
他の生命がより良く生きていくことが出来ないんなら、人間は、いる意味が無い、いない方が良いんです。
この本のように、この世界がチャレンジしては失敗、コンティニューして次こそは成功しようと、何度も繰り返されるものなのか、それとも平行宇宙がいくつもあって同時に微妙に違ったチャレンジが行われているのかは分かりませんが、私は今この世界で答えは見つかっていると考えています。
だから後は実践できさえすれば上がれるはずです。
その答えがここにあります。